座間コミニティー

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今日の聖人の記念日

2016年12月18日 12時34分44秒 | キリスト教

聖ウィニバルド

701年-761年

 ウィニバルドは、イギリスのウェセックスの貴族の家に生まれた。722年に兄ウィリバルドとともにローマや聖地を巡礼したおり、モンテ・カッシーノの修道院に滞在し、そこで修道士となった。兄ウィリバルドは、同修道院再建のためにそこにとどまり、力を尽くした。ウィニバルドはイギリスに戻ったが、ゲルマンで宣教に身をささげていた聖ボニファティウス(ドイツ第1の使徒と呼ばれている)と教皇グレコリウス3世の要請を受け、ゲルマン人への宣教のため738年に派遣された。主にテューリンゲンで活動し、司祭となって7つの教会の司牧にあたった。

 一方、兄ウィリバルドも741年からボニファティウスに協力するためにドイツに派遣され、アイヒシュタットの司教に任命された。その後、兄弟は協力して、751年にヴュルテンベルクのハイデンハイムに男子修道院と女子修道院を設立した。そして、イギリスにいる彼らの妹ウァルブルガを女子修道院の院長として呼んだ。

 ウィニバルドは、ハイデンハイムの修道院長として会員を導き、宣教に生涯をささげた。
 兄弟3人は、ともに神に生涯をささげ、みな聖人とされている。


◆神の宮に住む

2016年12月18日 12時33分40秒 | 聖書

やもりは手でつかまえることができるが、
王の宮殿にいる。         (箴言三〇28)
世にも小さくて弱い四つのもの、しかし知恵者中の知恵者としてあげられたのは、第一に蟻、第二に岩ダヌキ、第三はイナゴでした。きょうは第四として、「ヤモリ」の番です。
沖縄の北部にある小さな教会で私がお話をした時、教会の壁に何匹か張りついているヤモリを初めて見ました。その後、東京世田谷に住んでいた時、何と、家にもヤモリがいました。家族そろって食事をする部屋のガラス戸に、毎晩決まって一匹か二匹がへばりついて、虫を待っています。こわがっていた娘まで、いつか「かわいいわね」と言い出しました。足の小さい吸盤でぴったり張りついている姿は、いじらしい感じすらします。しかし、私たち家族が、この毎晩の訪問者ヤモリを愛するようになった最大の原因は、きょうの箴言三〇章二八節のことばによります。ヤモリは、手でつかまえて放り投げてしまえるほど小さくて弱い動物ですが、王の宮殿に入りこむことができます。
ダビデは王宮に住んでいる王でしたが、心の底から神の宮に住むことを恋い慕って歌いました。「万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです」(詩篇八四1―2)。フランスのブラザー・ローレンスは、コックさんでしたが、信仰によっていつも神の臨在の中に住み、生きました。彼の記した手紙や日記は、今でも、多くの人に読まれて励ましになっています。
罪人のかしらが、罪ゆるされるばかりか神の子とされ、神と共に王宮に住み、「アバ、父よ」と神を呼び、そのひざにのぼる道があるのです。
「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(ヨハネ一12)。
 

◆着物ではなく、

2016年12月18日 12時32分59秒 | 聖書
あなたがたの心を引き裂け。(ヨエル二・一三)
着物を裂くとか、その他の外面的な行為によって宗教的感情を表現するのは、容易になし得ることであり、しばしば偽善的なものである。しかし、真の悔い改めははるかに困難であり、はるかにまれなものである。
人は非常に煩雑な儀式に心をひかれる。それは肉を喜ばせるからである。しかし真の宗教は肉の人にとってはあまりに地味であり、またあまりに内省的であり、徹底的である。彼らはそれよりもずっと華美で、浅薄な世的なものを好む。外面的儀式は一時的には快い。目と耳は喜び、うぬぼれは強くなり、独善の心が起こる。しかしそれらは結局ごまかしである。死の瞬間、あるいはさばきの日に、たましいは儀式よりもはるかにまさる何ものかに頼る必要があるからである。生きた信仰がなければ、すべての信仰は全く無益である。誠実な心がないままでささげられた礼拝のすべては偽物であり、王の栄光をあざ笑うものである。
心を引き裂くことは神によって与えられ、厳粛に実感させられるものである。それは個人的に経験されるひそかな悲しみである。単なる形式としてではなく、個々の信者のたましいを揺り動かす聖霊の働きとして経験される。それは単に話したり信じたりすることではなく、生ける神の一人一人の子どもが、鋭く敏感に感じなければならないものである。またきわめて屈辱的なものであり、高慢な、へりくだることを知らないたましいは受けることができないものである。そして全く罪をきよめるものであり、祝福に満ちた慰めの準備となる。またこれには明らかな区別があり、神に選ばれた人々のみがあずかることのできるものである。
今朝の聖句は、私たちの心を引き裂くことを命ずる。しかし私たちの心は、生来のままでは大理石のように堅い。それをカルバリに携えて行かなければならない。まさに死のうとしておられる救い主の御声は、かつて岩を裂いた。その力は今も変わらない。
おお、御霊なる神様。私たちに救い主の死の叫びを聞かせてください。そうすれば、人々が悲しみの日に着物を裂いたように、私たちの心も裂かれます。
 

