おはようございます。
次に担当したのが新しい方式の読み取り部の開発と設計でした。私もOCR課の誰もがCRTや大口径レンズなど全くの素人、本来、研究所ですべきテーマでした。させた理由は補助金を使いたかったからでしょう。私はど素人なのにCRT方式のスキャナーと大口径レンズの設計を担当。補助金行政で、また補助金とはを勉強できました。
新しい班長さんは素晴らしい人格者。しかし、頭が良いが声が小さい人でした。多分、課長に無理やり、高速OCRを、すなわちIBM370対抗機の周辺装置を担当させられていたのでしょう。彼と私は自宅が近く、車で毎日送ってくれました。車の中でいろいろ話を聞きました。会社の裏も車の選び方も子育ても教えてもらいました。OCR、車、IBM、そして転職、非常勤、学校の情報化について、彼はいつも私の先を行っていました。
高速OCRプロジェクトは突然止めになりました。酷い人員不足。彼はOCRから開発方針調査に移り、彼はIBMのFS訴訟の秘密資料を持っていました。私は研修センターに隠れ、そのFSの資料を読みました。方式部は手分けして翻訳していたと思います。真面目な彼はこの様な会社の姿勢に耐えられなかったのか、会社を辞めました。IBMに追いつけ追い越せは彼にあっていなかったようです。私には良いも悪いもありましたが。
彼は富士通ではなくホンダに行っていたら間違いなく出世した人でした。彼のホンダ車のメンテナンスは自分でやっていました。私は彼のお蔭で、富士通に入社する以前の2台の車と、非常勤を首になった以降の最近の2台のトヨタ車以外、全てホンダの小型車でした。シビック、アコード、コンチェルト、ドマーニ、モビリオ、ストリームと、全て数年乗って、乗り換えました。
思い出しました。MICR高速リーダーも開発中でしたが、多分開発停止になったはず。この装置も仲の良かった先輩が開発担当者、一人で大型の装置を開発していました。南多摩工場に開発が彼と一緒に移管されたころ、彼は会社に来なくなりました。時々会社に来られなくなる人は当時の富士通にいました。残業が半端でなく、厳しい仕事でしたから。今の残業150時間も当時と比べたら甘い数字です。
これらの高速入力装置は370対抗機開発の補助金頼り、課長や部長がなぜ指示したか分かりませんがゲスはできます。補助金をゲットしたかったのです。その資金は潤沢でも、開発者は不足、と言うよりいない上に、責任は全て班長一人であり、売り易い商品の開発にも利用されたのかもしれません。
富士通時代、私も補助金行政の恩恵を受けていたのかもしれませんが、商品開発は課長の指示でもよく考えて、自分で選択しろということは確かです。今日の記事は課長の指示に従い、失敗した話です。
今日はここまでにします。