座間コミニティー

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◆わたしはまた、あや織りの着物をあなたに着せ、

2016年12月21日 17時14分36秒 | 聖書
じゅごんの皮のはきものをはかせ、亜麻布をかぶらせ、絹の着物を着せた。(エゼキエル一六・一〇)
見よ。なんというたぐいなき寛大さをもって、主はその民の衣装を準備されたことであろう。そこには、熟練した神のわざが、たぐいないあや織りの着物を仕上げている。神の性質はことごとくそれに参加し、すべての神の美しさがそこに現されている。私たちの救いにまさる芸術はなく、聖徒たちの義のように巧妙な作品はない。義認は、世々の教会の学者のペンを奪うとこしえに賛嘆されるべきテーマである。くすしくも神はそれを「仕組まれた」。
このすべての精巧さに加え、有用性と耐久性がある。これは、私たちにじゅごんの皮のはきものをはかせることに比較できる。じゅごんの皮は幕屋をおおうものであり、最も美しく最も丈夫な皮であった。信仰によって神より与えられる義は、とこしえに続く。そして、この神の作品をはいている者は砂漠を安全に旅することができる。獅子とコブラを踏むことすらできる。
私たちの聖なる衣服の潔白と威厳は、亜麻布に表されている。主がその民をきよめられるとき、彼らは祭司のように純白の衣を着る。その白さは雪も及ばない。それらは、人と天使の目に美しいものであり、主の御目にすら一点のしみもないものである。しかしまた、王より賜った衣は、亜麻布のように優雅であり、高価なものである。それはどんな費用も惜しむことなく、善と美とを尽くしたものである。
ではどうなのか。それに対して何の感想もないと言うのか。たしかに、感謝の念を抱き、喜びを表すべきである。私の心よ。おまえの夕べの賛美をやめてはならない。おまえの笛の調子を整えよ。そしておまえの琴をかき鳴らせ!
 たましいよ。おまえは不思議な衣を着ている
 これぞ、偉大な聖い三一の衣である
 たましいよ。妙なる賛美の調べのうちに
 おまえのすべての力を和合させよ
 

「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。

2016年12月21日 17時13分52秒 | 聖書


あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません」(イザヤ7:4)


主は「気をつけて、静かにしていなさい」と言われる。何か事が起きた時に、まず「主の前に静まれ」と。困窮事態に陥った時、私たちはどうするだろう。

驚き慌て、心騒ぎ、パニックになり、とにかく何とかしようと走り回るだろうか。
主が飛んでしまって、主に頼らずに、自分の力、知恵、判断で、焦り、動き回り、何度失敗した事だろう。

対人関係で、もつれた時も、肉の感情に任せて言葉を発してしまう。
無思慮な、不用意な言葉で、更に関係を悪化させてしまい、取り返しのつかない事になる。
何度後悔した事だろう。

何か起こると、焦り、何とかしなければと、神から離れて、肉で動いてしまう。
又、祈るには祈るが、口先だけになり、神を待ち望むことをせず、祈った途端、自分で動き回り、失敗する。

まず神の御前に静まり、神の御声を聞こう。事態を主の御前に持って行き、祈り、委ね、ひたすら御心を尋ねよう。

ユダは敵対して来る隣国に恐れていた。しかし、主は敵対勢力の燃える怒りを「木切れの煙る燃えさし」と、恐れる必要がないと言われた。

あなたは、今、心騒ぐ事態があるだろうか。思い煩いや不安、又、怒りやいら立ちの中にいるだろうか。
感情に任せて動かずに「気をつけて、静まり」祈りに持って行き、主の御心を尋ねよう。
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何ごとかが起こった時に、待つ事、静まる事には信仰が必要だ。
ここに主がおられ、全てにご計画があり、それは益となり・・心弱らせる前に静まり、まず祈ろう。


今日の聖人の記念日

2016年12月21日 07時09分24秒 | キリスト教

聖ペトロ・カニジオ司祭教会博士

1521年-1597年

 ペトロは、当時ドイツ領であったニンヴェーゲン(現在のオランダ)で生まれ、信仰深く育てられた。ケルン大学に入り、初め法律家を志したが、神学の研究に傾倒し、司祭となって生涯を神にささげたいと思うようになった。そのころ、ドイツを訪れたイエズス会員のペトロ・ファーブルと出会って、ペトロは自らの道を見つけ、1543年にイエズス会に入り、ドイツ最初の同会員になった。当時のドイツは、町や人、教会も荒廃するというひどい状態にあり、司祭もおらず、修道者は人びとの軽蔑の対象とすらなっていた。
 ペトロは、司祭になった翌1547年にトリエント公会議に出席し、カトリック擁護の立場を強調した。大学で教鞭を取る一方、神学やカトリック要理に関する著作の出版や説教によって、人びとを信仰へと導いた。また、ケルンに最初のイエズス会修道院を設立したり、各地に大学や施設を建てるなど、その地方の教会の刷新に多大なる貢献をした。  ペトロの数多い著作の中では『カトリック小教理問答』は有名で、200版を重ね15か国語に翻訳されている。  彼は、8世紀にドイツにカトリックをもたらした「ドイツ第1の使徒」聖ボニファティウスに並び、「ドイツ第2の使徒」と呼ばれている。


