座間コミニティー

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◆聖書を調べなさい。

2016年06月09日 18時53分54秒 | 聖書
(ヨハネ五・三九欄外注)
 
ここに「調べる」と訳されたギリシヤ語は、人が黄金を探す時のような、また猟師が熱心に獲物を追跡する時のような、厳しい、綿密な、勤勉な探索を意味する。聖霊の灯火を掲げ、慎重に、みことばの隠れた意味を尋ねなければならない。
聖書は調べることが必要である。その大部分は、注意深い研究によってのみ学ぶことができる。ラビたちが、聖書の一語一語、一点一画に、山のような問題が含まれていると言ったのは正しい。テルトゥリアヌスは「私は聖書の豊かさをあがめる」と叫んだ。神のみことばである聖書の表面のみを走り読みする人は、益を受けない。隠れた宝を得るまで、私たちは掘らなければならない。みことばの戸は、勤勉のかぎによってのみ開くことができる。
聖書は調べることを要求している。それは神によって書かれ、神の印が押され、神によって認可された。したがって、だれがそれを軽率に扱うことができようか。聖書を軽蔑する者は、それを書いた神を軽んずる者である。私たちが聖書をなおざりにしたため、審判の日に私たちを責める証拠として聖書がもち出されることなど断じてないように、注意しなければならない。
神のみことばである聖書は調べがいのあるものである。神は私たちに、山のようなもみがらをふるいにかけて、少しばかりの穀物の粒をより出せとは命じておられない。私たちはただ穀倉の戸を開いて、中の穀物を取り出せばよい。聖書は研究するにつれて深まっていく。それは驚きに満ちている。聖霊の導きのもとで探し求める者の目には、聖書は啓示の輝きをいよいよ増し加え、金、ルビー、エメラルド、またあらゆる種類の宝石を散りばめた巨大な神殿のようになる。聖書の真理のように貴重な商品はほかにない。
最後に聖書はイエスを啓示する。「その聖書が、わたしについて証言しているのです。」これほど、聖書を読む者を励ますことばがあろうか。主を見いだす者は、いのちを、天国を、そしてすべてを見いだす。聖書を調べて、自分の救い主を発見する者は幸いである。
 
 

「まして神は、

2016年06月09日 18時53分12秒 | 聖書

夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないでいつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか」(ルカ18:7)

なかなか祈りが聞かれないと思う時がある。祈っても祈っても答えがない。
どうなっているのか、まるで放って置かれているように感じる。

しかし、神は祈りを聞かれている。そして、決して失望しないで祈り続けるよう言われている。
祈り続ける事によって、訓練されるからだ。答えを、引き延ばされ、祈り続ける中で、忍耐が養われる。

忍耐する者へと変えられて行く。時間をかける中で、自らの動機があぶり出される。
何のために求めているのか、心が見えて来る。自分の欲望や、自分の誉れのためであったりする。

又、祈り続ける中で、自分が本当は何を求めているのかが、明らかにされて、本音にまで至り、祈りが間違っている事を教えられたりする。

祈りは、祈りの実践の中でのみ学べる。
主が祈る者の祈りを、軌道修正し、正しく祈れるように導いて下さる。

ある人は、進路を親から反対された。しかし、自分は主の御心だと確信し、真剣に必死に祈った。
しかし、幾ら祈っても親の賛同を得られなかった。
ある時、平安が無く、心を御霊に探られた時に、親の反対に反発し、意地になり、どうしても自分を通そうとしている、頑なな自我に気づいた。

悔い改めて、御心のままにと、主に明け渡した。その後、不思議に親の同意が得られた。
主は動機をも正して、祈りに答えて下さる。祈りの中で、祈りを学んで行く。
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絶えず祈りなさいと言われている。
祈りは神様との霊的な交わりの時であり、そこが私たちの力の源だ。
祈りを通して真の自分を認めて行き、新たな祈りの課題へと導かれて行く。
祈りつつ歩もう。


今日の聖人の記念日

2016年06月09日 07時57分03秒 | キリスト教

聖エフレム助祭教会博士

306年ごろ-373年

 エフレムは、シリア東部のニシビスに生まれた。子どものころからキリスト教の教育を受けたが、神の摂理に疑いをもっていた。しかしある事件を機に、回心して荒野で隠修士の生活を始め、祈りと聖書研究に専心した。

