おはよ。
東北巡業?中、店の留守番電話にお客様からご注文を頂いておりました。
あたしが居なくても商売させていただきました。
ありがたいですね。
そのために仕入れた商品の値札を、朝から付けました。
早起きなものだから、することがなくて、ついお仕事をしてしまう。
ありがたいですね。
さて、値札を付けるといよいよ本当にすることがなくなりましたので、ブログを書きます。
このブログは、ひまつぶしを兼ねています。
では、東北ツーリング 3日目。
6月12日 この日も5時には出発。
勝手に目が覚めるのも事実ですが、実は早朝に出かけるのには訳もある。
ある程度の距離を走るとなると、まして、市街地を走るとなると、例えば朝のラッシュ時にぶつかりでもしたら大変効率が悪いのね。
まだ世間様がお休みのこの時間帯は、移動距離を稼ぐには大変都合が良いのだよ。
そんな理由もあり~ので、いつもながらの早朝の出発でした。
本日はいよいよ、津波の被害をもろに受けた地域を走ります。
昨日の松島から一般道となります国道45号線を北上します。
この道が、海沿いの道になるんだな。
仙台をでまして、三陸自動車道という高速を通って45号線へとつながります。
そしてまずは、石巻から少し内陸を走ってやがて南三陸町。
それは、山を走ってきたあたしの目の前に突然現れました。

住居の基礎だけを残して、何もない。
それまで走ってきた道の両側には、見慣れた街の風景があったのにですよ。

平面の高さが同じだけ続くところまで、全て破壊されておりました。
咄嗟に浮かんだ言葉が「焼け野原」
戦争体験者が言うところのこの言葉が、焼けてはいないんだけれど、全てを灰燼にされてしまったまっ平らな場所のこの光景から浮かんだんだな。
亀太郎を止めて、しばらく歩いてみました。



震災から1年以上経っていて、人の気配はなく、ガレキの撤去も進んでいて、それはとても無機質な印象を与えていましたが、ただなぜか空気だけは粘つくような気がしたのは、あたしの心象だったのかもしれません。
かつてエスミンがここを訪れたとき、「ぼくはカメラを置いた」と言っていましたが、記録するべきものよりも圧倒的なものがありました。
無残・・・
他所者のあたしですら感じるものを、あの日あの時ここにいた人たちはどうやって乗り切るのだろうか?
しばらく歩き回っておりましたが、やがて亀太郎にまたがりまして、逃げるようにそこを後にいたしました。
その後、高台にあります志津川中学校というところに立ち寄ってみました。
エバさんが支援のために社員を送っていると言っていたのは、ここではないかな?
そんなことを考えつつ校舎を覗いてみましたが、すっかりと平常の様子で、なぜか安堵したPでした。
ちょうど登校時でしたので、学生が麓からやってきております。

女の子二人にすれ違いざま「おはようございます」と声をかけてみれば、「おはようございます」と笑顔で答えてくれました。
おじさん、なんもでけんけど、がんばってね・・・と心でつぶやきました。
その後も45号線を北上。
海沿いの道路では、延々と同じような光景が続きます。

気仙沼を越えて、陸前高田へ。
ガレキの山・・・これがあちらこちらにあります。

そして、道から見つけた「奇跡の一本松」

実際な~んにもないところに、一本だけあるから目立ちます。
良く生き残ったよなぁ、お前。
なおも北上を続け、小休止。
お伝えしましたように、海岸沿いにはとりあえず家がないから人がいない。ということで店がない。
そんなところにあるのはこんなところ。

プレハブづくりのローソンです。
寒いのでオデンで朝食。

(じつはあたし、コンビニのオデンを初めて食べました・・・おいしかったよ)
まだまだ走り続けまして、宮古市田老町までまいりました。
今日の海沿いの道はここが終点の目的地。

少し高いところからの様子ですが、これが道中、延々続いておりました。
・・・
南三陸町からずっと、あたしの頭の中では「般若心経」がエンドレスで流れておりました。
さて、田老町からは内陸に進路を取りまして、今日の宿泊地遠野を目指します。
そうそう、さっきも書いたけど、ちょうどお昼になった頃、ご飯を食べようと思ったんだ。
せっかくなら、被災の地でやっているお店があれば、そこで食べようと思っていたんです。
テレビでも、何度か仮設の商店街みたいなものを見ていたから、そんなものがあると思っていたんです。
でも、田老町には残念ながらなかった。
仕方がないので、しばらく走って、街中のラーメン屋さんがあったからそこで食事。

メニューに「ネギラーメン 復興支援特別価格」と書いてあったのでそれを頼んでみた。
ささやかでも支援できたらよいではないか・・・と思っていて、また後から気がついた。
聞けば、それは普段の値段より特別に安くした値段だったのね。
そんなことなら、普通のものにしときゃよかったと思ったPでした。
さて、長い話だな・・・
遠野につきましたのが午後3時過ぎ。
少し早く着きすぎました。
今回もナビ子ちゃんのおかげで、ピンポイントに到着したのがこちら