◆力 を 費 や す

2016年12月21日 07時08分10秒 | 聖書

あなたの力を女に費やすな。
あなたの生き方を
王たちを消し去る者にゆだねるな。(箴言三一3)
王の母が、王である息子に与えたいましめの第一は、「あなたの力を女に費やすな」でした。
男一匹、何のために心を燃やし、力を傾けるべきですか。男ばかりではありません。女の人も、いったい何のために情熱を燃やし、生涯をかけ、時間もエネルギーも費やすべきですか。自分自身を注ぎこむ使命・目的・生きる目標があることこそ、すばらしいことです。
預言者イザヤは、「なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか」(イザヤ五五2)と語りました。愚かな私たちは、価値のないもののために、多くの力を費やしています。
歴史をふり返ると、つまらない女に身を入れて、自分をも国をも滅ぼしてしまった王が何人もいます。夏の桀王は、末喜に入れあげて滅びました。殷の紂王は妲己、周の幽王は褒Ⅷに迷いました。美人や遊女を傾国・傾城というのは男の身勝手ですが、世には、女のために情欲を燃やして、肉体の力も心の力も金の力も使いはたした男が多くいます。聖書の中でも、サムソンとデリラの場合、ヘロデ王とへロデヤの場合などがあります。
あなたは、何のために、時間とエネルギーを使っていますか。できれば、リストにしてみてください。
* つまらない価値のないもののために、力を費やしていますか。
* 自分のためにのみ、精力を使っていますか。
* それとも、ほんとうの価値のあることのため、永遠のため、神のため、愛のために心を燃やしていますか。
パウロは、「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」(ローマ一二11)とすすめました。
 

◆神が……

2016年12月21日 07時07分29秒 | 聖書
とこしえの契約をわたしと結ばれたからだ。(Ⅱサムエル二三・五協会訳)
この契約は神の側より申し込まれたものである。「神が……とこしえの契約をわたしと結ばれたからだ。」私のたましいよ。立ち止まれ。永遠の父なる神が自ら進んでおまえと契約を結ばれた。しかり、一言をもってこの世界を造られた神がそのようになされた。神はその栄光のからだをかがめて、おまえの手を取り、おまえと契約を結ばれる。もし私たちがその真の意味を理解するならば、それは私たちの心を永遠に喜ばせるであろう。驚くべきへりくだりの契約よ。
「神が……とこしえの契約をわたしと結ばれたからだ。」国王は私と契約を結ぶことはない。もし結んだとすれば、それは特典である。まして、地の諸王の王、永遠の主、とこしえのエロヒム(神)が、「とこしえの契約をわたしと結ばれた」のである。
しかし、その適用が個別的なものであることを知れ。「神が……とこしえの契約をわたしと結ばれたからだ。」ここに、個々の信者に対する甘美な慰めがある。神がこの世のために平和をもたらされたとしても、それは私にとって無である。私は、神が私のために平和をもたらされたかどうかを知りたい。神が契約を結ばれたということは、私にとってほとんどかかわりないことである。私が知りたいのは、神が私と契約を結ばれたかということである。神が私と契約を結ばれたとの確信は尊い。もし聖霊なる神が私にこの確信を与えてくださったならば、神の救いは私のものであり、神の心は私のものであり、神ご自身が私のものであり、そして神は私の神なのである。
この契約の期限はとこしえである。とこしえの契約とは、初めがなく、決して終わることのない契約である。変わりやすいこの世にあって、「神の不動の礎は堅く置かれて」いることを知り、「わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない」との御約束をもつのは、なんとすばらしいことか。臨終のダビデのように、たとえ私の家族が私の望むように神と共にいなくても、私はこの歌を歌うであろう。
 

ヨブ記40章3-5節

2016年12月21日 07時05分46秒 | 聖書


40:3 ヨブは主に答えて言った。
40:4 「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。
40:5 一度、私は語りましたが、もう口答えしません。二度と、私はくり返しません。」



