座間コミニティー

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◆主よ。不面目は、

2016年06月14日 16時21分25秒 | 聖書
あなたに罪を犯した私たち……のものです。(ダニエル九・八)
 
罪を深く意識し、それをはっきりと見、その極悪性とそれが当然受けるべき罰とを考えるならば、私たちは当然、御座の前に身を投げ出すはずである。私たちはクリスチャンとして罪を犯した。ああ、なんということであろう。私たちは恵まれていながら、なお感謝を忘れた。この上ない特権を受けていて、それにふさわしい実を結ばなかった。長く信仰の戦いに加わっている者でも、過去を顧みる時赤面しない者があろうか。
私たちが生まれ変わる前の出来事ならば、赦され、忘れられるかもしれない。しかし新生後に、以前ほどには罪を犯さないが、それでも私たちは、光に対し、愛に対し罪を犯している。私たちの心の深奥にさし込む光に対して、また私たちが喜ぶ愛に対して罪を犯している。赦されたたましいの犯す罪の極悪さよ! 赦されていない罪人の罪は、神が選ばれた者の罪に比べれば、はるかに軽い。
ダビデを見よ! 多くの人は彼の罪を語るであろう。しかし、私はあなたに懇願する。彼の悔い改めを見、彼の砕けた骨の音を聞くようにと。それらの骨の一つ一つがうめきながら悲しい告白をしているからである。彼の涙が地面に流れ落ち、深い嘆息がたてごとのやわらかな調べとともにもれるのに目を留めよ。私たちは失敗した。それゆえ、悔い改めの霊を求めよう。
また、ペテロを見よ! 私たちはよく、ペテロが主を拒んだことを語る。しかし、「彼は出て行って、激しく泣いた」と記されていることを覚えよ。私たちは、主を拒んだために泣き悲しんだ経験はないか。
ああ、猛火の中から燃えさしを取り出すように、私たちを取り出して、全く異なる者としてくださった主権者の恵みがなければ、これらの私たちの罪――回心前、および回心後の罪――は決して消えることのない火の燃える所に私たちを送っていたであろう。私のたましいよ。おまえの生来の罪深さを思ってひれ伏し、そして神を拝せよ。おまえを救う恵み、地にながらえさせるあわれみ、おまえを赦す恵みをほめたたえよ。
 
 

「ところが、マルタは、

2016年06月14日 16時20分45秒 | 聖書

いろいろともてなしのために気が落ち着ず…」(ルカ10:40)

主のために立ち働くこと、奉仕は尊いし、奉仕自体は、主の喜ばれることだ。
奉仕する事自体が良くないのであれば、主は最初から、マルタにそう言われた事だろう。

主のために労することは、喜びであり、恵みだ。
しかし、マルタは、主が飛んでしまい、恵みも飛び、目の前の仕事そのものに、心が奪われてしまった。
何のためにしているのか、わからなくなる。

主を忘れてしまうと、自己中心になり、自分を中心に物事を見る。
すると、自分だけが忙しい目をしていると、自己憐憫に陥り、何もしていない周囲を責め、腹を立てる。

主から目を離し、恵みから出ると、私たちも同様だ。
恵みにより、御霊によってしていないので、自力であり、重い辛い仕事となる。

自分がしんどくて辛いので、何もしていない人を見ると腹が立つ。イライラして必ず裁く。
恵みの下にいないからだ。

マリヤのように、まず主のもとに座し、御言葉を聞き、主と交わるなら、喜びと平安と潤いをもって働く事ができたであろう。

自分は平安と喜びがあるので、何もしていない人を見ても、裁く事もない。
しかし、主の御前に座する事より、動き回る事の方が簡単で楽なのだ。

「マリヤはその良いほうを選んだのです」選び取らない限り、座する事はできない。
選んでいない自分に気づこう。
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内側から満たされていなければ、ただ仕事をこなしているのと同じだ。
不自由に立ち働いてはいないだろうか。主のもとに座り、主と交わり御霊に満たされて、動きはじめよう。


