精神文化の殿堂として、「武道館」であるべきだ、という持論は動かせない。かといって、剣道、柔道、弓道などの「道」は、幾分かは、精神主義の臭みがある。いかに脱臭していくのか。それは、脳の科学と身体における五感の連携の反応の訓練である。近年は、こうした身体機能と競技の関係が高度化されており、個々人に応じ、どんな競技が最適なのか、また、ある競技でとうしてもトップ選手になれない壁はどこにあるのか、これらを科学的に追及する「競技を横断する」身体科学の研究が求められている。これには、医学の分野からのサポートが求められる。 富山では勝ちたいので、マイナーな競技に力を入れる。それでは、裏返しの勝利至上主義にすぎない。例えば、「競歩」と「マラソン」では、前者がマイナーである。富山県では、「マラソン」に適した人材の発掘が遅れている。それは、競技コーチの力量の問題ではない。小中高の体育教師がスポーツ医学から離れているからだ。小さなお山の大将になりたがる精神風土が、マイナー競技に誘い込む。歩く、走る、跳ぶ、面白くないが、そうした基本的な身体能力の向上のために、世界的に先端のスポーツ科学の殿堂として、365日稼働できることが求められる。それは、近年のダンス文化にも通じる。そうした議論になぜ銀行の会長が加わるのか。なぜ、スポーツ科学の専門家が加わらないのか。要は、富山県民の「弱さ」は、物事への執着の方向性、持続性にある。真の科学強者への道を避けてはいけない。なお、e-スポーツを持て囃す新聞社もあるが、70歳過ぎての健康な生活にどこまで寄与できるのか、もっと根源的に考える必要がありそうだ。プロ野球、プロバスケ、プロ相撲でも、富山県から全国的に通用する選手が出現している。すべて社会のリーダーの視界の広さ、問題認識の深度の問題である。なお、少子化のもと、学校対抗の思想はやめたほうがよい。全員が、個々人として、富山県代表であるという自覚で、どの競技でも全国のプレミアムリーグに挑戦しなくてはならない。それは、英語、数学、化学、物理などでも同じである。
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