座間コミニティー

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◆戦いに力ある主。

2016年12月03日 17時18分57秒 | 聖書
(詩篇二四・八)
私たちの神が、その民のために、その民のうちに、その民により、驚くべきことをもたらされたのを見るなら、私たちの神が栄光のお方として民の目に映るのは、実に当然のことである。
彼らのために、主イエスはカルバリですべての敵を敗走させ、その全き従順のうちにみわざを完成されたので、敵のすべての武器は打ち砕かれた。主は勝利の復活と昇天によって地獄の望みを完全にくつがえし、とりこを捕えて引いて行き、私たちの敵を公然とさらしものにし、十字架によって敵に勝利を得られた。サタンが私たちに対し「罪がある」と責める矢は、砕かれる。だれが神の選ばれた者を責めることができるだろう。地獄の悪意の鋭い剣も、へびの子孫の不断の襲撃もむだである。なぜなら、教会では足の不自由な者も収穫を得、最も弱い戦士も栄冠を得るからである。
主が彼らのうちに征服者となられたことに対して、救われた者が主をあがめるのは当然である。彼らの生来の憎しみの矢は折られ、反抗の武器は砕かれたからである。私たちの邪悪な心の中に、恵みがなんという勝利を得たことか! イエスが私たちの意志を征服し、罪を王座から下ろされた時の主のご栄光の輝きよ! 私たちの中になお残る腐敗も同様に必ず敗北を喫するものであり、すべての誘惑、疑い、恐れはことごとく滅ぼされてしまうであろう。私たちの平和な心のエルサレムでは、イエスの御名はたぐいなく偉大である。主は私たちの愛を獲得し、それを身につけられる。
それゆえ私たちは、私たちによる勝利を確信して待ち望む。私たちは、私たちを愛してくださった方によって圧倒的な勝利者となる。自分の信仰、熱情、聖潔によって、この世にあるやみの力を打ち破るであろう。罪人をイエスに獲得し、偽りの組織をくつがえし、諸国民を回心させるであろう。神は私たちと共におられ、何ものも私たちを妨げることはできないからだ。
クリスチャンの戦士たちよ。今夜、歌を歌い、明日の戦いの備えをしよう。私たちのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる方である。
 

「わたしの栄光・・を見ながら、このように十度もわたしを試みて、聞き従わなかった者たちは・・

2016年12月03日 17時17分25秒 | 聖書

先祖たちに誓った地を見ることがない」(民数記14:32)

ヨシュアとカレブ以外の民たちは、斥候の言い分を信じ、不信仰に陥った。
民はみな巨人であり、自分たちはいなごのように見えた。自分たちは攻め上れない。

あの民は自分たちよりも強いからと。
民たちは大声で叫び、泣き明かし、エジプトの方が良かった、エジプトへ帰ろうと言い出した。

ヨシュアとカレブは信仰に立ち、上って行こう、彼らは自分たちのえじきとなると言った。
乳と蜜の流れる地カナンは、神の約束の地だ。今、目の前にある。
神は約束を成就して下さる。

それは必ず与えられる。それを受け取るのに必要なものは「信仰」だけだ。
しかし、自らの不信仰が門を閉じてしまった。
向きを変えて荒野へ出発することになり、結局、ヨシュアとカレブ以外は約束の地に入ることができなかった。

神は与えていて下さる。だのに、受け取る事ができなかった。巨人がいたからではない。
自分たちがいなごのようであったからではない。「信仰」が無かったからだ。

私たちも、目の前に巨人がいるだろうか。恐れさせ、落胆させ、気力をくじく巨人だろうか。
この不信仰ゆえに賜物を受け取れなかった民を思い出し「ぜひとも、上って行って占領しよう。

「必ずできるから」と信仰を献げて前進しよう。主を信じて、約束のものを受け取ろう。
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神様に頼ることが一番確かなのに、恐れや不安に襲われた時、それ以外のものに頼ってしまう。
経験や、知恵や人の言葉、それらが御約束の言葉より大きくなっていないだろうか。
御言葉に、信仰に立とう。


今日の聖人の記念日

2016年12月03日 07時48分39秒 | キリスト教

聖フランシスコ・ザビエル司祭

1506年-1552年

 ザビエルは、スペイン、ナバラ地方の貴族の家に生まれた。1526年からパリ大学で学び、そこでイグナチオ・デ・ロヨラと知りあった。イグナチオの考え方に影響を受けフランシスコは、名誉も財産も捨て、キリストに従う生き方をしようとイグナチオの仲間となった。1534年にパリのモンマルトルで誓いを立て、宣教に身をささげるイエズス会を創立した。

