座間コミニティー

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◆彼が開くとだれも閉じる者がなく……。

2016年06月15日 17時07分03秒 | 聖書
(黙示録三・七)
 
イエスは天国の門の番人であり、すべて彼を信じる者の前に、開かれた門を置かれる。それはだれも、悪魔も閉じることができない。イエスへの信仰が永遠の門に対する黄金のかぎであることを発見するのは、なんという喜びであろうか。私のたましいよ。おまえはそのかぎを携えているか。それとも偽りの錠をあける道具を頼み、ついに失敗に終わるのではないか。ある説教者が次のような話をした。これを心に留めよ。
王が宴会を開くために世界中にふれを出して、咲き誇る花のうち最も美しい花を持って来る者でなければ、大広間に入らせないと伝えた。そこで幾千もの人々が、それぞれ花の中の女王と思われる花を持って王宮に押し寄せた。しかし、彼らはみな、入ることができなかった。ある者は迷信の「ベラドンナ」を、ある者は見せびらかしの「けし」を、またある者は自分を義とする「毒にんじんの花」を携えていた。しかしこれらは王の愛される花ではなく、それを持って来た者は、真珠の門から外に閉め出された。
私のたましいよ。おまえはシャロンのサフランをつんだか。おまえは谷のゆりの花を一時も離さず身につけているか。それなら、天国の門に着く時、その真価を知るであろう。なぜなら、花のうち最上のその花をただ見せただけで、門番は戸を開くからである。シャロンのサフランを手にしているならば、おまえは神ご自身の御座まで進むことができる。天国にさえ、その輝かしい美にまさるものはなく、楽園に咲き誇るすべての花の中にも、谷のゆりの花に比べることのできるものはないからである。
私のたましいよ。カルバリの血に染められたバラを信仰によって手に取り、愛によってそれを身につけ、主との交わりによってそれを保ち、日ごとの配慮によってそれをおまえのすべてとせよ。そうすれば、すべての祝福にまさる祝福、夢にも思わぬ幸福を受けるであろう。
イエス様。とこしえに私のものとなってください。私の神、私の天国、私のすべてとなってください。
 
 

「私は罪を犯しました。

2016年06月15日 17時06分16秒 | 聖書

しかし、どうか今は、私の民と長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください」(Ⅰサムエル15:30)

アマレクとの戦いで、サムエルはサウルに主の命令を告げた「行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ」。

しかし、サウルは、命令に従わないで、最も良いものを惜しみ、つまらない値打ちのないものだけを聖絶した。
サムエルは「あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」と告げた。

するとサウルは「私は罪を犯しました。
しかし、私の民と長老とイスラエルの前で私の面目を立てて下さい」と言った。
悔い改めは、面目を立てるための悔い改めであった。

神に対して罪を犯したから、悔い改めるのではなく、罪を犯すという事が、人前で面目を失うという意識だった。

これは悔い改めではないので、神との関係の修復にはならなかった。
「主もサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた」。

私たちはどうだろう。真に御霊により罪を示された時、悔い改めが起こる。
その時、人など全く眼中に無い。
自分と神との関係だけにいる。自分の面目など入る余地も無い。

人も面目も関係なく、ただ自分の罪だけが見える。
悔い改めにより主の十字架の血潮によって赦されきよめられる。真の悔い改めだ。

神との関係が修復され、平安と喜びが戻る。世の悲しみ=形だけの悔い改めは死をもたらし、真の悔い改めは救いをもたらす。
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信仰生活は、神様と自分だけの関係だ。
御心に従い神様に変えられたいと思わないならサウルと同じだ。
罪が示されているなら、真の悔い改めができるように祈ろう。


今日の聖人の記念日

2016年06月15日 07時27分17秒 | キリスト教

聖ヴィト殉教者

?-303年ごろ

 ヴィトは、皇帝ディオクレチアヌスのキリスト教迫害時代に、シチリアで生まれた。7歳のころ、洗礼を受けキリスト信者になった。

 彼の信心深さと奇跡を行ったことがローマの役人の目に止まり、多くの刑罰に処せられ、信仰を捨てるように強いられた。しかしそのたびに、奇跡が起こった。例えば、飢えたライオンの前に投げられたとき、ライオンが、ヴィトをやさしくなめたといわれる。

 彼の遺物には、病気を治す力があり、特にてんかんで苦しむ病人がその前で祈ると治ったそうである。そのため、彼はてんかん患者やコーリア病(舞踏病)の守護の聖人と呼ばれる。またダンサーや俳優の守護の聖人としても知られている。


◆計 画 と 成 功

2016年06月15日 07時25分52秒 | 聖書

密議をこらさなければ、計画は破れ、
多くの助言者によって、成功する。(箴言一五22)
 
これも成功者に教えられることの一つです。世界一のオートバイ・メーカーになり、今や世界中で評判の自動車メーカーになっている会社の社長の評伝の中に、「彼は気にいらぬやつを大切にする人だ」ということばがありました。「気にいらぬやつ」とは、普通の人が言わないような批判をずけずけ言う人です。他の人は、いいことを言ってほめてくれます。そんな人を遠ざけたり、いづらくしてやめさせるようなことはしないで、この社長は大切にしたというのです。なぜでしょうか。その理由は単純です。その人は、他人の言わないことを言うし、自分の気のつかないことを教えてくれます。それを素直に受けていくことが会社の進展のために大切だと分かっていたからです。
他人の助言を受け入れない人は成功しません。
第一に、そんな人は他の人の助言を受け入れる余地がありません。自信過剰で自分のアイデアが最高だと思い、そのことで頭がいっぱいです。第二に、他の人が言ってくれることの中味が読めない人・ほんとうの意味が分からない人も、人の助言をないがしろにします。第三に、とにかく自分よりすぐれた人のアイデアに従っていくのはいやだという自分中心の人は、人の意見・助言に耳をかしません。
エゴイズムを捨て、私心をなくし、人の助言を聞けるようになることが、事業の成功の秘訣です。このことは事業の成功ばかりではなく、家庭の平和とだんらんに満ちた幸福を味わい、人との豊かな交わりにあずかることにも通じます。どの場合であっても、人と人との間に敵意や高ぶりがあれば、だめになってしまいます。イエス・キリストは、私たちの心からこの敵意を取り去り、柔らかい心にしてくださいます。神を知り、神の愛に生かされ、私心のない祈り心・愛の心を与えられることが決め手となるのです。
 