 当時教会は、アリウス派による異端が広まっていたため、325年にニケア公会議が召集された。その公会議に同行したエフレムは多くのことを学び、エデッサに行った。そこでは、異端説が広まり、歌までつくられ、人々が歌っていた。これに対して彼は、イエスのこと、聖母のこと、祝日のことを美しい詩歌にし、聖歌合唱隊を作って歌わせた。これは人々の心を感動させ、誰もが彼の歌を口ずさむまでになった。彼は、雄弁家でもあり、説教をして回り、貧しい人々を助けた。またペストが流行したときには、献身的にその看護にあたった。また聖書の註解書や聖母マリアの詩などを著わした。エフレムは、キリスト教会ではじめて賛歌を作った人物として知られ、「聖霊の竪琴」とも呼ばれている。



◆叱 責 と 繁 栄

2016年06月09日 07時56分04秒 | 聖書

正しい道を捨てる者には
きびしい懲らしめがあり、
叱責を憎む者は死に至る。     (箴言一五10)
 
アメリカのカーター元大統領が日本に来られた時、記者団が質問しました。「あなたのこわいものは何ですか。」「父親です」と答えたカーター大統領は、子ども時代の思い出話をしました。ある日曜日、教会で献金するのだよと一セントもらったカーターは、献金しなかったばかりか、献金皿から一セント銅貨を一つ失敬してしまいました。家に帰って上着を脱いだ時、一セント銅貨二枚がお父さんの目の前にコロコロところげ出ました。クリスチャンのお父さんは、それこそきびしくこらしめてスパンクをしたというのです。彼にとって、そんな涙ながらの叱責をしてくれたお父さんがなつかしく、うれしく、ありがたいのです。
人は、叱られるのがきらいです。自分勝手にわがままに生きていることを真正面から指摘されると、反発したくなります。しかし、叱ってくださる方の愛と真実の前にしゃっぽを脱いで聞き、従い、悔い改める人こそ、成長します。そして、叱責を憎み反発する人には滅びがあると聖書は言います。わがままな罪だらけの生き方をしていても放っておかれる人は、実にふしあわせです。あなたはどうでしょうか。自分を叱る人も昔はいたけれど、今はいないでしょうか。
しかしあなたにも、そしてだれにも、本気になって叱ってくださる方がいるのです。愛しているから本気です。あなたのことを、忘れることも放っておくこともできません。その方は、神です。病気・失敗・挫折・孤独を通して、神は、あなたの心の真ん中まで語りかけられます。きびしいこともつらいことも言ってくださいます。中でも、聖書を通して、私たちに問いかけ語りかけてくださるのです。神を拒否する者には、単なる失敗ではなく滅びが待っています。しかし、神の叱責を喜んで受けてそれに従う人の将来には、希望と平安と豊かな成長があるのです。
 
 

◆主は私たちのために大いなることをなされ、

2016年06月09日 07時55分26秒 | 聖書
私たちは喜んだ。(詩篇一二六・三)
 
あるクリスチャンには、物事の暗い面ばかり見る傾向がある。神が彼らのためになさったことよりも、むしろ彼らが過去にたどってきた経験を考える。クリスチャン生活がどんなものであるかを彼らに尋ねるならば、不断の戦いと、深刻な苦悩と、悲しい逆境と、彼らの心の罪深さを語るだろう。神が彼らに与えられたあわれみと助けについてはほとんど言及しない。
しかし、健全なたましいをもつクリスチャンは喜びに満たされ、進み出てこう言うだろう。「私は自分のことではなく、私の神をあがめるために語りたい。主は私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。主は私のために大いなることをなされ、私は喜んだ」と。このような経験は、神の子どもが語り得る最上のものである。
私たちが試練を受けることは事実であるが、しかし、試練から救い出されることも同様に間違いない事実である。私たちの心が汚れており、それを知って悲しんでいることは事実であるが、しかし、私たちが十全の救い主をもっており、主がこれらの汚れに打ち勝ち、私たちをその汚れの支配から救い出されることも同様に真実である。過去を顧みるなら、私たちがかつて失望のどろ沼におり、屈辱の谷間を這っていたことを否定することはできない。しかし私たちがそれらの難関を、安全かつ有益に通過してきたことを忘れるのも同様に誤っている。私たちはそこにとどまってはいない。感謝なことに、全能の助け手また導き手である方は、「豊かな所へ私たちを連れ出されました」。
患難が大きければ大きいほど、すべてを通して私たちを導き、今に至るまで保ってくださった神に対する感謝も大きい。私たちの悲しみは私たちの賛美のメロディーを傷つけることはできない。それは、「主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ」との人生の歌の低音部にすぎない。
 
