座間コミニティー

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コンチェルト  早春 ①

2016年06月04日 17時58分45秒 | 小説・詩

不思議な恋の始まりに

愛を手繰(たぐ)り寄せ

肌寒い夜に

万世の星たちに愛でられ

いく杯の時代を重ねる

今(時代)を抱きしめて

 

コンチェルト 

早春①

 

  東京平和学院大学、キリスト教リコウ派系の私立大学、首都圏6大学に名を連ねる文武両道の名門大学である。

首都圏に12の学部と6つのキャンパスがあり本キャンパスである神奈川キャンパスは経済学群の学生と1回生の生徒が履修する教養学部が開設されている。

東急・東横線の東白楽駅からすぐに正門があり、過ぎて六角形の建物を左に見ながら進むと10階建てのビルが正面にあり右側に学生会館と学部事務局がある3階建ての建物がある。

六角形の外観の礼拝堂(神奈川キャンパス・チャプレン)を重々しい木製のドアを押し開けると300人が座れる礼拝室右側に小会議室がある。

青年牧師が礼拝室の十字架に手を合わせて心の中で祈っている。

「今日5人の若者と逢います、彼らの人生にあなたが寄り添ってくださいますように。」

15分ぐらい祈って。会議室に戻っていくと婦人部の川辺さんが聖書と讃美歌の本やお茶とお菓子を準備してくださっていた。

「川辺さんありがとうございます。」と声をかける。川辺さんがニコリとしながら一礼して帰っていった。

青年牧師が奥の椅子に座ったころ、2人の青年が入ってきた。

立ち上がり握手をしながら青年が「川名です。」

すぐ側の青年と握手をする。「田中です。」

さーどうぞ、お菓子とお茶があります。と言いながら座ることを促す。

それから間もなく3人の青年が会議室に入ってきた。

3人と握手する。

5人の青年たちが揃ってあいさつと自己紹介などで青年たちと青年牧師との交話会が始まった。

聖書を読み一通り話しの区切りがつき、青年牧師が「何か質問がありますか」と言う。

美菜が「神様のみ心はどうすれば知ることができますか?」

「それはとても良い質問ですね、他の皆さんはどうですか?」

拓哉が「聖書を良く読み祈ることです」

雅也「神は自分自身のもう1つの存在です。影です」

「利幸さんはどうですか?」

「あえて否定もしないし存在を確認するものでもなく自分という存在を通して絶えず発見し続けるものではないでしょうか?」

「私も牧師になってまだ5年、洗礼を受けて15年です。まだ確かな答えが出ません。

皆さんがこの学舎から出て行く時までにそれぞれが答えを与えられることを祈っています。今日はここまでにしておきましょうか。また来週お待ちしています。」

 

青年たちがチャプレンを出て行く。

拓哉が「これからカラオケに行くか?」

他の4人が頷く。

 

東白楽の駅近くのカラオケ屋で3時間楽しんだ5人が駅に向かって行く。

拓哉が「山手町のBJ(ブラックジャック)に飲みに行くけどお前らどうする?」

利幸と美菜が頷いた。

駅で2人は菊名方面の階段を昇っていった。

3人がホームに着くと同時に電車がすべり込んできた。

 

石川町駅からタクシーで山手町のBJに着く。

木製のドアを引くと、ギラリと鋭い眼光がこちらを見る。

「拓哉来たか?としも一緒か」

3人がカウンターに座ると同時に、ビールとハイボールとウーロン茶がスーと出される。

太郎が利幸に「明日理子と逢うんだってなあ、あいつはお嬢様だからほどほどにつきあっておけ」

利幸は眉間にしわを寄せ右手を上げるしぐさをする。

拓哉とおやじさんが話し込んでいる。

何時の間にか時間が経っていく。

太郎と美菜の間で会話が弾んでいるのを見ながら、としは強い風で鳴るもがり笛を聞きながらグラスを傾けている。

利幸は2杯目のビールを飲みつまみのおからとひじきを食べる。

おやじさんがレコードを替えると、レフタアローンが流れ出した。

利幸の目は美菜をどことなく見つめて思いの中に居た。

美菜と拓哉とおやじさんは楽しく時間を進めていた。

利幸がおやじさんにつぶやくように言う。

「なぜ外科医を辞めたのですか?」

おやじさんは遠くを見ながらつぶやくように言う。

「家族の幸せに気づいてしまったんだろうなぁ」

 

