こんにちは。
間もなく8月も終わろうとしておりますね。
今日は少しばかり秋らしくなっておりまして、それでも台風が近くを通っていて、ニュースでは、まだまだ暑い日も予想されると言っております。
どちら様も、どうぞ穏やかでお過ごし遊ばれますように。
先日の土曜日は、ばあちゃんの三七日法要がありまして、次男のお休みとも重なって、姉二人と計4人で法要完了。
その後、しばらく姉たちと談笑。
次姉が言った・・・
「ばあちゃんが逝った後、10日ほど、何もする気が起きなくなったのよ」
う~む・・・ばあちゃんロスだったらしい。
姉の言葉を借りれば、心にぽっかり穴が開いたようだった・・・と言った。
個人的なことを言えば、じいちゃんロスもばあちゃんロスもペット(ももちゃん)ロスもなかったあたしですが、かつて鬱になりかけて、何もする気が起きなくなった感覚は、経験してわかる。
それは、きついんだな。
で、今はもう大丈夫と言いながらの姉の話を、聞きたいと思った。
(聞いてもらうだけで、精神が安定するのもわかります。話を聞いてもらうのは、大事です)
「やったつもりだけれど、まだやってあげられたことはあったと思う・・・」
この次姉、あたしによく似て、けっこうにサバサバしております。
が、そんな彼女がそう言いながら、ポロポロと涙をこぼした。
・・・
人の心は、本当に面白い。
不謹慎ながら、そんな彼女を、あたしは愛おしいと思いました。
よくわからんが、生きている彼女が苦しむのは望んでいないと思いますが、そこまで想ってくれた次姉を、じいちゃんもばあちゃんも同様に愛おしく思ってくれているだろうと、母の骨壺を平気で開けて、ばあちゃんの遺骨に話しかけていたあたしでした。
(じいちゃんの遺骨もまだあるから(葬儀屋が同じなので、二つの骨壺がそっくりです)、骨壺に名前を書いておかないと、間違えたらいかんな?とその時考えていた息子でした。これらはやがて、故人たちの遺志により、高野山に連れていきます。これはまた、機会があったらお話ししよう。)
その二日後、かねてより、母方の先祖のお墓と、母より先に逝った妹のお墓がある平和公園へ報告がてら行きたいと思っていたので、この時も丁度休みだった次男と姉たち二人で、お参りに行った。
母方の母方の菩提、あたしの曾おばあちゃんがいるお墓で、全員でお参り。
「友子(ばあちゃん)が、この度そちらに行きましたので、よろしくお願いしますね~!」
と言いながら、心経を唱えて、お参り終了。
その次、そばにある、母の妹のお墓で、
「友子(ばあちゃん)が、行きますから、楽しく過ごしてね~!」
と、ここでも心経唱えながらお参り終了。
あぁ・・・あたしのお役目、また一つ、完了しました。
ちょっと、すっきりしたあたしでした。
その帰りがちょうどお昼過ぎになったので、みんなでご飯を食べようとなった。
が、帰路の道すがらにうまく車を止められそうなところが見当たらず、名和の交差点のマクドナルドでええやんけ?ということになった。
マクドナルド・・・あたし(64歳)的には、多分10年食べてないです。
長姉(72歳)も、覚えがないほどに行ったことがないらしい。
次姉(70歳)は、たまに一人でも立ち寄って食べることがあるという。
そうそう・・・ここで、行きの車中の会話を思い出した。
車中の話の流れで、「スタバは行きたくないよね~?」という話。
それぞれに、一度くらいは行ったことがあるし、あたしも、3回くらいは行ったことがある。
で、長姉が言った。
「頼み方がわからないから、普通のコーヒーとお願いしたところ、サイズは?と聞かれ、普通のでと頼んだら、飲めないくらいのデカいのが来た」
聞いていた一同(次男以外)、ウンウンと同意。
「なんやらマキアートって、コーヒーにグルグル巻いた絵が描いてあるから、巻きアートっていうんだよね?」
と、次姉。
聞いていた一同、多分それは違うと思いながら、マキアートが何か?誰も知らないことで納得。
・・・こんなして、結局、スタバは嫌いだよ!と、ゲラゲラ笑いながら全員合意を得ました。
とても仲良しな、姉弟でした。