 

ネヘミヤ書3章6-14節

2016年06月09日 07時54分18秒 | 聖書


3:7ノテ人ヤドン、それに川向こうの総督の管轄に属するギブオンとミツパの人々が修理した。
3:8 その次に、金細工人のハルハヤの子ウジエルが修理し、その次に、香料作りのひとりハナヌヤが修理した。こうして、彼らはエルサレムを、広い城壁のところまで修復した。


 
 エルサレムには幾つかの門と、またその町を囲んでいる城壁がありました。

これらをまず修理して立て直すということは、この町を敵から守るために必要なことでした。

ですからネヘミヤは、まず一番大事な町を守るために城壁の修理を始めたのです。

また、この町には幾つもの門がありました。

そこを通って人々は、西や南や北へと旅立っていったのです。

その門を修理すると言っても、単に木を切ってそれと張り付けるということでは終わりません。

先ず梁をしっかりつけ、扉を作ってはめ、そこにかんぬきをつけ、横木を通して、安易に開けられないようにしなければなりませんでした。

また城壁を修理するためにも、たくさんの資材や技術や奉仕者が必要でした。

民はそのために、喜んで奉仕をしたのです。


申命記1章5節

2016年06月09日 07時52分38秒 | 聖書


★ヨルダンの向こうの地、モアブの地で、モーセはこのみおしえを説明し始めて言った。


■O:今日のコラム
今日から申命記に入ります。
申命記はイスラエルの民が約束の地に入る前に、
ヨルダン川の東側のモアブの地で、モーセが民に語ったメッセージです。

モーセの役目は神の御言葉を正確にイスラエルの民に伝えることです。

モーセがエジプトの地からイスラエルの民を救うために召し出されたのが80歳の時です。
イスラエルの民は神様に反逆した為に、40年もの間荒野を彷徨うことになりました。

出エジプトをした当時の世代は約束の地に入ることは出来ず、出エジプトを知らない、新しい世代のイスラエル人が、これからヨルダン川を渡り約束の地に入ろうとしています。

この新しい世代に対して、モーセは神様の言葉、命令をことごとく語り、次の世代へと信仰のバトンを受け継ぐのでした。

私たちクリスチャンもここの箇所から学ぶ事が沢山あります。

私たちも神の言葉を受け継いで今を生きています。
誰かから福音が語られ、自分のものとし、神の言葉によって今の時代を生きています。

私たちが生きている自分の世代はずっと続くように感じますが、必ず私たちは死に、次の世代がやって来ます。

私たちはモーセのように神の言葉を次の世代に引き継がなければなりません。

神様の計画は一つの世代で終わるものでは無く、何世代も先を見据えているからです。
その為には神の言葉を私たち自身が知り、御言葉を聞くだけの者ではなく、それに生きる必要があります。

御言葉は生きた神の言葉です。
御言葉は一貫してイエスキリストのことを表しています。

私たちの心の内側に、神の言葉が生きているならば、イエスキリストも共に生きていることでしょう。

私たちの日々の信仰生活を通して、イエスキリストが生きておられる神であることを、人々が知るようになることをお祈りします。

■A:考えてみよう
私たちに委ねられている神の御言葉に、日々生きているでしょうか?


■P:祈り
天のお父様、御言葉を教えてください。
御言葉を悟り、御言葉に生きる者に私を造り変えてください。

愛するイエスキリストのお名前によってお祈りします。アーメン


6月8日(水)のつぶやき

2016年06月09日 01時41分02秒 | キリスト教