 

◆サラは言った。

2016年06月15日 07時24分57秒 | 聖書
「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう」(創世二一・六)
 
年老いたサラが子どもを与えられるということは、実に自然の力をはるかに超えたことであり、自然法則にもとることでさえあった。
同じように、私のような卑しい無力な落ちぶれた罪人が、たましいの中に主イエスの御霊を宿すということは、とうてい常識の及ぶところではない。私はかつて絶望していた。そのうえ私の本性は、渇き、枯れ、実を結ばず、呪われた、寂しい荒野のようであった。しかるに、私は聖潔の実を結ぶようにされた。私の口が喜びの笑いに満たされたのは当然である。なぜなら、私は主なる神より驚くべき恵みを受けたからである。私は約束された種子なるキリストを見いだした。主は永遠に私のものである。私が卑しい折りにもみこころをとめてくださった主に、今日勝利の賛美を歌おう。なぜなら「私の心は主を誇り、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私はあなたの救いを喜ぶから」である。
私が地獄より救い出されたことを聞き、上よりの恵みを受けたことを知るすべての者は、私と共に喜び、笑ってほしい。私は、自分の豊かな平安をもって家族を驚かせ、ますます栄えていく幸いをもって友を楽しませたい。私は感謝の告白をもって教会を啓発し、喜びに満たされた日々の会話によって、この世にさえ感銘を与えたい。
バニヤンは、『天路歴程』の中で「慈悲子」が眠りの中で笑ったと言っているが、イエスの夢を見ていたのだから無理もない。私にとって、日々の黙想の中心は愛する御子であるから、私の喜びもこの「慈悲子」に劣るものではない。主イエスは喜びの深い海であられる。私のたましいはその中に飛び込み、主との交わりの楽しさの中に浸るだろう。サラはイサクを見て、歓喜にあふれて笑い、彼女の友もみな笑った。私のたましいよ。おまえのイエスを見よ。そして天と地に命じよ。おまえの言いようのない喜びに共鳴することを。
 
 

ネヘミヤ書4章21-23節

2016年06月15日 07時22分52秒 | 聖書


4:23 私も、私の親類の者も、私に仕える若い者たちも、私を守る見張りの人々も、私たちのうちのだれも、服を脱がず、それぞれ投げ槍を手にしていた。



 緊急の時、人は眠らないで心配して、見守ることをします。

子供が病の時などは、特にそうです。

 ここでは、敵がいつ自分たちの所に襲いかかってくるかもわかりませんので、夜昼となく見守る必要がありました。

それだけではなく、建設という働きにも携わる必要がありました。

そこで民は働きをしながら、夜昼となく警備に当たるということをしていたのです。

もちろん、そのようなことは継続的にはできませんので、互いにそれぞれが順を決めて働きにつきました。

しかしその時に、上に立つ人々はどうしたのかということが語られています。

ここでは、「自分も自分の親戚の者たちも」この努めについたと語っています。

つまり、壮年も若い人たちと共に、自分たちでその努めについたことを語っています。

すべての人々が、このエルサレムの城壁の建設に関心を持って、町の守りと建設に、勤しんだのです。




申命記6章4節~13節

2016年06月15日 07時19分06秒 | 聖書


★聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。
 あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない。

■O:今日のコラム
ここは、有名な『シェマ』とも呼ばれる、第一の戒めが記されています。その後の箇所を知っているでしょうか?私も『こんなだったのか』と目が開かれた思いがしました。
  ここには、神の民が勝利し、占領し、多くの物を戦利品として、分捕り物として獲得した状況が描かれています。その時にこそこの揺さぶりがやってきます。それは勝利によって獲得する物に渇いているのか?主ご自身に飢え渇いているのか?という事です。
  勝利する者は、富や譽れも得ていくでしょう。力も知識も得ていくでしょう。そんな時、自分が何を求めていたのかがハッキリしていくのです。勝利によって得る物をまだ得ていないうちは、自分が戦利品を求めているのか、主ご自身を求めているのかが曖昧になってしまうのです。しかし、隠れているものは、必ず明らかになる時が来るのです。これはラオデキアの教会にもたらされた事と同じです。彼らも物質的には豊かだ、と言って主に対して生ぬるくなってしまったのです。
  私たちが、前進していく時に覚えなければならないのは、今まで主がご好意を、みわざをなしてくださって、神の力によって支えてくださった、救いと解放を与え続けてこられた事を覚える事です。それならば、これからはますますその様である事を信じる事です。神の愛と好意が私を追いかけてきている事を悟る事です
  だから、ここでも、『エジプトから連れ出した主』である事を忘れないように促しているのです。主のしてくださった良い事を何一つ忘れるな、です。そうする時にシェマ、神の愛の中に生き、神を愛し続ける事が成し遂げられていく事を信じます。


■A:考えてみよう
特に安息日に主のご好意を覚える時間を持とう!主の麗しさを仰ぎ見、思いにふける時間を持とう!


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


6月14日(火)のつぶやき

2016年06月15日 01時33分10秒 | キリスト教