座間コミニティー

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◆主は彼女の心を開いて……。

2016年12月10日 17時17分05秒 | 聖書
(使徒一六・一四)
ルデヤの回心には、多くの興味深い点がある。
それは摂理によってもたらされた。彼女はテアテラ市の紫布の商人であった。しかし、折りよくピリピにいて、パウロの話を聞くことができた。恵みのしもべである摂理が、彼女をちょうどよい場所に導いた。
さらに、恵みは彼女のたましいを、祝福のために備えていた。――恵みが恵みのために備えをした。彼女は救い主を知らなかった。しかし、ユダヤ人であったので、イエスを知るためのステップとなる多くの真理を知っていた。彼女の回心には手段が用いられた。彼女は、安息日に、いつも祈る時刻に出かけた。そして、そこで祈りが聞かれたのである。決して恵みの手段(説教と聖礼典)を無視してはならない。私たちが神の家にいない時にも、神はたしかに私たちを祝福されるが、神の聖徒と交わっているとき、神に祝福されることを望むはるかに大きな理由をもつのである。
「主は彼女の心を開いて……」とあるのに注意せよ。彼女は自分で心を開いたのではなかった。また彼女の祈りがそれをしたのでも、パウロがそれをしたのでもなかった。私たちに平安を与えるものを受け入れるためには、主ご自身が私たちの心を開かなければならない。ただ主のみが、戸の鍵穴に鍵を差し入れて戸を開き、中に入ることがおできになる。主は心の造り主であられ、また心の主人であられる。
開かれた心の、最初の外面的な証拠は服従であった。ルデヤはイエスを信じると、すぐにバプテスマを受けた。神の子どもが、さばきを恐れる利己的な動機からではなく、主に対する従順と交わりから、救いには本質的でない命令に喜んで従うのは、その心が謙遜にされ、砕かれている証拠である。
また、次の証拠は愛であった。それは使徒たちに対する感謝の行為となって現れた。聖徒に対する愛は、常に真の回心者のしるしであった。キリストのため、その教会のため、何もしない者は、「開かれた」心の非常に心細い証拠を示しているにすぎない。
主よ。常に私に開かれた心を与えてください。
 

「主は私の泣く声を聞かれたのだ。主は私の切なる願いを聞かれた。

2016年12月10日 17時16分11秒 | 聖書


主は私の祈りを受け入れられる」(詩編6:9)

ダビデは、サウル王に妬まれ、命をつけ狙われる。
女たちの「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」の言葉に、サウルは怒りと嫉妬の炎が燃え上がった。

それ以来、ダビデは逃げ回る事になる。
サウル王から殺されかけ、勿論敵からも命を狙われ、息子の謀反により、息子からも狙われる。
ダビデ自身が病にも陥り、もう状況は周囲からは攻撃受け、自分自身も弱り、絶体絶命の窮地だ。

非常なる悩みと苦しみの中にいた。ダビデこそは神の心にかなった人だった。
信仰もって人生を歩むなら、悩みが無くなるのではない。悩みや問題は必ず来る。
私達は苦しくてたまらず、とにかくその問題が無くなる事を願う。

状況が変わる事を願う。問題が問題なのだと思ってしまう。
しかし、そうではない。問題は、何ら問題ではない。
苦しみの中でこそ、神が神であられる事を身をもって知って行く。

ダビデは「嘆きで疲れ果て、涙で夜ごとに寝床を漂わせ」と、泣いて泣いて嘆いた。
苦しみの中でこそ、神との深い交わりに入れられる。

「主よいつまでですか、あなたは」と、ありのままの気持ちを神にぶつけ、順境の時には決して経験出来ない恵みだ。
何とかしようともがき、走り回るのではなく、問題をすべて神に持ち出せ。

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自分でもがくと空回りだ。心を注ぎ出し、神に寄りかかろう。
神との近い交わりを経験し、祈りは聞かれる。


今日の聖人の記念日

2016年12月10日 11時30分34秒 | キリスト教

聖エウラリア(バルセロナ)/聖エウラリア(メリダ)

?-304年/291年ごろ-304年

 2人エウラリアは、ともにスペインに生まれ、スペインの有名な殉教者である。両者はしばしば結び付けられ、混同されたために、600年ごろ、スペインの典礼書に一緒に加えられた。それ以来、2人ともメリダで殉教したとされた。スペイン古典文学『エウラリアの歌』によると、エウラリアは幼い子どもでありながら、迫害を受けても死を恐れず、最後まで信仰を守り通して殉教したといわれている。

