団塊オヤジの短編小説goo

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都月満夫の短編小説集2

「容姿端麗」
「加奈子」
「知らない女」

都月満夫の短編小説集

「キヨシの帰省」
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」

2009年はあなたにとって、どのような年でしたか?

2009-12-28 13:38:06 | トラ場(ブログ人投票箱)

「良い年だった」かどうかは、あくまで本人の価値観であり、外見から、または他人から言われるものではない。

「良い年だった」かとは「幸せだったか」ということだろう。

幸福(こうふく、英:Happiness)とは、自ら満ち足りていると感じており、安心している心理的状態のこと。

 と、堅い話はこれくれえにして、オレは特別良いこともなかったし、悪いこともなかった。つまり、平々凡々に毎日が過ぎていった。それは、オレが特別な何かを求めなかったということに他ならない。

 この歳になると、彼女を追い求めるでもなく、仕事に追われるでもなく、時が流れていく。時の流れに身をまかせ~♪という歌があたっが、まさにそのように時が流れた。流れに棹差すこともなく・・・。時間という舟に乗ったまま・・・。

 ああ、なんだか調子でねえな。年末で感傷的になってるのかな。らしくねえな・・・。

 要するに平凡な一年だったてことだよ。しかし、「平凡に勝る幸福なし」というから、いい一年だったってこった。めでたしめでたしだよ

したっけ。

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「八百屋お七」について考える

2009-12-28 11:42:01 | 雑学・豆知識・うんちく・小ネタ

八百屋お七1666年~1683 (寛文6年~天和3)ほど、誰もが知っているわりに、真相が分かっていない事件も例がない。実在した十六歳の少女で、鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑にされたのは事実だが、その真相については恋の炎に狂った末の放火と云われているが、今もってはっきりとした証拠の文書などが発見されていない

「八百屋お七」の起こした放火事件天和2年(1682年)1228。今から300年以上前の事です。

Photo_4 Photo_5 現代の世にも伝えられている理由はなんと言っても井原西鶴が書いた浮世草子「好色五人女」で、実際には小火だったものを、それでは物語に盛り上がりが無いので江戸を火の海にしたということにして発表した。

河竹黙阿弥などが脚色し、芝居や人形浄瑠璃によって日本の津々浦々まで知れ渡っていった。当時16歳の女の子が好きな男の人に会うために放火という手段を選んだ事、その結果火あぶりの刑に処されたとされた事で、今も人気の出し物である。

「お七」は下総国千葉郡萱田(現・千葉県八千代市)で生まれ、後に江戸本郷円山で八百屋を営む江戸の八百屋山瀬太郎兵衛の養女となった。

平凡な暮らしが続いていましたがこの実家の八百屋がある日火事になり、一家の避難先になったのが本郷浄円寺坂の円城寺Photo_3

ここで「お七」は山田佐兵衛という20才の男と知り合いたちまち恋をしてしまうのです。

寺内で佐兵衛との逢瀬を重ねていましたが、八百屋の再建が無事終わり、「お七」は実家に帰ることに・・・。

Photo_2 その結果、もう今までのように佐兵衛に会えなくなってしまったのです。

会いたい気持ちが抑えられなくなった時、「お七」の脳裏に「もう一度家が火事になればまた会える・・・。」

これは「お七」自身の思いつきか、一説には寺の門番の息子で「お七」の恋を取り持つと言っては小遣いをせびっていた吉三郎が「実家がもう一度燃えたらまたここで避難生活をして佐兵衛に会える」と、そそのかしたとも伝えられています。

この時、「お七」の頭の中には佐兵衛に会いたい一心で他の事が考えられなかったのでしょう。

自宅の物干し台に上がり、油を注いだ柴木に火をつけ再建出来たばかりの自宅を再び火にかけてしまったのです。

火は瞬く間に自宅だけでなく江戸中が火の海になり死傷者で埋まると言う悲劇は、一人の娘が恋心のために犯した罪は余りにも代償が大きすぎました。ご存知のように結果は火あぶりの刑に処されました。

というのが物語であります。

歌舞伎のストーリーはあくまでも井原西鶴が物語として書いたものがもとになっています。

Photoその時彼女はまだ16歳(当時は数え年が使われており、現代で通常使われている満年齢だと14歳)になったばかりであったことと、小火であったため町奉行・甲斐庄正親(かいしょうまさちか)は哀れみ、何とか命を助けようとした。

当時、15歳以下の者は罪一等を減じられて死刑にはならないと言う規定が存在したため、甲斐庄はこれを適用しようとしたのである。厳格な戸籍制度が完備されていない当時は、役所が行う町人に対する年齢の確認は本人の申告で十分であった。

甲斐庄は評定(ひょうてい)の場において「お七、お前の歳は十五であろう」と謎を掛けた。

それに対し彼女は正直に16歳であると答えた。甲斐庄は彼女が自分の意図を理解出来てないのではと考え、「いや、十五にちがいなかろう」と重ねて問いただした。

ところが彼女は再度正直に年齢を述べ、かつ証拠としてお宮参りの記録を提出することまでした。これではもはや甲斐庄は定法どおりの判決を下さざるを得なかった。

1683年(天和3年)329に江戸小伝馬町の牢屋敷から市中引回しの上、品川鈴ヶ森刑場で火炙りに処されたのである。

「お七」の生年は1666とされており、それが丙午の迷信を広げる事となった。

八百屋(やおや)

Photo_6 野菜類を販売する商人または店。自家生産の野菜類を町で振売りする小商人はすでに10世紀ころからみられた。

都市住民の生活向上に伴い、その需要に応ずる店売りは17世紀に始まった。そこではいっさいの精進(しょうじん)の調菜(副食物)、乾物、海藻、木の実、草根などを扱っていたので八百屋といった。

八百はたくさんと言う意味で、数多くの物を扱うところからきている。最初のうちは「八百物屋(やおものや)、あるいは「八百屋店(やおやだな・やおやみせ)と呼ばれていたが後に八百屋にと呼ばれるようになった。ですから「八百屋」の初は野菜屋とはかぎらなかったのです

これが18世紀に入ると、商品は野菜類に限られ、葉菜類(青物)、根菜類(土物(つちもの))、果菜類(前栽(ぜんさい)物)だけが店頭で商われた。

都市の青物市場へは近郊の農家から集荷された。八百屋はそれを仕入れて小売りをした。また、担売りもあり、これは八百屋のほかに近郊農家のものも多く、青物売りとよばれた。

19世紀後半になると、小売りの八百屋は果物も扱って青果物商となり、また第二次世界大戦後はスーパーマーケットや産地直売の普及につれて、缶詰、瓶詰類も置く食料品店化しつつあり、成立当初の八百屋に戻っているといえる。

なお、野菜を行商する女性は今日でもみられる

Photo_7 また、商業写真や舞台セットで物品を斜めに配置することを「八百屋にする」という表現が使われることがあるそうです。

したっけ。

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倉内佐知子

「涅槃歌 朗読する島 今、野生の心臓に 他16篇(22世紀アート) 倉内 佐知子 22世紀アート」

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