遠くで船の汽笛が聞こえる。

まだ肌寒い春の始まり。

(今作は前作、せつなくての10年前の大学生時代が舞台です。)

https://youtu.be/OlrXgE3WuDU

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親愛なる

2016年06月04日 17時38分31秒 | 聖光会

私たち聖光会はあなたが幸せになって胸を張って生きていくことを願っています。

どんなことでも構いませんあなたのことを祈っています。

教会長・大西 080-3244-1573 今日一日あなたの幸福を祈っています。

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2016年06月04日 17時19分08秒 | 聖光会

自分の人生をかけても愛する人がいることが幸福でいられることです。

愛されるよりも愛したいそれが神様が創造された人間の本性です。

 

教会長・大西

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幸福

2016年06月04日 17時12分56秒 | 聖光会

あなたにとって幸福とは選ぶ、与えられる、買う、ことでしょうか?

至高の幸福とは他の人と分け合うことです。

あなたはわずかだけれども分かち合う幸福が見つけられますか?

 

教会長・大西

 

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真実

2016年06月04日 16時45分27秒 | 聖光会

よく聞かれる話ですが、信仰熱心になれば献金を多くすれば幸福になり裕福に神様が報いてくださるのでしょうか?と

私はその方にあなたが神様について考えるために幸福感に満ち収入が増えるように仕組まれることがあります。

しかしそれはあなたをテストし真の神様に興味を抱き神の子としての人生を招くために一時的に願いがかなったかのようなことが起きますが自分の欲を選ぶ人はやがて以前よりももっと惨めで辛い道のりを選びます。しかしそのような人にも最後の最後まで神様はあきらめずに救いのみ手を差し伸べられます。

 

それが当教会を通して顕現されるのです。

 

あなたもぜひ救いのみ手に触れてみませんか?

 

教会長・大西  080-3244-1573

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献金

2016年06月04日 16時31分28秒 | 聖光会

献金について聞かれたことがあります。

献金とは神様に対する私たちの信仰告白であると私はお答えしました。

献金しないといけないとか額ではないのです。

すべて生きている人間のための都合で神様が許されたことなのです。

 

教会長・大西

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摩訶不思議

2016年06月04日 16時03分06秒 | 聖光会

ここ1年様々な分野の方々と出会うことが多い中で不思議に思うことが多々あります。

何でもかんでも悪魔やサタンのせいにしてご都合主義な宗教信者、自分が不幸の中で病気の中で信じていないのに集会や礼拝に行き神様やイエス様より牧師や人間様のイエスマンになっている教会、愛を解く教えに涙するがそのくせ人を許せないクリスチャンがあんまりに多くいます。

いつのまにか聖書の神様が1番嫌いな人間になり下がっています。

音楽で酔いしれてメッセージに乗せられて献金すればするほど祝福されると吹き込まされて後には病気とどうにもならない人生を背負って教会から遠ざかっていく人。

もしあなたがこのことに否と言えればそこに愛と平和があることをあなたの人生をもって反論してください。

 

聖光会教会は、あなたと共に笑い涙する神様があなたのことを祈りながら待っています。

あの人は心を開かないからと言って責めないで自分の心を開きましょう。

そうすればあなたの人生に幸福が訪れます。

 

何か困っていたり話したいことがあれば 080-3244-1573 にどうぞ。

教会長・大西

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◆キリストは……

2016年06月04日 15時57分34秒 | 聖書
栄光のうちに上げられた。(Ⅰテモテ三・一六)
 