で、大変久しぶりのマックです。
慣れている次姉は、チーズバーガーとsサイズのコーヒーを注文。
長姉は肉が苦手なので、フィレオフィッシュのセットを注文。
あたしと次男は、ダブルチーズバーガーのセットを注文。
出てきた商品を見て、長姉が言った。
「こんなにコーヒーいらんわ。普通が大きすぎる!」
そして、あたしは、ダブルチーズバーガーセットで、ポテトが食べきれませんでした。
・・・たぶん、二度とマックにみんなで来ることはないと思われます。
(次男は、ペロッと完食)
まぁ、そんなこんなの出来事も楽しみながら、ばあちゃんの忌中を楽しんでおりますの。
じいちゃんもばあちゃんも、生涯一度も、スタバもマックも知らなかったと思います。
それを思うにつけ、これもまた、楽しい出来事だったと思う息子でした。
田んぼでは、ますます穂が育ってきております。
この頃のこと、いよいよコンバインが必要ですので、イセキの山本さんに確認の連絡。
中古ながら、物はいい、間に合います、とおっしゃるのは、信じるしかない。
「これまでのは、泥に埋まって動けなくなってしまいましたが、今度のやつは大丈夫ですか?」
「倒伏した稲も、刈れますか?」
と、あたしが何より心配していることを尋ねれば、
「大丈夫です」
と、電話の向こうで、返事をしてくれた。
・・・山本さん、あなたを信じよう。
昨年の稲刈りのことが思い出されるのですね。
メンバー一同が、ヘトヘトになって、二日かけて稲刈り終了。
田んぼ同好会20年目となり、それは実は、メンバーの体力の限界とも思われる出来事でした。
さて、今年の稲刈りは、一転して目の覚めるような、スバラゴイ稲刈りができることを期待しておりますのよ。
イセキの山本さん
あなたのお言葉、あたしは信じています。(悲願!)
あと、いろいろありましたが、長くなったので、今日はここまで。
台風の時期でもありまして、どうぞどうぞ、田んぼに限らず、あまねく穏やかでありますように。
ありがとうございます。
こんにちは。
8月の頭から、ばあちゃんのことがあって、結局18日間連続の豊坂屋の臨時休業。
19日目(金)にようやく、久しぶりに店を開けました。
翌20日(土)には、お友達のゆうちゃんがご来店。
この友人のお母さんも、長らくの闘病の中、実は7月に急逝されておりました。
その葬儀にお召しになった喪服のクリーニングをと、持ってきました。
ゆうちゃん、お母さんのお話をしながら、泣くですの。
それは、愛にあふれた涙でした。
ゆうちゃんのお母さん、きっとそばでそれを眺めながら、喜んでいると思うあたしでした。合掌。
丁度その日は、ばあちゃんのふた七日の法要の日で、ゆうちゃんと入れ替わりに姉が来て、父の時と同様に、同級生の坊主もやってきて、無事法要終了。
ゆうちゃんの後でしたので、あぁ、ばあちゃんもまだそこらへんでウロウロしながら、子供や孫たちがちゃんとやっているかいな?と見張っているような気がしていました。
坊主が、「49日までには位牌を作ってくださいね」と教えてくれた。
多分じいちゃんの時にも、それを聞いて位牌を作ったと思う。
今は、じいちゃん単独の位牌がありますが、坊主が言うには、
「今の単独の位牌はお精抜きをして、二人で一つの位牌(夫婦で並んで名前を彫った位牌)もできますよ。」
と言った。
・・・あたし、却下したりました。
理由はいろいろありますが、64年父と母を見てきて、それでええだろうと思う息子です。
あちらに行って、再び添いたければ添えばよし。
コチラの世界で木片に名前を書くだけのことと思いながら(不謹慎)、戦争を体験し、母などは20の時にはすでに両親を亡くし、それでも妹を守らねばならぬと嫁いで生きてきた生涯を思うと、あちらでは改めて好きなようにしていただきたいと思うのでした。
良い人間たち、良い夫婦でした。
そのお陰で、あたしたち子どもは、出来は悪いながらに、まっとうに成長したと思っております。
ふた七日の法要に当たり、坊主と声を合わせて読経をする姉が、泣いておりました。
・・・ばあちゃん、見てるかな?