遠野ユースホステルです。
外見は大したことはないが、これが普通のユースです。
外にオッチャンがいましたので聞いてみた。(この人がペアレントさんね)
「何時から入れますか?」
「4時からならいいよ」
と言ってくださったので、少しばかり時間を潰そうとオススメのところを聞いてみると「ふるさと村」というところを紹介してくれた。
しばらくそこで遊びましょう。
ほどないところにそれはありました。

何をするところかというと、かつて柳田國男という人が「遠野物語」という本を書いていて、そこではこの地に伝わる多くの民話を紹介しているのです。
座敷わらしだったり河童だったり山男だったり雪女だったり、そんな人のすぐそばにいそうな妖怪もののけのたぐいの話が多いのですが、そんな話が生まれた理由が、実はこの遠野という土地に来て初めて理解できるのでした。

九州の阿蘇に近い気がします。
山に守られて人が暮らしている・・・そんな感じ。
そして、そんな人々の昔の暮らしを再現しているのがふるさと村でした。


昔ながらの家には馬もいたんです。

4時を過ぎまして、再度ユースへ行き、入室。
と・・・入ってみて驚いた。
外観とは裏腹に、設備が大変整っております。
例えばお風呂。
綺麗なブルーの浴室に、ジャグジーが、そして、ヒノキの露天風呂が・・・
ただものではない気配。
そして、食事もここで頼んであります。
ドン!

食前酒にデザートまで付いてきました。
後から知ったのですが、ユースの番付みたいなのがあるらしく、国内で5本の指に入るのだそうな。
さもありなん。
まだまだいろいろあるんだが、あまりに長くなるから端折ります。
やがて9時。
寝床であたしは今日を振り返る。
津波で残酷な光景を見たあと、遠野に来てよかった。
この土地の穏やかな空気は、確かにあたしを癒してくれた。
何も考えずに、適当にルートを作ったまでのことでしたが、良くまぁこれほど見事な一日になったものよと、どこのどなたかは存じませんが、あたしはその方に感謝しましたです。
ありがとうございました。
本日の走行距離 280km
3日目 おわり。
東北巡業?中、店の留守番電話にお客様からご注文を頂いておりました。
あたしが居なくても商売させていただきました。
ありがたいですね。
そのために仕入れた商品の値札を、朝から付けました。
早起きなものだから、することがなくて、ついお仕事をしてしまう。
ありがたいですね。
さて、値札を付けるといよいよ本当にすることがなくなりましたので、ブログを書きます。
このブログは、ひまつぶしを兼ねています。
では、東北ツーリング 3日目。
6月12日 この日も5時には出発。
勝手に目が覚めるのも事実ですが、実は早朝に出かけるのには訳もある。
ある程度の距離を走るとなると、まして、市街地を走るとなると、例えば朝のラッシュ時にぶつかりでもしたら大変効率が悪いのね。
まだ世間様がお休みのこの時間帯は、移動距離を稼ぐには大変都合が良いのだよ。
そんな理由もあり~ので、いつもながらの早朝の出発でした。
本日はいよいよ、津波の被害をもろに受けた地域を走ります。
昨日の松島から一般道となります国道45号線を北上します。
この道が、海沿いの道になるんだな。
仙台をでまして、三陸自動車道という高速を通って45号線へとつながります。
そしてまずは、石巻から少し内陸を走ってやがて南三陸町。
それは、山を走ってきたあたしの目の前に突然現れました。

住居の基礎だけを残して、何もない。
それまで走ってきた道の両側には、見慣れた街の風景があったのにですよ。

平面の高さが同じだけ続くところまで、全て破壊されておりました。
咄嗟に浮かんだ言葉が「焼け野原」
戦争体験者が言うところのこの言葉が、焼けてはいないんだけれど、全てを灰燼にされてしまったまっ平らな場所のこの光景から浮かんだんだな。
亀太郎を止めて、しばらく歩いてみました。



震災から1年以上経っていて、人の気配はなく、ガレキの撤去も進んでいて、それはとても無機質な印象を与えていましたが、ただなぜか空気だけは粘つくような気がしたのは、あたしの心象だったのかもしれません。
かつてエスミンがここを訪れたとき、「ぼくはカメラを置いた」と言っていましたが、記録するべきものよりも圧倒的なものがありました。
無残・・・
他所者のあたしですら感じるものを、あの日あの時ここにいた人たちはどうやって乗り切るのだろうか?
しばらく歩き回っておりましたが、やがて亀太郎にまたがりまして、逃げるようにそこを後にいたしました。
その後、高台にあります志津川中学校というところに立ち寄ってみました。
エバさんが支援のために社員を送っていると言っていたのは、ここではないかな?
そんなことを考えつつ校舎を覗いてみましたが、すっかりと平常の様子で、なぜか安堵したPでした。
ちょうど登校時でしたので、学生が麓からやってきております。