 3年後に司祭となったフランシスコは、イタリアで活躍し、その後1541年にはポルトガル王の要請を受けて、イグナチオからインドに派遣された。

 インドでは、気候・風土・習慣などの困難にあいながらも、宣教に尽くし多くの人びとに洗礼を授けた。その後マレーシア、インドネシア、フィリピンなどの島々を巡り宣教した。

 マラッカで日本人のやじろうと出会い、彼を信仰に導き、1549年、彼とともに日本の鹿児島に渡った。
 平戸、博多、山口を通って、天皇から宣教の許可を得るために京都に向かったが、会うことができずに山口に戻った。そこで大名の大内義隆より宣教の許可を得、熱心に活動した。その後、日本が中国の仏教の影響を受けていることを知ったフランシスコは、まず中国に渡ることを決意し、1551年に日本を離れインドに戻った。

 中国に入ろうと努力するが、広東港外の上川島で病気になり、亡くなった。フランシスコの遺体はゴアに移された。


◆義と愛の会えるところ

2016年12月03日 07時47分37秒 | 聖書

誠実をもって寄るべのない者をさばく王、
その王座はとこしえまでも堅く立つ。(箴言二九14)
二九章は、特に上に立つ王の資格について、ところどころで言われています。
第一に、公平と正義の原則を貫き、信賞必罰をもってさばき、治めることです。しかも第二に、愛と思いやりを末端まで行き渡らせなければなりません。
・ 貧しい人や寄るべのない者を生かす。
・ 圧迫・迫害されている人を解放して自由にする。
・ やもめ・みなしご・老人・病人・耳や目の不自由な人・その他ハンデのある人を助け励ます。
このような上に立つ者となるために、二つのことが必要です。
第一は、自分自身が正義と愛の人であることです。しかし、だれが、生まれつき正しくきよく愛に満ちた人でありえましょう。神の前に、自分のみじめさをいやというほど知らされながら、罪をゆるされ、神の愛を受け入れた人こそ、そんな人になれるのです。
第二は、自分自身が十字架を負うことです。正義と愛の二つは、相反するものです。正義は犯罪者をさばいて暗黒の刑罰へ送りこみます。愛は犯罪者まで愛して、暗黒から光へと救い出します。もし正義であり愛でありたい時は、必ず十字架があります。
イエス・キリストは、愛するがゆえに十字架にかかり、私たちの身代わりとなって、私たちの罪の罰を受けてさばかれ、私たちをゆるし救い生かしてくださいました。愛と義が、十字架で会ったのです。私たちには、けっしてイエス・キリストのカルバリの十字架のような十字架は背負いきれません。しかし、私たちなりに負うべき十字架があるのではないでしょうか。自己犠牲こそ、支配者の道です。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」(ルカ一四27)。
 

◆あなたには何の汚れもない。

2016年12月03日 07時46分48秒 | 聖書
(雅歌四・七)
主はご自身の教会が、美に満ちていることを積極的に宣言され、その後で「何の汚れもない」と消極的なことばで賞賛しておられる。中傷を好むこの世は、花婿なる主が花嫁である教会の美点のみをあげて、欠点や汚点はわざと省いていると言うかもしれない。花婿なる主は、このようなことを予想されたかのように、花嫁のすべては美しいと言われた後に、何の汚れもないと述べておられる。一点の汚れ、美を損なうごく些細なものも、まもなく除かれるであろう。しかし現在においても、信者は主の目からすれば、このような小さな欠点からも解放されているのである。
もし主から、あなたには大きな傷やはなはだしい欠点はないと言われたとすれば、それでさえ大きな驚きである。まして、教会には何の汚れもないというみことばを聞く時、私たちの驚きはどれほどのものであろう。もし主が、すべての汚れを一つ一つ取り去ることを約束されたとしても、それだけで私たちの永遠に喜ぶべき十分な理由となる。しかし、主がすでにそれを成し遂げたと言われる時、だれがあふれる満足と歓喜を抑えることができよう。私のたましいよ。ここに髄と脂肪とがある。満ち足りるまで食し、その美味に飽き足りるようにせよ。
イエスはその花嫁と争われない。花嫁はしばしばイエスのみもとを離れてさまよい、聖霊を悲しませる。しかし、イエスはそれによって花嫁に対する愛を変えられることはない。時に、花嫁を訓戒されることはある。しかしそれは常に優しく、愛情深い意図をもってである。主はその時にすら「わが愛する者よ」と呼ばれる。私たちの愚かな行いは記憶されない。主は私たちについて悪感情を抱かれず、罪を犯した後も私たちを赦し、かつ愛される。これは幸いなことである。
イエスが私たち人間と同じように無礼を心に留められるなら、どうして私たちは主と交わることができよう。時折信者は、わずかな摂理の変化にも感情を害する。しかし私たちの夫は、この愚かな心をよく知っておられるので、その悪い行為にも怒られることはない。
 