意地の悪い弟は、そんなことも思いながら、坊主と読経しておりました。合掌。
お盆と夏休みで、長男のお嫁ちゃんと孫たちが、実家の長崎に帰省していましたが、この頃自宅の広島に戻ったらしい。
無事の便りがお嫁ちゃんから来まして、あたしはそれを知り、安堵した。
で、迎えに長男が車で出かけたのだろう。
行きの途中の画像だと思われるものが、長男とも共通の知人から送られてきた。
(川嶋さん、ありがとうございました。)
長崎に向かう途中、学生時代6年間を過ごした福岡に寄って、多分一晩楽しんだ様子。
親が汗と涙を流して稼いで仕送りしたお金を、湯水のように垂れ流していた、行きつけの飲み屋「串ぼうず」。
画像の右隅に、未だに新美の名前でキープされている焼酎の瓶が見えた。
そこの大将と、満面の笑みで写っております。
(これを撮ってくださった川嶋さんとの写真もありましたが、何か被害が及ぶといけないので不採用)
う~む・・・うちに来た時の顔と全然違う。
・・・お父さんは嫌われているのかもしれない。
そんな冗談はさて置いて、家族全員が、無事に広島での生活に戻ったことを、お父さんは喜んでいます。
実家のご両親にも、長期間、大変お世話になったことと思っています。
タケルよ、お前は幸せである。
ありがとうございました。
去年と同様に、今年も無事に、1号地2号地の田んぼが、無事出穂。
今年は本当に草の侵食が激しくて、草取りももう追いつかないですが、それでも無事出穂。
子供と同じで、いろいろありながらも、それでも無事に育てばそれが一番ありがたい。
10月の頭くらいの稲刈りを楽しみに、まだまだお世話をしてやろうと思います。
近くの早稲のお米は、ずいぶん色づいて、今日も車で走っていたら、稲刈りしているところもありました。
今年最初の光景でしたね。
美味しいお米が、無事にたくさん獲れたら嬉しいです。
毎朝、仏前に、あたしたちが作ったご飯を供えています。
じいちゃんとばあちゃんが、喜んでくれいたら嬉しいです。
不味くても、明日も出ます。
その時は、ごめんねぇ~
あまねく、穏やかでありますように。
ありがとうございます。
こんにちは。
ばあちゃんの葬儀以降、何かしらバタバタしています。
気持ち的には落ち着いていますが、じいちゃんの時もそうでしたが、アレもしないといけない、コレもあるな?と、なんとな~く脳ミソが気ぜわしくしているのを感じています。
が、そこはホレ、64歳までの経験もあるおじいちゃん。
おのれの心と体と魂の付き合い方に、無理はしないようになりました。
そんなこの頃を、回想。
ばあちゃんの葬儀が終わってしばらくは、体が疲れているのがわかりました。
ばあちゃんが逝く前の看取りのほんの二日ほどですが、施設からの知らせがない間、2度ほど見舞いに行きました。
生きているあたしが、逝く彼女へのせめてもの手向けのつもりがありました。
それも含めて、施設からの夜中の電話で彼女の末期を迎え、翌日から、葬儀の準備に取り掛かります。
長男が広島から帰ってきて、長女も孫をお母ちゃんに預けて参加。
そんなして、8月9日、くしくも長男のお嫁ちゃんの誕生日(=長崎原爆の日)でしたが、ばあちゃんの本葬を無事終えました。
ちなみに、じいちゃんの本葬は、2月13日で、
「じいちゃん、ニイミの日に逝きました。洒落てます。」
と挨拶したのを覚えています。
まぁ、じいちゃんもばあちゃんも、こうして思い出しやすくなったと息子は思っているのだよ。
その後、子供たちは無事に住処へと戻り、あたしも仏事だけは残しながら、平時に戻ります。
このいつもと違うペースの数日間が、年寄りのあたしの体にはこたえたのだな・・・と思う。
その後二日ほど、調子がおかしかった。
で、ようやくに回復したと思えた11日くらいかな?