 ヨブは主の問いかけである「言いたててみよ」、すなわち答えてみよ、という問いかけに、全く答えることができませんでした。

彼は自分のこと、また自分の周りのことのみに目を向けて、そこにある不条理なこと、不当と思えることに目を向けて、それらを自分にもたらしたのは神であると言って、神を責めてきました。

 しかし今、改めて主の言葉を聞いて、今まで自分が責めてきた主ご自身が、自分の思い考えていたお方よりも遙かに、考えることができないほどに、知恵のある、力のあるお方であることを知らされました。

すべてのことを知っておられ、またその力を持ってすべてのことをなし得る、真の支配者、また保護者であられることを知ったのです。

ヨブは沈黙をするのみでした。


詩篇112篇7~10節

2016年12月21日 07時03分16秒 | 聖書


★『その人は悪い知らせを恐れず、
主に信頼して、その心はゆるがない。
その心は堅固で、恐れることなく、
自分の敵をものともしないまでになる。
彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。
彼の義は永遠に堅く立つ。
その角は栄光のうちに高く上げられる。

悪者はそれを見ていらだち、
歯ぎしりして溶け去る。
悪者の願いは滅びうせる。』

■O:今日のコラム
この詩篇には、聖徒、教会がサタンに完全に勝利し、栄光の教会へと引き上げられるプロセスが描かれています。その聖徒を7節で『その人』と記しています。悪い知らせを恐れず、主に信頼して、揺らがない。そんな者に私たちは召されているのです。それは、御言葉を聞いて行う人のことです。その人は揺るがない岩、揺るがない神の御国という土台に立っている神の建物、生ける神の宮なのです。
マタイ7章では、聞いて行う賢い人は、岩の上に家を建てているとあります。聞いて行わない人は砂の上に家を建てた愚かな人である、とあります。信仰は聞くことから始まっていきますが、信仰は行う事で全うされるのです。行いまで至らない信仰は、途中でいのちを失って死んでしまった信仰となってしまいます。
    神により頼む人、つまり信頼(信仰と訳されるヘブル語エメスは、信頼すると訳される方が一般的です)している人は、御心を行う事が自然なのです。

『義のいけにえをささげ、主に依り頼め』(詩篇4:5)

『しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住まい、
わざわいを恐れることもなく、安らかである。』(箴言1:33)

とある通りです。
    そして、神に聞き従うなら、必ず隣人を神の愛で愛しているはずです。隣人を愛する人は律法を全うしているからです。神の愛で人を愛する事を『憐れみ』と聖書は書いています。詩篇112篇で『彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた』とあります。私たちのサタンに対する勝利とは何なんでしょうか?もちろんそれは『聞き従う』事ですが、違う言い方をするなら、『主が愛してくださったように互いに愛し合う事』です。私たちが、互いに神の愛(憐れみ)をもって愛し合う事は、サタンに対する勝利宣言なのです。
その義は永遠に堅く立ち、栄光に輝き、私たちは引き上げられる(究極は携挙)のです。その時にサタンは完全に敗北し歯ぎしりするのです。憐れみはさばきに向かって勝ち誇るのです!ハレルヤ!
    自分を建てあげる事は、重要ですが、人を憐れむ事、人を建てあげる事(神の愛は人の徳を高めます。ギリシャ語でオイコドメオ。建物を建てあげる事です)に関心が無いなら、何かがおかしいのです。

『彼らは、あなたがたの愛餐のしみです。恐れげもなくともに宴を張りますが、自分だけを養っている者であり、風に吹き飛ばされる、水のない雲、実を結ばない、枯れに枯れて、根こそぎにされた秋の木、
自分の恥のあわをわき立たせる海の荒波、さまよう星です。まっ暗なやみが、彼らのために永遠に用意されています。』
(ユダ1:12~13)

    自分だけを養っている者は、『実を結ばない木』だとあります。ユダ書では、その木は闇に落とされる事が描かれています。他の箇所でも、実を結ばない木は燃えるゲヘナに落とされる事が記されています。ここにその一つを紹介しますが、たくさんの箇所で読み取れます。

『良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。』(マタイ7:19)


    シンプルな事ですが、奥の深い事です。私たちが互いに憐れみ合い、互いに助け合い、互いに重荷を追い合い、祈り合い、、励まし合い、赦し合い、愛し合うのです。

■A:考えてみよう
キリストの律法を全うする者となろう!

■P:祈り
自分にしてほしいように、他の人にする事が出来るようにさせて下さい。キリストの血の力を宣言し私の憐れみの心が贖われ、イエス様の憐れみに近づきますように!


12月20日(火)のつぶやき

2016年12月21日 01時31分16秒 | キリスト教