ヨブ記35章9-16節

2016年12月03日 07時45分31秒 | 聖書


35:14 「しかも、あなたは神を見ることができないと言っている。訴えは神の前にある。あなたは神を待て。
35:15 しかし今、神は怒って罰しないだろうか。ひどい罪を知らないだろうか。35:16 ヨブはいたずらに口を大きく開き、知識もなく、自分の言い分を述べたてる。」



 エリフはヨブに語ります。

あなたは、神を見ることができないと言って叫び、神に訴えている。

しかし、神は答えられない。

それは、神がお怒りになっているからではないのか。

あなたは、神があなたの罪を知らないでいるとでも言うのか。

あなたは、いたずらに大きな口を開いて自分の言い分を申し立てるが、神に関する知識が欠けている。

神があなたに対して口を閉ざしておられることには、原因があるのだ。

それはあなたには罪があるのだ、というのです。

 私たちはエリフの言うように、本来、聖なる神の前には立つことができない者です。

それは確かなことです。

しかしそのお方が、このような私たちを交わりに招いてくださっているのです。

忘れてはならないことです。


ヨハネの福音書17章3節

2016年12月03日 07時42分52秒 | 聖書


★その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

■O:今日のコラム
ヨハネの福音書17章は主イエスが十字架に向かう前の天の父に対する祈りであり、ここに重要な啓示が数多く記されています。

主イエスの公生涯の初めから十字架までの歩みにおいて、最初のメッセージがマタイ5章~7章の山上の説教なら、最後のメッセージがヨハネの福音書13~17章です。最初と最後には特に重要な啓示が秘められているのです。

この箇所で主イエスは「永遠のいのち」について天の父に祈っています。その永遠のいのちとは、天の父と主イエスを知ることです。この「知る」とはただ知識として認識する事では無く、全ての人格を持って深く親密に関係を持つ事を意味しています。

使徒ヨハネは主イエスが最後の祈りにおいて祈ったこの「永遠のいのち」をどうしても伝えたい事として手紙にこう書き記しました。

「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」(1ヨハネ1:3)

ここで使われている「交わり」と言う言葉も、全ての人格をかけて深く親密な関係を持つ事を意味しています。

全ての人類は永遠と言う時間を二つの場所からしか選択出来ません。一つは永遠の死と滅び、もう一つは永遠のいのちと御国です。しかし、良く考えてみて下さい。永遠の死と言っても無になる訳では無く、燃える炎の中で苦しみ、惨めで、嘆くという感覚も感情もあり、永遠の死の中でも永遠に生きているのです。

では死と命の明確な違いとは何を持って定義する事が出来るのでしょうか?それは主と共に居るか。主と離れた場所にいるか。と言う違いです。

永遠の死においては、永遠に主と引き離された場所で時間を過ごし、永遠のいのちにおいては、永遠に主の御側で時間を過ごすのです。

つまり「永遠のいのち」とは主と親密な関係を持ち、主と共に居る事。つまり、主を知る事なのです。

私達は、今すでにイエス様の十字架の贖いと聖霊様を通して、主を知る事が出来る恵み、永遠のいのちの中に入れられている事を感謝します。そして、ますます地上の命の日の限り主との交わりを深め、永遠のいのちの望みの中を歩み続けて行こうではありませんか。

■A:考えてみよう
今日、祈りと御言葉の中で新たに主を知り、主との親密な交わりの中に入りましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


12月2日(金)のつぶやき

2016年12月03日 01時36分47秒 | キリスト教