創造性の開発 新規商品を企画しよう

新規商品企画の成功学
求むる所第一義
随時随所楽しまざるなし

外れた褌にウン

2017-09-17 04:00:06 | Weblog

 おはようございます。

 今日は商品開発とは無関係の話です。商品企画とはを知りたい人に役立つ話でありません。

 私は先輩と仲良くする質のようでしたが、仕事は自分が考えたようにしたい性向がありました。大なり小なり、多くの若者に見られる性向かもしれません。すみません、脱線しますが、後日、なるべく早く本の紹介に戻ります。

 OCR開発課に転勤し、最初にお手伝いしたのが板金設計でした。私は大学も修士もシステム開発もコンピュータのアプリだけでした。板金設計は私の一番難しい仕事でした。OCR装置を覆う鉄の薄板の設計、板金設計は精度の定義が難しいのです。自動車の外板なら、精度の良い高い圧縮圧で成形できます。それでも跳ね返りの誤差の見積もりが困難です。そのようなことは講義で聞いたことがありました。

 当時のOCRの制御回路や認識回路は開発途上。客先の装置も回路基板を差し替えることもあり、メンテナンスのために筐体を覆う板を容易に外すことも必要でした。高速に紙を送るため、メカが多く、音が出て、防音機能も必要でした。

 卒論の設計で歯車やバネやネジの設計を経験していましたが、お手伝いすら満足にできませんでした。1年間、板金設計の勉強をしただけのようなものでした。この間、班長に公私にわたり、すっかりお世話になりました。商品はほどほど売れ、システムの販売に貢献しましたが、私の企画ではなく、売れた理由は分かりません。ですから分類もできません。

 この商品開発の班長は長野の人、長野工場転勤になり、マンションの彼の部屋が空き家になり、代理管理をお願いされました。安い賃貸料で私が仮住まいをしました。同時に他のOCR課の先輩が財産形成が得意でした。アドバイスをしてくれ、富士通不動産が売り出した一戸建ての土地購入を勧めてくれました。こうして班長が川崎に戻るとき、私は家を建てることにしたからです。

 しかし、5年ほど後、富士通の長野工場が縮小されました。彼は熊谷工場長に栄転。川崎勤務も長野勤務も諦めたと言いました。熊谷に家を建て、私にマンションの部屋の購入を勧めてくれました。父と義父に相談し、彼らから借金し、市場価格より安く買えました。彼からは感謝されました。しかし、あて事と褌は先から外れます。事態は思わぬ方向に変化して行きました。

 今日はここまでにします。

コメント
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