 バルセロナのエウラリアは、コルドバのエウロギウスが1574年に記した聖人伝で、バルセロナの地と結びつけられていることから、バルセロナと船員の守護聖人とされている。メリダのエウラリアをメリダと結びつけたのは、プルーデンティウスとされている。


ヨブ記37章14-24節

2016年12月10日 11時29分30秒 | 聖書


37:23 「私たちが見つけることのできない全能者は、力とさばきにすぐれた方。義に富み、苦しめることをしない。 37:24 だから、人々は神を恐れなければならない。神は心のこざかしい者を決して顧みない。」



 エリフは語ります。

「これに耳を傾けよ。ヨブ。」と。

このように叫んで、神の創造のみ業における、神の権威と力とを語ります。

神の力は、私たちには計り知ることができないほどに偉大であり、またその威厳も計りがたいというのです。

この方は、私たちがそのすべてを知ることができない全能者であられて、私たちには見つけることができない方、つまり、このお方のすべてを知り得ることができない、義なる方であるというのです。

 そのような方に向かって、心こざかしくして文句を言う人を、神は決して顧みることはない。

だから、ただ心静かに神を恐れ敬うことのみが、人にとって必要なことだというのです。

ですからエリフは、ヨブというのは、神の前に神の威厳を認めない、愚かな人であるというのです。



◆知恵ある者の祈り

2016年12月10日 11時26分56秒 | 聖書

二つのことをあなたにお願いします。
私が死なないうちに、それをかなえてください。
不信実と偽りとを私から遠ざけてください。
貧しさも富も私に与えず、
ただ、私に定められた分の食物で
私を養ってください。
私が食べ飽きて、あなたを否み、
「主とはだれだ。」と言わないために。
また、私が貧しくて、盗みをし、
私の神の御名を汚すことのないために。(箴言三〇7―9)
二つの祈りをかなえてあげようと神に言われたとしたら、あなたは何と祈るでしょうか。ギリシャのミダス王は「私の手が触るものを、みな金にしてください」と願って、身の破滅を招きました。
この箴言を記したアグルは、二つのことを祈りました。第一は、私が偽善者にならないで、いつも真実でいられるように、第二に、極端に富んだ人にしたり、極端に貧しくしたりせず、足りることを知って生きさせてくださるようにと願ったのです。すぐれた祈りだと思いませんか。よく調べると、この二つの願いには、三つのポイントがあると思います。
・ 不信実と偽りからの救い。
どんなにけがれ、挫折していても、本気で自分をさらけ出す真実さえあれば神の真実な愛のいのちに一〇〇%つながって、新しいいのちの道を再出発できます。悔いた魂の真実こそ、いのちにつながる断面なのです。
・ 飢え渇きを忘れた自己満足からの救い。
富みすぎて、神と、その愛といのちの力もいらないと思うようになったら、人間おしまいです。「主とはだれだ」とうそぶき、神に対して無関心になる時、人間の魂は死ぬのです。
・ 悪の誘惑からの救い。
イエス・キリストも、主の祈りの中で「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」(マタイ六13)と祈れと教えられました。神を離れる人は、いつ罪を犯すか分からない、小さい弱い者です。
 

◆このようにして、私たちは、

2016年12月10日 11時25分58秒 | 聖書
いつまでも主とともにいることになります。(Ⅰテサロニケ四・一七)
私たちが主のすばらしい訪問を受けることがあっても、それはなんと短く、はかないものであろう。私たちは主にまみえる時、表現できない喜びと栄光に満たされるが、しばらくすると主の御姿を見失う。なぜなら、私たちの愛する方は、私たちから身を引かれるからである。主は、かもしかや若い鹿のように山々をとび越えてかなたに行かれる。主はゆりの花の間で群れを飼うことをやめて、香料の国へ行かれるのである。
 もし今日、主が私たちを祝し
 罪赦されたとの感を与えられても
 明日はまた、私たちを悲しませ
 たましいに苦悩の感を与えられる
私たちが主を遠くから見るのでなく、顔と顔とを合わせて見る日を思うのは、なんと楽しいことであろう。その時、主は私たちを一夜の宿を求める旅人のようにではなく、とこしえにその栄光の胸に抱きしめられる。私たちはしばし主を見ないであろう。しかしやがて、
 私たちの驚きの目は
 永遠に救い主の美しさに注がれ
 私たちは絶えることなく
 主の奇しい愛をほめたたえる
天国においては心労や罪で煩わされず、涙のために目がかすむこともなく、地上の雑事が幸いな思いを乱すこともない。私たちは何ものにも妨げられず、疲れない目をもって、永遠に義の太陽を見つめるであろう。
もし時折主にまみえることさえ、この上なくすばらしいことであるとすれば、雲によって妨げられることなく、とこしえに御顔を拝し、再び悲しみの世を見ることのない状態に置かれるのは、なんと大いなる喜びだろう。幸いな日よ。いつそれは来るのか。沈むことのない太陽よ、昇れ。その時、たましいに大いなる改革のみわざがなされ、感覚的な喜びは私たちを離れ去る。もし死が主との不断の交わりに入ることであるとするならば、それは私たちにとって益である。その時、黒いしずくは勝利の大海にのみ込まれるのである。
 