まずは、田んぼで草取りをして、どうにも元気な命が見たくて、こちら。
ヤギーズのイチゴとクルミに、おじいちゃん、めっちゃ癒されました。
「人間は、めんどくさいなぁ・・・あたしたちなんて、生きるだけで精いっぱいなんだぜ~!」
と言われたような気がしておりました。
生きる力、おじいちゃんもらったぜ。
ありがとうございました。
ばあちゃんに、贈り物が届きました。
一度しか会ったことないですが、JJさんから。
それは、とてもきれいなお花でした。
穏やかな顔したばあちゃんに、とてもよく似合ったお花です。
JJさん、お気持ち嬉しかったです。
ばあちゃんに変わりまして、お礼申し上げます。
ありがとうございました。
体調が整ってきたので、平時に戻ります。
田んぼの草取り開始。
と、お盆の日曜日(14日)かな?
ヨシヒトクンが現れて、草取りしてくれました。
その前日だと思いますが、アゼの草が刈られていました。
これも、メンバーです。
・・・ありがたいのです。
ありがとうございます。
さて、その翌日は、お盆最終日の15日。
ちょうど次男がお休みで、あたしも次男も献血ができる日となっている。
二人で示し合わせて、常滑イオンにやってくる献血車に向かった。
暑い中でしたが、二人とも無事献血完了。
お互い、400ccの燃えたぎる血液をお役に立てるべく放出していますので、ここでご飯でも食べて帰ろうということになりました。
と、そこへ、メール。
「今、そちらに向かっております・・・」
甥っ子の直久のお嫁ちゃんからでした。
前回の母の葬儀に際して、直久は東京からわざわざ帰ってきて参加してくれましたが、お嫁ちゃんはお盆中実家のある会津に帰省していて、この度、改めて、孫ともども母のお参りに来るという。
聞いたが早いか、次男と早速に帰宅して、無事甥っ子家族と合流。
本葬出席以後、一度会津まで迎えに行った甥っ子と、その家族全員が改めて、ばあちゃんの遺影の前で線香を上げてくれました。
お前たち、みんなええ子。
じいちゃん、ばあちゃんに代わりまして、お礼申します。
(じいちゃんにも、曾孫が線香あげてくれました。)
ありがとうございました。
お盆も明けて、16日。
ばあちゃんの事後処理とでもいうのか?市役所とかで、いろいろやっつけた。
じいちゃんの時には無かったですが、今は市がこんな要領で受け付けてくれます。
それに従って、あれこれを処理。
これはありがたいですよ。
それを午前中に済ませて、午後は雑用で、お母ちゃんのところへ行った。
・・・いた!
長女と、孫二人。
聞けば、今来たところだという。
そこに、次男もいた。
聞けば、今日の仕事は昼で上がりになったという。
全然そんなこと知らずに、次男が前日勤め先からもらってきたおいしい魚があったので、この日はお母ちゃんのところに泊まるからとそれを届けてくれと言うので行ったら、こんなこと。
半年ぶりくらいになるのかな?
