おはようございます。
レーザースキャナーを市販のOCRに使ったのは無茶。レーザーの実験は岩井麟三さんの指示でしたが、部長も課長も班長もアドバイスはほとんどありませんでした。むしろ実験だけして終わりにして、各種技術の考察をまとめるべきでした。中間管理職の腕の見せ所。今は若手の指導法が良く分かります。
商品化はしない方が技術の活用に関して将来性がありました。しかし当時、私がOCRの新モデルの責任者になったような感じでした。若い私は商品開発中止を言い出せません。上司は岩井さんの顔を気にしていたのか、今はよくありそうな話に思えます。
振動子のミラーは一番苦労しました。熱によって発信周波数が変わるため、特別なサンプリング周波数が生成できる回路も後輩と一緒に自作実験しました。振動子の形状も材質も色々工夫しました。でも同い年の先輩がこのミラー仕上げだけを担当。後輩の指示が不満なのか、間違った考察ばかりしました。年配連中は技術馬鹿の、管理無視のアホだったのでしょう。管理は難問なのです。
それでも私は我慢して彼にお願いし、作り変えてもらい、OCRとして読み取り精度も満足なレベルになりました。ここまでに、すでに半年ほど計画遅れでした。しかしシステムは客先にすでにあり、OCR装置を待って居ました。
OCRの導入時、責任者は私だったのかも。後輩二人が回路設計と認識論理回路の設計担当。彼らを連れて毎日客先に調整に行きました。彼らが後に出世した話はすでに書きました。少し付言します。納入後に読み取りエラーが続発し、3人だけでコンピュータ室に通いました。
毎日、2か月弱、熱い盛りに池袋から15分ほどの私鉄から歩いて10分ほどに通いました。朝から晩まで3人で調整作業。工場には朝か夕方に出社。当初、システム担当の責任者は怒っていました。専用のデータ入力担当を雇っている、合理化できない、などと言われていました。
毎日、私たちは日曜祭日以外、2か月通い、彼は可愛そうだと思い始めたのか、富士通に機械を戻そうと思ったのか、優しくなり始めました。昼ご飯をご馳走してくれるようになりました。そのような時に奇跡が起きました。読み取り精度が急に向上し、データ入力者が不要になりました。このOCRは5年間調整なしに動作しました。南無大師金剛遍照。奇跡的でした。
後に同期入社の2年後輩は社長レベルまで出世。シャープぺいぺいの私は、協業の可能性調査のために彼らを訪れたことがありました。協業しなかったのは、我々は無関係。シャープが奢っていたからです。私の定年の頃までシャープは液晶の超優良企業。奢るものは久しからず。回復すれば奇跡かも。
私は出世など無関係。不思議ではありません。新規商品や新規事業はやりがいがありますが、ビジネスとしては成功しづらいものです。全社的な応援がいるのです。創造性開発とは本質的に個人の課題なのです。社員教育すべきテーマですが。
失敗続きのOCR開発で私たちが得られたノウハウはさまざま、創造性も粘りも部下の管理法もでした。でもその創造性や管理法などまだ初歩レベルでした。
今日はここまでにします。