TMA講師代表:個人研究 日本と中国では、朱子学が国家の正式のエリート教育の聖典であった。中国では、朱子学の学理からマルクス主義の受容が行われ、中国共産党はマルクスの「唯物史観」を受容した。これは、不思議なことではない。イエズス会宣教師が、朱子の「四書」を西欧に紹介、それが契機となる西欧で市民階級の科学への志向が促される。マルクス主義は、その派生である。「モノとココロ」の隙間を無くし、モノの世界に現れる天理を究めるというのが朱子学である。従って、中国共産主義は朱子学の「窮理」論の延長にある。日本人でも、同様な理由でマルクス主義が受容された。しかしながら、日本と中国では、18世紀には、全く異なった経済社会が生み出された。
中国では、科挙制度が隋王朝の時代から始まられたが、本当に軌道に乗ったのは、明王朝の時代であり、清王朝の時代であった。試験は、朱子学による儒学の古典解釈を基礎とするものであった。中国社会では、士農工商という四民が、城郭都市の城郭内に居住し、階級間の移動が比較的に自由であった。社会階級変動が容易であった伝統の上に、科挙試験により、祖父母・父母の出身階級を問わず科挙が受験できた。しかも、各世代で連続して合格することは困難だから、「士族」という固定階級は生まれなかった。
日本では、皇室と頂点にして、関ケ原の乱で決定された身分制社会が固定した。その結果、いかに朱子学を学んでも、上級武士の子弟しか上級武士の官職につけない世襲身分制の社会であった。しかしながら、中層、下層の武士たちは、各藩の殖産興業のために、「農工商」の世界である実業の世界に「窮理」の哲学を持ち込み、「農」の理、「工」の理、「商」の理、さらには、各藩の理学家や、医家という専業者が生まれた。例えば、富山藩の藩校において最高の学識を発揮した杏立は、富山藩の藩の医家の出身である。富山の薬業の要にいたわけである。つまり、富山では朱子学は、士農工商の全ての固定された身分制社会にありながら、薬業の「窮理」において、それぞれの身分の持ち分から協業したわけである。その要に「論語」が存在した。
こうして、18世紀には、アダム・スミスをして、中国は日本のやり方に見習う以外に進歩はない、と「諸国民の富」で断言した違いが生まれたのである。朝鮮は、問題外である。中国人には、儒学を外国語で翻訳・輸出する能力があった。日本の儒学は、朝鮮の朱子学から始まっているが、社会身分による差別の固定化、特に科挙制により、固定身分制の社会が生まれるという制度本来の政策意図と逆の効果に帰結した。「士」だけでなく、「農・工・商」が『論語』を学び始めた日本の経済社会は、18世紀には、すでに世界で突出したレベルにあった。この国を空前絶後の大敗戦に導いたのは、儒学の主観の優位性を説いた「陽明学」という異端を下級武士が悪用したからである。日本は、明治維新のまえに産業社会に適合した多様性のある働きの国家として大きく前進していたのである。中国には、中国共産党の独裁という帰結が用意されていたといえる。朝鮮は、同胞との疑心暗鬼の闘争の持続という宿命から離れられない。日本は、聖徳太子が措定した「論語」の「和を以て貴しとなす」憲法が生かされたとき、経済社会が大きく進化する。朱子学により、産業社会を生み出すという最大のモデル事業は、富山藩にある。日本は、富山藩にこそ見習うべきである。