徒然にふる里を語る

 一市井の徒として、生まれ育った「ふる里」嬬恋村への思いをつづります。

前編

2020-04-10 11:23:39 | Weblog

 非常事態宣言を発しても、スピード感のない政府の対応に、イライラがつのる。二兎は追えない、と思うのだが。

 今日は「嬬恋物語」から、昭和38年2月、嬬恋西中学校の一風景をお届けします。私にとっては、入試の発表日です。少し長いので2回に分けます。

 

    電 報-前編

 冬ばれの朝、白い息を吐きながら私は登校する。中学校は歩いて十数分のところだが、ダラダラと上っているので、校舎につく頃には少し汗ばんでくる。道路に雪の無い時は自転車で通っていたのだが、流石に受験を控えてそれは遠慮していた。教室ではストーブが赤々と燃えており、私は窓際の最後列に座る。ストーブが放す熱は余り届かないが、授業中先生の目を盗んで、瞑想に耽るのには最高の席である。
 目をやるとそこはグランド。所々土が覗いているが、まだまだ雪の下である。その雪の下には入学以来3年間の「僕ら」の悪行が眠っている。悪行と言えば、学校での楽しみは何と言っても、給食とクラブ活動であった。何故クラブ活動かと言うと、時々給食の余りが頂けるからだ。練習に疲れると僕らは調理場を覗く。すると心優しいオバサンがいて、余ったパンなどを出してくれるのだ。それを山分けして、渡り廊下の陰で貪るのだが、当然下級生には回らない。監督である新米の女性教諭の目を盗んで、頂くと言う寸法である。すきっ腹を抱えていた「僕ら」の頭の中は、何時も食べ物で一杯であった。これで何とか倒れずに家まで帰れると言うものだ。
 そんな「トムソーヤ」のような日常を送っていた私達だが、夏休みが終わると、自分の進路を決めるという、最初の試練に直面する。私のクラスの担任は、学徒出陣の経験を持つ、青年将校上がりであった。軍隊流に平手でなぐる、チョークで頭を小突く、挙句には皮のスリッパで私達を殴りつけるのである。今ならマスコミが即飛んでくる事案だが、当時は問題にすらならなかった。私達は何故殴られたか解っていたし、親に訴えたところで、殴られたくなかったら先生の言う事を聞け、で終わりだ。恩師の名誉のために付け加えるが、しばしばスリッパで殴られた訳ではない。スリッパが飛ぶのは、大抵、嘘をつくか、下級生や女性をイジメた時だ。私が仲間をそそのかして練習をサボり、新米の女性教諭を泣かせた時には、スリッパの往復ビンタが私の頬に炸裂した。 (明日に続く)


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