私たちは、愛する主が、肉体をとってこの地上におられた日を屈辱の中で過ごされ、また非常に苦しまれたことを見てきた。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」からである。あけぼののように輝きに満ちた主が、日常の衣として悲しみの荒布をまとわれたのである。
しかし今、主が十字架上で血を流して一切の暗黒の力に勝利を得られたからには、私たちの信仰は、王である主がエドムの深紅の衣を着、勝利の輝きに包まれて帰られるのを見る。雲に包まれて、人の目には見えなくなられ、天に昇られた時、その御姿はセラフィムの目にいかに輝かしく見えたことであろう。今主は、まだ世界が存在する前に神と共にもっていた栄光をまとっておられる。そしてなお一つの栄光が加えられる。それは、罪、死、地獄と戦って得られた栄光である。勝利者として主は輝く王冠をいただいておられる。聞け。声高く歌われる歌を! それは新しい、さらに妙なる歌である。「ほふられた小羊はふさわしい方です。主はその血により、神のために私たちを贖われました。」主は決して弱ることのないとりなし手としての栄光をまとい、敗北を知らない君としての栄光をまとっておられる。そしてなお、あらゆる敵を撃破した征服者としての栄光、もろもろの民の心からの服従を得る主としての栄光をまとわれる。イエスは天国の威厳のささげ得る限りの栄光をまとわれ、何千万の天使が仕えている。あなたがどれほど想像をたくましくしても、主のすばらしい偉大さを理解できない。しかし、主が天使たちを従え、大いなる力をもって天から下られる時には、さらに深い啓示が与えられるだろう。その時主は「栄光の位に着く」のである。おお、その栄光の輝きよ! それは主の民の心を歓喜に満たすであろう。しかし、これが終わりでなく、主は永遠にほめられる。「神よ。あなたの御座は世々限りなく。」
友よ。来るべき時にキリストのご栄光を喜ぶことを望むならば、今キリストがあなたの目に光栄ある方でなければならない。はたしてそうであろうか。
 
 
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「すべての事について、感謝しなさい。

2016年06月04日 15時56分52秒 | 聖書

これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(Ⅰテサロニケ5:18)

ある婦人が、集会で、御霊の強い導きを受け、主婦として与えられた場で、自分のすべてを献げて、主に仕えて行きたいと献身の決心をした。
生涯どのようになろうと、主の導きのままでOKであり、従いますと祈った。
心が平安と喜びで満たされた。

すると、その数週間後に、夫の会社が倒産した。驚いて、ショックで、自分が献身したから、こんな事になったのかと一瞬思った。
しかし、祈りの中で、そうではなく、主は予め、夫のこの倒産をご存じで、信仰もって受け止められるよう、献身の恵みも下さったとわかった。

夫婦で厳しい試練であり、次の職は捜せど捜せど無かった。貯えもなく、主の御心を求めて祈りに祈った。
その時、「すべての事について感謝しなさい」との御言葉が臨んだ。
主の御心が、感謝する事であるとわかった。現状は、到底感謝できるような状態ではなかったが、信仰によって、感謝を献げた。

「現在、職が無いことを感謝します」と。その時、不思議な事が起きた。
心から恐れや不安が失せて、平安が臨んだ。
えもなく、職もなく、何の当ても無いのに心に不思議な平安が満ちた。
主の平安だった。

しばらくして職は与えられた。しかし、何よりも、この取り扱いの中で、新たに素晴らしい主を知れた事が、何よりも祝福だった。
-------------------
どのような状況であれ、感謝を献げる事は、神が神であられるという、神の主権を認めること、神への信仰を献げる事になる。
神の支配の中で起きている事、万事益の信仰に立ち、感謝して行けるよう祈ろう。

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#akahata 米軍犯罪起訴率18.7%/全国38.5%の半分 背景に裁判権密約・・・今日の赤旗記事

2016年06月04日 12時55分54秒 | 聖書

 

 
防犯灯・防犯カメラ・・・これが対策か
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今日の聖人の記念日