ユダの手紙14~15節

2016年12月10日 11時24分33秒 | 聖書


★アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。すべての者にさばきを行い、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」

■O:今日のコラム
ユダの手紙は短い1章だけの手紙ですが、終わりの時代の生き方に対して重要な教えが記されています。その中でエノクの預言の引用がされています。これは聖書の外典にあたるエノク書からの引用です。初代教会の時代にはこのエノク書が読まれていたものと思われますが、とにかく注目するのはエノク書がどうかという事ではなく、そのエノクの生き方です。
エノクはアダムから七代目の信仰の継承者ですが、彼が生きた時代には、その対象的な位置にあった罪と暴虐の生き方を継承したカインの子孫も七代目に達し、その七代目のレメクにより数々の罪の行いがなされ、主が心を痛め、人を創った事を後悔する程の堕落が全世界に蔓延していました。エノクについて聖書には数多くの記述はありませんが、たった一言の言葉に重要な重みがある事が記されています。聖書にはエノクは「神とともに歩んだ。」と記されています。
エノクは罪と暴虐が満ち溢れる時代において「神と共に歩んだ」のでした。それは決して簡単な事では無かったでしょう。罪に流れる事や神の御心に反する生き方をするのは簡単であり、逆に主を愛し、主に従順する生き方は困難で、孤独で、試練も味わったでしょう。

しかし、何故その時代の中でエノクは主の御前に忠実に歩み、主との親密な愛をこの世の快楽に優るものとして生きる事ができたのでしょうか。

第一に彼は「アダムから七代目」と記されています。創世記の系図を見ると、カインの系図にはアダムの名が無く、カインの名から始まっています。つまり父からの霊的な相続が無かったのです。しかし、アダムの系図は、セツに繋がりそして、信仰者の家系が続いて行きます。当時はアダムがヤハウェなる主から聞いた教え(御言葉)を、口伝と巻物において世代から世代へと伝えて行きました。つまりエノクの内にも、祖先から聞いた御言葉が蓄えられ、主の言葉が彼の内で生きていたので、罪の時代から彼の心が守られたのです。
当時は限られた御言葉だけでもこの様な忠実な生き方を守り抜く事が出来たのであれば、現代、私達は神の教えが全て揃った聖書66巻を持つ事が出来る莫大な恵みに与っています。この恵みを覚えて日々御言葉の朗読をし、自分の心に御言葉を蓄えるなら、必ず今の罪の時代においても私達はエノクの様に主に忠実な者として生きる事が出来るでしょう。

そして、もう一つエノクは信仰により永遠の報いを見つめ続けました。ヘブル11章には数々の信仰の勝利者達が記されていますが、その中にエノクが登場します。そこには「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」(ヘブル11:5)
と記されています。彼は信仰によりその時代の中で主だけを見上げ続け、主に喜ばれる歩みをし、そして生きたまま天に上げられるという恵みを受けました。続く御言葉にはこうあります。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)
私達は主を愛し、求める者達に必ず報いがある事を信じなければいけません。それが忠実な信仰の歩みへとなって行くからです。ユダの手紙にあるエノクの預言には、聖徒たちは主と共に治め、また全ての罪と悪が裁かれる事が記されています。これは黙示録19章に記されている、花婿なる主イエスと花嫁が共にこの地の悪と暗闇を打ち破る姿と繋がっています。花婿である主イエスの別名は「神のことば」なるお方です。御言葉を愛する生き方は、主ご自身を愛し、主との親密な愛の中に生きるエノクの様な生き方なのです。

■A:考えてみよう
今日、御言葉を10章朗読し、また読んだ御言葉を口ずさみ、心に刻みましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


12月9日(金)のつぶやき

2016年12月10日 01時32分56秒 | キリスト教