ネヘミヤ書4章15-20節

2016年06月14日 16時17分25秒 | 聖書


4:15 「私たちの敵が、彼らのたくらみは私たちに悟られ、神がそれを打ちこわされたということを聞いたとき、私たちはみな、城壁に帰り、それぞれ自分の工事に戻った。
4:16 その日以来、私に仕える若い者の半分は工事を続け、他の半分は、槍や、盾、弓、よろいで身を固めていた。一方、隊長たちはユダの全家を守った。」  



 サヌバラテなどの連合軍は、作戦がイスラエルの民に悟られたということを知りました。

また同時に、その連合は神の御手よって打ち砕かれ、ばらばらになりました。

そこで主の民は、町に帰って、修復の働きに戻りました。

しかし、またいつ彼らが襲ってくるかはわかりません。

そこでネヘミヤは、次の作戦に出ました。

それは、戦いに備える人を立てるということでした。

彼は、民の内の半分の人々には、今まで通りに工事をするように命じました。

しかし残り半分の人々には、槍や盾、弓や鎧を持って、いつでも戦いに挑むことができるようにさせました。

こうして、防衛も工事も続けることができるという方策を考えたのです。

与えられた知恵によったのです。


◆英知のある人

2016年06月14日 16時15分03秒 | 聖書

思慮に欠けている者は愚かさを喜び、
英知のある者はまっすぐに歩む。   (箴言一五21)
 
人間はすばらしい知識・知恵を持っているようですが、案外「英知」には欠けているようです。それというのも、どういうわけか人間は、人間をだめにするものを求め、のめりこんで自滅する傾向があるからです。
あるお医者さんは、「人間は、死ぬものではない。自殺するものです」と言いました。彼によると、酒・たばこ・塩分・運動不足・マージャンなどで、人間は緩慢な自殺を行っているとのことです。ところが、「酒も飲まず、たばこも吸わず、うまいものも食わず、九十まで生きても何になる。好きなことして六十で死んでもいいじゃないか」と、多くの人は考えるかもしれません。週刊誌の内容は、みんな酒と異性とギャンブルといっていいくらいです。人間をだめにするものを、人間はなぜ求めるのでしょうか。それは、ほんものを持たず、心からの満足がないために、現実がきびしくてつらいから逃げ出したいのです。そこで逃避を求めて、だめにするものに突っ走ります。
人間を造った神は、「ほんとうの英知」を与えてくださる方です。それを得たなら、もう現実から逃げなくてもよいのです。かえって、現実とぶつかって戦い、まっすぐに生き抜く喜びが与えられます。
東京のMさんは、かつて受験につまずいてぐれ出し、女におぼれ酒におぼれギャンブルにおぼれ、とうとう交番のおまわりさんの前で自殺を試みるところまで落ちたのです。だれも、彼を相手にしなくなりました。しかし、マタイの福音書一一章二八節の看板を見たのがきっかけで、Mさんは神を見いだしました。今のMさんには、人間をだめにするものなどはいりません。神がいらっしゃって、私を愛していらっしゃる、そして私に仕事を与え、仕事の喜びも与えてくださると悟ったからです。
 
 

◆主をおのれの喜びとせよ。

2016年06月14日 16時14分10秒 | 聖書
(詩篇三七・四)
 
