おはようございます。
今日も昨日の続きです。当時の関係者以外読んでも面白くないと思います。すみません。
私はボーナスの2年分ほどを親から借金し、班長だった熊谷工場長のマンションを買いました。コマ切ればかり食べ、計画通りに親に返せました。これはラッキーでした。
でもその前に買った土地代金の借り入れは銀行からでした。保証人は会社でした。全額借金でした。退職しても、借り入れは継続し、返せば良いと思っていました。富士通の川崎勤労課も気が付かず、退職決済、後になって気が付いたそうです。従業員を縛るのが融資の目的でした。退職時に全額富士通に返すのがルール。あの東大野球部先輩の本社人事担当者が指摘し、勤労課に煩く言ってきました。頭の良い、腹黒い奴に、私も勤労も困りました。
勤労課長が工場の取引銀行を紹介してくれ、親の家を抵当に、9%の高い利率で、1000万円近く借り入れました。やっと富士通にお金を返しました。そして工場内にあった富士通不動産が私の住まいを借り上げ社宅にしました。1000万円の返済ができる賃貸料にして。ですからこの借金は知らない間に完済し、この銀行口座に預金もできました。ebisu先生が言う、三方得の事例かも。
川崎の勤労の人は優しいが、当時の富士通の退職者は苦労したようです。本社人事から脅されたと言っていた友人が複数いました。今なら訴訟問題です。人も色々です。上位の人の一部が高圧的なのは、どこでも、何時の時代もかも。情けない人が多いものです。
こうしてお金の心配もなく、私はシャープ奈良工場に異動。工場脇の社宅に入りました。町田と同じ間取り、部屋代も電気水道代も工場並みに安価。当時はプール、体育館付の優良会社でした。娘は素晴らしい幼稚園にすぐ入園。息子はザリガニや金魚と遊びました。休日は一家で神社やお寺めぐり、山歩き、鹿と遊び、娯楽費はタダのようなもの。子供教育の基本はできました。本当にラッキーでした。
奈良で商品企画を5年ほどして、我が儘を言い、奈良の社宅住まいから、今度は柏に転勤をお願いしました。新しい研究所。社宅はなし。自分で見つけた新築住宅を借り上げ社宅にしてもらい、2年いました。分不相応な高額住宅。他社の遠方勤務者が借入金の返済のために、将来の東京勤務を見越し、建てた家。周りは高収入の団塊世代でした。私も家族も勉強になりました。そして、近くの発展中の町に家を購入しました。柏は合計10年住みました。
柏では私は楽に研究所勤務。メタボになりかけ、体調管理のために、同時に社員の健康維持のために、市民バドミントンクラブを主宰。日曜日の朝に、一家で参加できるクラブにしました。今も続いています。創立以来、来ている人が7人います。
お蔭で子供の教育に私は苦労知らずになりました。周囲に住む人やシャープ社員の色々な個性が子供たちをシチズンシップ教育しました。受験勉強も、周囲に刺激され、中学受験や難関高校の受験勉強をはじめたのんびり屋でした。
結果的に孟母三遷の教えになりました。バブル時代が超ラッキーでした。人間万事塞翁が馬。因果は巡る矢車の如し。不運も幸運も続くものです。
今日はここまでにします。