偶然でしたが、長女の孫に会えました。
・・・
ものすごく、元気でした。
「これ、だ~れだ?」
と言うと、しばらく間をおいて、
「・・・じぃじ?」
と言った孫2号。
これまで、会えば泣かれていたおじいちゃんですから、これだけで満足しました。
お菓子作戦、功を奏しています。
(ちなみに、3号は全然泣かない。彼は、お菓子がいらないな。)
この日は天気が良くて、久しぶりにふみえちゃんでお母ちゃんのところに行ったんだ。。
その帰り、普段通らない道が面白そうだったので、そこを通ってみた。
通ってみた・・・
通ってしまいました・・・
通らなくても良かったのに・・・
・・・
いきなりパトカーのサイレンを聞いた。
はい、一旦停止無視で、捕まりましたおじいちゃんでした。
ばあちゃんがね、
「おまえ、64にもなるんだからね、安全運転しないといけないよ。」
と言っていたのを、その時かすかに聞きました。
・・・はい、以後気を付けます。
(つ~か、時速10キロで一旦停止無視で捕まえるなやぁ!!!と、腹の中で吠えていた、おじいちゃんでした)
お巡りさん、ご苦労様でございました。
さて、今回も長くなりましたが、そんなこんなの一週間でございました。
今日も、事後処理でいろいろ動きました。
まだもう少し、かかります。
それはそれとして、じいちゃんの時もそうでしたが、事務的なことはあるにせよ、例えば相続でもめるとか、そういうことは全くないあたし。
姉たちのおかげもありまして、仲が良いからの有難さだと思っています。
あらためて、ばあちゃんのおかげで、子供たちが集合できた、孫にも会えた、思わぬお人の気持ちにも触れられた・・・
そんなことを感じた一週間でした。
皆様、ありがとうございました。
そして、祈りは一つ。
あまねく、穏やかでありますように。
ありがとうございます。
こんにちは。
8月7日に、ばあちゃんが満93歳の命を終えました。
その記録です。
8月4日 午前7時前。
前回書きましたが、施設から連絡があり、血中の酸素濃度が下がったということで、半田病院へ搬送。
あたしが行ったときには、すでに処置室へ。
付き添いの施設専属の看護師さんと、待合室で待機。
その間に、ばあちゃんのここまでの様子を聞く。
口から飲めない食べられないが一週間ほど続いているのは、施設の時から聞いていた。
そして、この日を迎えたのです。
いろいろ検査をしていただいたようですが、1時間ほどのそれを終えて、救急のお医者から説明。
「何が悪いということではないですが、年齢によって体が限界になっているようです。」
その後、改めて、内科医のお医者の説明を受けた。
同様の見立てでした。
そこで、このまま病院で治療をするか?施設に戻って看取りをするかの選択で、あたしは看取ることを決めた。
一度施設に戻り、翌日11時に、施設の内科医からの説明があるということで、それに合わせて、姉たちを集めた。
5日、11時。
姉二人と一緒に、施設で説明を聞く。
内科医が、「今日明日と思っていてください」と言った。
施設の人からは、「コロナで、一般には面会はアクリル板を通してとなりますが、いよいよの看取りは、ご自由に付き添っていただいてよろしい」と聞いた。
その、いよいよの時になっているあたしたちとばあちゃんでした。
とは言え、ばあちゃん、いつ逝くかはわからない。
そこで施設の人も慣れたもので(ここに悪意はありません)、「急変もありますが、看取り(命のあるうちに)の変化の際にお知らせをしますか?そうでなければ、亡くなってからのお知らせとなることもあります。担当も極力マメに様子を見るようにしますが、間に合わないことは承知してください。」とおっしゃる。
言葉だけから、命のあるうちのお知らせというのをお願いした。
そうして、いったん全員帰宅。
お医者から、今日明日・・・と聞いているから、気が気ではないながら、その日は過ぎた。
明けて翌日(6日)も、寝たのか寝てないのかよくわからない感覚で、朝からぼんやりと過ごす。
そして、朝10時ごろに電話。
すわ!とうとう来たか?