2016年06月04日 08時27分14秒 | キリスト教

聖フランシスコ・カラチョロ司祭

1563年-1608年

 フランシスコ・カラチョロは、ナポリ王国の貴族の家に生まれ、信仰心あつく育った。22歳のときに、ハンセン病にかかり、苦しんだ彼は、「もし、この病が治ったら、私は生涯神に身をささげます」との祈りをしたといわれる。不思議にも病気が完治した彼は、財産を貧しい人々に与え、ナポリで神学の勉強を始めた。司祭になると、祈りと黙想に励み、あらゆる人々を慰めた。

 あるとき、ヨハネ・アドルノという司祭から、厳しい生活をしながら司牧に従事する司祭の会を始めたい、との手紙が間違って彼のもとに届けられた。宛先が間違った手紙であったが、その内容に共鳴した彼は、神の摂理を感じてアドルノの仲間に加わった。同士が12人になると、ローマに行って修道会としての認可を得、1588年、「小さき聖職者修道会」が創立された。アドルノが亡くなると、彼は総長に選ばれ、会員を導き修道会の発展に力を注いだ。彼の最後の言葉は、「さあ、天国に行きましょう!」であった。


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◆会 話 術

2016年06月04日 08時26分25秒 | 聖書

柔らかな答えは憤りを静める。
しかし激しいことばは怒りを引き起こす。(箴言一五1)
 
数年前だったと思いますが、山形の飲み屋で、高校の先生が刺し殺された事件がありました。戦中派だったこの高校の先生が、「今の若い者はなってない」と言い始めました。ところが隣の若者が「何をっ」と反論し、「外へ出ろ」ということから、ついに刺し殺すまでのけんかになったのです。
「売りことばに買いことば」といいます。激しい憤りのことばは、油に火をつけたように、怒りを燃えたたせたのです。「まあまあ先生、……」と、柔らかなことばで受け答えをしていたら、何ということもなかったでしょう。まさに、この聖書のことばのとおりです。
どんなに激しい非難や侮辱や高慢な独り善がりのことばをかけられても、いつも穏やかな答え・平和な返事が、あなたの口から出るでしょうか。私の心から流れ出るでしょうか。
イエス・キリストは、「イバラにイチジクはならない」と言われました。一度や二度は、人間的な計算から「まあまあ」と柔らかく出られても、「常に」「心から」というわけにはいきません。やはり、激しいことばには激しいことばを返さないと損をしたように思ってしまいます。それはやはり、心にほんとうのやわらぎ・満足がないからです。
私たちが本気になってそのことを認め、くだけきって神に求める時、神が、キリストにあって、すべての人の思いにまさる神の平安を私たちの心に満たしてくださるのです。そして私たちもまた、争いでなく平和をつくり出す人になるのです。平和をつくり出す人こそ、神の子です。
 
 
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◆私たちの救い主なる

2016年06月04日 08時25分39秒 | 聖書
神のいつくしみと人への愛とが現われたとき……。(テトス三・四)
 
救い主が、その愛される民と親しく交わるのを見るのは、なんとすばらしいことであろう。聖霊に導かれて、この喜びの野に連れ入れられることほど心を楽しませるものはない。
しばらく、贖い主の愛の歴史を考えてみようではないか。数えきれないほどのうっとりとさせられるような愛の物語がよみがえってくるだろう。その物語の意図するところは、私たちの心をキリストに織り込み、私たちの思いと感情をイエスの心により合わせることである。私たちがこの驚くべき愛を思い、教会の夫である栄光の君がその無限の富を教会に与えられるのを見るなら、私たちのたましいは、喜びのあまり気を失うばかりになるであろう。このような愛の重荷に耐え得る人があるか。時おり聖霊が喜んで与えてくださるその部分さえも、私たちのたましいの受容力をはるかに超えたものである。とすれば、すべての恵みが与えられる時の喜びはどれほどであろうか。
たましいに、やがて来る世におけるような、救い主のすべての賜物を知る知識と、それらを測る知恵と、それらについて静思する時とが与えられたなら、私たちは今よりもさらに深く、イエスとの交わりをもつだろう。しかしそのような交わりの楽しさを、だれが推察できるだろうか。それはかつて人の心が想像さえしなかったものの一つに違いない。神は、ご自身を愛する者のために、それを備えておられるのである。
ああ、私たちのヨセフの倉を開き、私たちのために蓄えられた富を見る喜ばしさよ。この時、私たちは愛に圧倒される。信仰により私たちは鏡に映るようにぼんやりと神の無限の富を見ている。この目で実際に天上のものを見る時、私たちのたましいのひたる親しい交わりの流れは、いかに深いことであろう。
その時まで、愛に満ちた恵みの方、私たちの主イエス・キリストに対する最大の感謝の歌は、私たちの心の中に秘められるだろう。主の私たちへの愛はいかなる人の愛にもまさって、すばらしいものである。
 