女の子二人にすれ違いざま「おはようございます」と声をかけてみれば、「おはようございます」と笑顔で答えてくれました。
おじさん、なんもでけんけど、がんばってね・・・と心でつぶやきました。
その後も45号線を北上。
海沿いの道路では、延々と同じような光景が続きます。

気仙沼を越えて、陸前高田へ。
ガレキの山・・・これがあちらこちらにあります。

そして、道から見つけた「奇跡の一本松」

実際な~んにもないところに、一本だけあるから目立ちます。
良く生き残ったよなぁ、お前。
なおも北上を続け、小休止。
お伝えしましたように、海岸沿いにはとりあえず家がないから人がいない。ということで店がない。
そんなところにあるのはこんなところ。

プレハブづくりのローソンです。
寒いのでオデンで朝食。

(じつはあたし、コンビニのオデンを初めて食べました・・・おいしかったよ)
まだまだ走り続けまして、宮古市田老町までまいりました。
今日の海沿いの道はここが終点の目的地。

少し高いところからの様子ですが、これが道中、延々続いておりました。
・・・
南三陸町からずっと、あたしの頭の中では「般若心経」がエンドレスで流れておりました。
さて、田老町からは内陸に進路を取りまして、今日の宿泊地遠野を目指します。
そうそう、さっきも書いたけど、ちょうどお昼になった頃、ご飯を食べようと思ったんだ。
せっかくなら、被災の地でやっているお店があれば、そこで食べようと思っていたんです。
テレビでも、何度か仮設の商店街みたいなものを見ていたから、そんなものがあると思っていたんです。
でも、田老町には残念ながらなかった。
仕方がないので、しばらく走って、街中のラーメン屋さんがあったからそこで食事。

メニューに「ネギラーメン 復興支援特別価格」と書いてあったのでそれを頼んでみた。
ささやかでも支援できたらよいではないか・・・と思っていて、また後から気がついた。
聞けば、それは普段の値段より特別に安くした値段だったのね。
そんなことなら、普通のものにしときゃよかったと思ったPでした。
さて、長い話だな・・・
遠野につきましたのが午後3時過ぎ。
少し早く着きすぎました。
今回もナビ子ちゃんのおかげで、ピンポイントに到着したのがこちら

遠野ユースホステルです。
外見は大したことはないが、これが普通のユースです。
外にオッチャンがいましたので聞いてみた。(この人がペアレントさんね)
「何時から入れますか?」
「4時からならいいよ」
と言ってくださったので、少しばかり時間を潰そうとオススメのところを聞いてみると「ふるさと村」というところを紹介してくれた。
しばらくそこで遊びましょう。
ほどないところにそれはありました。

何をするところかというと、かつて柳田國男という人が「遠野物語」という本を書いていて、そこではこの地に伝わる多くの民話を紹介しているのです。
座敷わらしだったり河童だったり山男だったり雪女だったり、そんな人のすぐそばにいそうな妖怪もののけのたぐいの話が多いのですが、そんな話が生まれた理由が、実はこの遠野という土地に来て初めて理解できるのでした。

九州の阿蘇に近い気がします。
山に守られて人が暮らしている・・・そんな感じ。
そして、そんな人々の昔の暮らしを再現しているのがふるさと村でした。


昔ながらの家には馬もいたんです。

4時を過ぎまして、再度ユースへ行き、入室。
と・・・入ってみて驚いた。
外観とは裏腹に、設備が大変整っております。
例えばお風呂。
綺麗なブルーの浴室に、ジャグジーが、そして、ヒノキの露天風呂が・・・
ただものではない気配。
そして、食事もここで頼んであります。
ドン!

食前酒にデザートまで付いてきました。
後から知ったのですが、ユースの番付みたいなのがあるらしく、国内で5本の指に入るのだそうな。
さもありなん。
まだまだいろいろあるんだが、あまりに長くなるから端折ります。
やがて9時。
寝床であたしは今日を振り返る。
津波で残酷な光景を見たあと、遠野に来てよかった。
この土地の穏やかな空気は、確かにあたしを癒してくれた。
何も考えずに、適当にルートを作ったまでのことでしたが、良くまぁこれほど見事な一日になったものよと、どこのどなたかは存じませんが、あたしはその方に感謝しましたです。
ありがとうございました。
本日の走行距離 280km
3日目 おわり。
ぴかさんが現地で撮った写真と思うと
すごくリアルであの日のショックがよみがえる。
合掌
個人的には岩手以北が東北の素朴さ、自然の壮大さを強く感じられ、独特の空気にすっかり魅せられました。さっ次が楽しみです。
何を感じるかわかりませんが、子供たちにも見せてやりたいと思ったです。
ちた屋さま
東北の気配は、山の気配です。
海沿いにあっても、それは感じておりました。
青森、秋田、岩手・・・その名のとおり、森があり田があり岩があります。
そこで生きる東北人は、牛のような人々です。
高村光太郎が言っているんですよ。
「岩手の人 沈深牛の如し
地を疾きて 走らず
企てて 草卒ならず
ついに その成すべきを成す」
浮ついたあたしとは、ずいぶん違います。
・・・反省。