と電話を取って、施設の人から、「呼吸が少し荒くなってきています。」と聞いた。
あたしは駆け付けた。
そして、部屋へ。
と・・・確かに息は荒くなっているようだが、今すぐ息絶えそうな気配ではないと思った。
看護師さんに聞いた。
「これ、危ないですか?」
看護師さん
「いや、あの、変化があったらお知らせせよということでしたので・・・」
そこであたしは納得をして、
「いやいや、こうしてばあちゃんがいつ逝くかわからない状態で、ここにずっといられないですので、これはいよいよアカンとなった時でよいですので、お知らせください。」
と言い直して、よしんばそれが息のあるうちに間に合わなくてもよいことを伝えて、いったん帰宅。
その時は姉たちにも何も連絡をせず、過ごしました。
それから、昼が過ぎ、夜が過ぎた。
ばあちゃんが逝くのを待つというのは、なかなかおもろい。(不謹慎)
「今日明日」と言われているから、なおのこと、夜が更けてくると、電話が鳴らないか?と落ち着かない。
そうして、それでも布団に入ってウツラウツラしていた翌朝午前2時に電話。
咄嗟に「ああ、来たな」と思いましたね。
受話器を取れば、案の定、ばあちゃんの末期ということ。
すでに、息も絶えているらしい。
夜中の施設は、自動ドアが手動になっていて、それを手で開けて、暗い施設の中を通って部屋へ向かった。
その部屋だけ、ポッコリ明かりがついている。
施設の男の人が一人、寝ているばあちゃんのそばにおりました。
「来た時に、すでに息をしておられませんでした」
と、申し訳なさそうにおっしゃった。
「それで、良いです。ありがとうございます。」と申し上げた。
すっかりこけたばあちゃんです。
顔、撫でたりました。
まだ、暖かかったです。
息のあるうちには間に合わなかったですが、許しておくれ。
逝っても声は聞こえるというからね、ばあちゃん、ありがとう、ありがとうと囁いてやりました。
さて、やがて看護師さんがやってきて、今後のことを聞いた。
午前8時頃に、お医者が来て、死亡確認をするらしい。
その時の立ち合いを求められたので、承知する。
それが夜中のことなので、朝6時ごろに、姉たちに報告。
そこから、姉たちとともに、お医者の話を聞いてもらうこととした。
今日は長いよ。
7日8時に間に合うように、姉たちに施設に来てもらい、あたしはその前に葬儀社に連絡をして、施設からの引き取りを依頼。
8時過ぎ、お医者の死亡確認を済ませて、その後葬儀社の車で、ばあちゃんを店に運んだ。
ばあちゃんが、昭和28年から始めた、豊坂屋に安置したります。
姉たちが、着物に囲まれて綺麗でよかったね・・・と言いました。
この後、お盆の時期ながら、運よくじいちゃんの時にもお願いした同級生の坊主が、枕経を上げてくれました。
今日のところは、とりあえずこれで一段落です。
姉たちにはいったん帰ってもらい、明日の通夜とその後の本葬の手はずを整えた。
時節柄、クーラーガンガンに入れて、その夜は、あたしは毛布にくるまって、最後の添い寝をしたりました。
我ながら、よく眠れました。
(じいちゃんは2月だったから、寒くて仕方がなかったよ)
明けて8日は、通夜。
4時ころかな?に葬儀屋が来て、葬儀場までばあちゃん移動。
このあたり、あんまり記憶がないですが、6時に通夜を開始するということで、当日仕事に行っている次男を家で待ちながら、次男帰宅。
次男の礼服を準備していたはずが、ズボンを履いてみると、はまらない。
前回のじいちゃんから、お前、太ったな・・・と余計なことを言いながら、近くの洋服の青山に急いで向かった。
と、ここでお父さんは気が付いた。
もしや、用意したのが、あたしのではないか?(次男はスリーシーズンしか持ってないから、あたしの冬用と間違えたか?)