ヨブ記39章19-25節

2016年12月18日 12時31分34秒 | 聖書


39:21 「馬は谷で前掻きをし、力を喜び、武器に立ち向かって出て行く。
39:22 それは恐れをあざ笑って、ひるまず、剣の前から退かない。
39:23 矢筒はその上でうなり、槍と投げ槍はきらめく。」



 馬のことが語られています。

イスラエルの地は石地であるために、馬はあまり用いられませんでした。

代わりに、物の運搬用にロバが用いられました。

しかし、戦いのためには馬がないと戦いができませんので、ソロモンはこの馬を戦いのために求め、多用しました。

 馬は力がありませす。

しかもその力は、戦いの時に力を発揮します。

戦いに恐れを持たないで、出て行きます。

槍を投げられてもひるむことがなく、乗り手の指示に従って進んでいきます。

このような勇気は人が与えた物ではなくて、本来馬に備わっているものです。

競馬に見られるように、争いや戦いに対して、積極的に行動をする性質が、本来備わっています。

ですから、人はこの馬を戦いのためとか、あるいは狩りのために用い続けてきました。

人は、馬が持っているその性質を利用しただけなのです。


黙示録7章14~15節 (詩篇109篇)

2016年12月18日 12時29分30秒 | 聖書


★そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。」

■O:今日のコラム
黙示録7章は世界宣教における一つの重要なゴール地点です。この時、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が天において御座と小羊イエスの御前に立ちます(9節)。そして全世界の贖われた聖徒達が主の救いの素晴らしさを高らかに褒め歌います(10節を参考)。

主が聖徒達を迎えに来る事に対して、患難前説、患難中説、患難後説、その他にも様々な神学的な釈義があり、議論の的となりますが、私はこのテーマは議論をする事ではなく、希望を抱いて信じるべき事だと思っています。パウロは、主イエスが来るべき日に聖徒達を天に引き上げ、そこで主とお会いするという、このことばをもって互いに慰め(励まし)合いなさい(1テサロニケ4:18)。と言っています。初代教会の聖徒達にとって、主イエスが迎えに来られる事は議論の対象ではなく、希望と慰めを与えるメッセージだったのです。

黙示録7章においては世界宣教の完成の姿、いよいよ贖われた聖徒達が天に引き上げられ、主イエスと顔と顔を合わせて主とお会いする時の情景が啓示されています。ここに重要なヒントが記されています。「彼らは大きな患難から抜け出てきた者たち」(14節)、そして「神が彼らの上に幕屋を張る」(15節)。

この事から贖われた者達は大患難の中を通るのではなく、そこから抜けだして主の御もとに行く事が分かります。またこの幕屋とは、秋の仮庵の祭りの中にその啓示が秘められています。イスラエルの祭りは別の言葉で言うなら「神のカレンダー」です。春の「種を入れないパンの祭り」の時に主イエスは聖餐式を弟子達と初めて持ち、また「過ぎ越しの祭り」の時に神の小羊なるイエス様が十字架の上で血を流し罪の贖いを成し遂げられました。
またその後の「初穂の祭り」の時に死者の中から最初に蘇った初穂として主イエスは復活をし、そしてそこから七週を経た「七週の祭り(五旬節)」の時に聖霊が弟子達に注がれました。この様に祭りにしたがって神の計画がこの地に実現して行くのです。

そして、まだ成就していない祭りは、秋の祭り(ラッパの祭り、大贖罪日、仮庵の祭り)です。これは全て終末において実現する祭りなのです。黙示録7章は天の仮庵です。仮庵の祭りは7日間祝われ、8日目が「祭りの終わりの大いなる日」(ヨハネの福音書7:37)にあたります。聖書においては1日を1年とする数え方があります。つまり大患難の年数にあたる7年間、贖われた者達は天の幕屋において主イエスと昼も夜も共に過ごすという事をここから読み取る事が出来ます。

また当時のイスラエルの結婚式においても、花嫁が婚姻に至るまでの7日間、花婿と花嫁が幕屋の中で親密な時間を過ごします。この事からも、この天の幕屋は、主を愛する聖徒達に与えられる最も偉大な報いであり、主イエスとの最も親密な時間をそこで過ごし、そして黙示録19章に啓示されている、小羊の婚姻の時に至るのです。

この偉大な恵みに与ることが出来る為の唯一つだけの条件が聖書に記されています。それは「その衣を小羊の血で洗い、白くする」事です(14節)。日々、小羊イエスの十字架を見上げ、その尊い血潮によって洗われ、終わりの時の備えをしようではありませんか。


■A:考えてみよう
:主イエスの血潮を信仰によって宣言して、今日もこの身に主の聖さを受け取りましょう。


■P:祈り


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


12月17日(土)のつぶやき

2016年12月18日 01時30分28秒 | キリスト教