このみことばは、生きた信仰を知らない人にとっては驚異であるに相違ないが、真の信仰者にとっては、よく知っている真理を言い表したものにすぎない。ここで、信者の生涯は主を喜ぶことであると記されている。そして、真の信仰は幸福と喜びにあふれたものであるとの、偉大な事実がここに保証されている。
不信仰な者、口先だけで信仰を告白する者は、信仰が喜ばしいものであるとは決して考えない。彼らにとってそれは勤めであり義務であり必要ではあるが、決して喜びや楽しみではない。彼らが信仰に耳を傾ける時、それは信仰によって利益を得ようとしているか、仕方なしにしているかである。信仰が喜びであるとの思想は、多くの人には全く耳新しい。彼らにとって「聖潔」と「喜び」ほど掛け離れたことばはない。
しかしキリストを知っている信者は、喜びと信仰が固く結ばれており、地獄の門もそれを解き放つことができないことを知っている。心を尽くして神を愛する者は、その歩む道が楽しく平安に満たされているのを見いだす。この喜び! あふれるばかりの楽しみ! 聖徒たちはあり余る祝福を主にあって見いだす。それゆえ彼らは単に習慣的に主に仕えるのではなく、たとえ全世界が主の御名を嫌ってそれを投げ、捨てたとしても、なおかつ主に従う。私たちは、神に強制されはしないかと恐れたりはしない。私たちの信仰は足かせではなく、私たちの信仰告白は束縛ではない。私たちは聖潔にまで引きずられていくのでなく、また義務に追いやられるのでもない。否、むしろ私たちの敬虔は喜びであり、希望は幸福であり、義務は歓喜である。
喜びと真の信仰とは、根と花のように密接に関連したものであり、真理と必然性とを分かつことができないように、不可分のものである。それらは黄金の台の上に並び輝く二つの宝石のようなものである。
 あなたの愛を味わったとき
 私たちの聖い喜びは成長し
 言い尽くすことのできない天上の喜びとなり
 御国がこの地上に始まる
 
 

マルコ5章40-41節

2016年06月14日 16時12分37秒 | 聖書


★人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた。そして、その子どもの手を取って「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)

■O:今日のコラム
イエス様のもとに、悪霊に苦しめられている者、病人、死にかけた娘の父親がやって来ました。

彼らすべてが癒され、解放されたことは驚くべきことではありません。なぜなら、人々の肉体の癒しと健康は常に主のみこころだからです。

マルコ5章で、死んでいた娘が起き上がって歩き出す奇跡が起こりましたが、その偉大な奇跡の背景に注目したいと思います。

「彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、中にはいって、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた。」(38-40節)

イエス様がまず初めにされたことは、あざ笑った者たち、イエス様の言葉を疑った者たちを外に追い出したことです。不一致は神の力が現れるのを妨げてしまうからです。

使徒行伝の教会は、非常に力強い教会でした。なぜなら、そこに集っていた人々は皆、毎日心を一つにしていたからです。

イエス様は、「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」(マタイ18章19節)と言われました。一致のあるところに力が注がれます。逆に、不一致の場所には、何の力も存在しません。

バベルの時代、「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。」(創世記11章1節)とあります。主は、「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。」(11章6節)と言われました。

神様でさえ、天に届くために人々が一致して(逆一致)建てた塔に対して、「これはとどめられない…」と驚嘆しました。

また、詩篇133篇1-2節では「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。」とあります。神の油注ぎは、メンバーが一致して集う教会の中に力強く流れるのです。

聖書は繰り返し、一致するように語っています。私たちの人生の中で一致を妨げるものを取り除きましょう。疑い、不信仰、赦さない心、うわさ話、つまずきやすい心…。一致のあるところに不可能は何一つないと信じます。

■A:考えてみよう
心に手を置いてイエス様の血潮を宣言し、私たちの人生の中で不一致をもたらすものを外に追い出しましょう。

■P:祈り
イエス様の血潮により、すべての弱さ、すべての病、悪しき霊どもは、私の天幕の中にこれ以上とどまることが出来ず、これらのものは私の天幕に何の権限も持ちません。イエス様の御名により、私の天幕の中にいる悪しきものを拒絶し、退けます。イエス様の御名により命ずる。去って行け!
また、神の家族が一致し、みなが愛の油注ぎを受けるために、神の御体の各器官と各関節にイエス様の血潮の力を宣言します。主の栄光を現すために、我らを今、一つとして下さい。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


6月13日(月)のつぶやき

2016年06月14日 09時05分59秒 | キリスト教