青山に着く前に取って返して、もう一つの礼服を着てみた・・・これだ!
お父さん、ギリ、間に合いました。
こうやくん、ごめんね~!
で、それを急いで着なおして、葬儀場へ。
すでに、姉たち家族、集合しておりました。
ありがとうございます。
そこから間もなく、通夜式開始。
今回は、ばあちゃんの葬儀に際して、姉の子供たちも集まってくれました。
一番遠くから来たのが、長姉の娘、まゆこが、香港からこれのために来日。
そして、長姉の次男が、東京から参加。
遠いところ、わざわざ、ありがとうございました。
やがて、通夜式、無事終了。
お礼を言い、明日の本葬もよろしくと挨拶。
明けて、9日12時、本葬。
この日の午前中に、広島から長男が車で来半。
長女も、孫二人をお母ちゃんのところに預けて来た。
長姉家族、次姉家族ともに、ばあちゃんのDNAが一堂に集まりまして、本葬開始。
読経の中、何とはないですが、穏やかさを感じておりました。
同級生の読経・・・下手です。
それはさて置き、それも終わって、喪主挨拶。
それまで、何とて普通でしたが、ここで思わずぐっと来てしまった。
「子供3人がそれぞれ無事で、その家族、孫、ひ孫まで、誰一人と欠けずにばあちゃんを見送る・・・ばあちゃん、喜んでいると思います・・・」
ここで、思わず涙声になってしまったあたくしでした。
ついでに余計なことに、
「兄さんたちも、どうぞ、順番に逝ってください」
は、長姉の息子がニヤリとしていたのをあたしは見逃しませんでした。
さて、それが終わって、火葬場へ。
ばあちゃん、見事に灰になりました。
信心があったばあちゃんだから、本四国の納経帖とか、西国33観音のオイズルとか、姉は自身の写経も入れとりました。
(新美の家系は、そういうの好き)
五平餅が好きでしたと葬儀社に伝えていたら、五平餅、用意してくれてました。
葬儀会館ティア・・・なかなかやります。
この後、火葬場へと向かい、すっかり灰になったばあちゃんを骨壺に収めて、初七日も無事終えました。
そして、午後4時、散会しました。
ご参集いただきました皆様、本当にありがとうございました。
SNSでも、お祈りをいただきました皆様、本当にありがとうございました。
この場をお借りして、心からお礼申し上げます。
ありがとうございました。
家族だけのささやかな会葬でしたが、じいちゃんの時と同じように、心のこもった葬儀ができたと思っています。
新美友子 享年94
どうぞどうぞ、あなたが穏やかでありますように。
心から・・・合掌。
あたくしは 父・孝士 母・友子 の子
あたくしは 新美輝人と 名を給う
・・・
本当に、ありがとうございました!
余談
じいちゃんの葬儀以来で、子供たちが集合。
それぞれに、無事大きくなりました。
長男、
4年ぶりくらいかな?(おまえ、怖いよ)
二人の子供を養うべく、頑張っております。
この顔が、カメラを向けられても、
こうなれたら、もっとお金がたまります。(マジで)
顔出し禁止と言われていますが、多分許してくれると思います。
(こうしてお父さんは、ますます嫌われる)
長女も、二人子持ちのすっかりお母さんになりまして、「3人でも4人でも、子供は多いほうがいい」と、肝っ玉を見せております。
次男も、すっかり大人になりました。
こんな姿を、ばあちゃん、喜んでくれているような気がしています。
・・・
ばあちゃん、穏やかに、じいちゃんと見守っていてね~!
こんにちは。
この頃のことを書いておきます。
8月4日(昨日) 午前7時前
ばあちゃんがお世話になっている施設から電話。
様態が悪いので、救急車で病院へ・・・というその一報を受けて、半田病院へと向かった。
救急の窓口では、すでにばあちゃんは処置室に入って、施設の付き添いの看護師さんが待合にいた。
ことの経過をその場で聞く。
その一週間前から、嚥下が難しくなっていて、水分が十分に取れていないのは聞かされていた。
そして今回、血中の酸素濃度が低くなって、こちらに来たという。
検査の時間をしばらく過ごして、やがて、救急のお医者が説明してくれた。
「何か悪いということではないですが、嚥下の力が衰えて、肺の機能も、前回に比べて白いところが見えますので、歳によるものということです。」
かいつまんで言えば、そういう説明。
歳食って、ばあちゃん衰えました。
その後、内科医の先生からの所見を改めて聞かされた。
同じようなことでした。
そして、点滴を打って水分を補給して、一時的に体力は回復するが、状態が良くなるわけではないと聞く。
「このまま入院をして処置を続けるか?施設に戻るか?」
の選択を決めなくてはいけない。
・・・
体内に酸素が少ない体のばあちゃんを見ると、喘いでいるから可哀そうなんだ。
ただ、お医者の説明を聞く限りで、いずれの末期には、これは避けられないとおっしゃる。
もう一つ、付き添いの施設の方から聞いたこと。
最近のコロナのせいで、ここ半田病院に限らず、入院をすると、死ぬまで面会ができなくなる。
が、施設では、看取り(=死ぬことが前提のギリギリの状態=今のばあちゃん)が前提となれば、面会はいつでもできるという。
・・・
0.3秒考えて、看取りの面会をできる方を選びました。
どっちが正解か?はわかりませんが、あたしが気持ちの良い方を選びます。
最後の最後、そばにいてやりたいとあたしは思いました。
ばあちゃん、それで勘弁しておくれ。
そうしてお昼には施設に再び戻りまして、すでに連絡をしていた姉たちもやってきて、コロナ以来3年ぶりになるのだろうか?
ばあちゃんの枕元に顔を寄せて、「テルトだよ~!」と言いながら、頬をなでてやることができました。
(こうして見ると、あたしはばあちゃんに近いところにいるなとも思えるのがおもろい=あたしはまだ、死なないです)
姉たちも同じように一人ずつの時間制限(10分以内でと言われています)の面会ながら、3年ぶりのばあちゃんに触れながらの邂逅を果たして、喜んでおりました。
コロナのクソヤロウのせいですが、こうして再びばあちゃんに近くなれてよかったです。
明けて本日。
施設の内科医からの説明が改めてあるということで、11時に姉たちと集合。
お医者がおっしゃいました。
「今日明日が限界でしょう」
あたくし、大変冷静に受け止めております。
そしてその時、あたしの脳内は、めちゃくちゃ活性化しておりました。
これもおもろい出来事でした。
それはさて置き、今後の手続き等の説明を受けて、ばあちゃんの面会を昨日に続いて行いまして、その後姉たちと3人で、とりあえずコメダでクールダウン。
(今日のばあちゃん、目がパッチリ開いて、口ももごもごしてましたので、あたしは認識されたのだと思っています。その様子から、今日明日と言われながら、ばあちゃん、お医者の予想を裏切って、1か月くらい頑張るんじゃないかとさえ思っています。戦中派のばあちゃんの強さを、あたしは知っていますし、期待しています。)
コーヒー飲みながら、姉たちと、ツラツラと話しました。
・・・
そんな中、あたしは思った。
3人の子供が、無事あなたを看取る。
コメダのコーヒー飲みながら、思い出や、最近出てきた夢や、果ては、曾孫が「最近、ばあちゃんが夢に出てきた」という話まで聞いた。
それで、イイよね?ばあちゃん?
本日面会に向かう際、氏神様にお参り。
大峰山の社の柱に、この方おられました。
・・・
やがてあちらに飛んでいくばあちゃんが、穏やかでありますように・・・
と、あたしは念じておりました。
コロナとか、特に水害とかニュースで見ます。
どうぞ、どうぞ、あまねく命が、穏やかでありますように。
合掌。