 
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ネヘミヤ書1章4-11節

2016年06月04日 08時24分23秒 | 聖書


1:8 「しかしどうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを、思い起こしてください。『あなたがたが不信の罪を犯すなら、わたしはあなたがたを諸国民の間に散らす。
1:9 あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行うなら、たとい、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしはそこから彼らを集め、わたしの名を住ませるためにわたしが選んだ場所に、彼らを連れて来る』と。」



 ネヘミヤは、ユダヤの地から来た人々の話を聞いて、非常な悲しみに陥りました。

そして、それらのことすべてが、自分たちが神の前に罪を犯したためである、ということを改めて憶えました。

彼は、主の前に断食をし、その罪を改めて告白して、悔い改めをしました。

 同時に彼は、主の前に祈りを捧げました。

その祈りは、民のために執り成しをする祈りでした。

特に、主がかつて民に約束してくださったことに基づいて、主の憐れみを求めて祈る祈りでした。

信仰者の支えは皆、主の憐れみによっています。

ですからそれを求めて、祈ったのです。


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★33:18 見よ。

2016年06月04日 08時22分38秒 | 聖書

主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。

■O:今日のコラム

今日という日を心から感謝します!主の愛と恵みを感謝します!

早速ですが、恵みとは何でしょうか。恵みとは、受けるに値しないものが、神様から一方的に受ける好意、または祝福といえるでしょう。私たちが神様から受けた恵みを数えるときに、私たちは自分の力でやったことが何一つないということを悟るはずです。そもそも数え尽くせないほど、主が恵みを注いでくださっていると思います。

詩篇33:16~17 王は軍勢の多いことによっては救われない。勇者は力の強いことによっては救い出されない。軍馬も勝利の頼みにはならない。その大きな力も救いにならない。

私たちは人間の力で勝利を得ていくことは出来ません。自分の力で何か成し遂げるは出来ません。

詩篇33:18 見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。

詩篇33:16~17 の後にこの御言葉があります。主の目は、主を恐れ、恵みを待ち望む者に注がれています。主ご自身に私たちの注目をあて、主から注がれる恵みを知り、浸り、悟っていくとき、栄光と勝利を私たちは見ていくと信じます。

数多くある恵みの中で、その最も大きな恵みは十字架であると思います。そしてその十字架によって成し遂げられた贖い、流された血潮ゆえに、私たちは価なしに義と認められた者です。

イエス様が十字架の上で流された血潮を、御言葉をもって宣言していくことは、本当に恵みです。宣言していく力さえも恵みです。この祈りをしていくとき、自分がきよめられていくことは、血潮によることをはっきりと悟ります。この恵みの宣言をしていくとき、恵みを歌っていくとき、必ず主の栄光が現されていくと信じます。

証になりますが、この血潮の宣言をしていく中で、私自身が否定的に考えていた部分が造り変えられていることを体験しています。気付かずに否定的に考えていた、下げて考えていた領域に、血潮が宣言されて、肯定的になり、信仰をもってみていく目を主が与えてくださっています。主が成したことに注目するとき、私たちの信仰は引きあがっていきます。本来あるべき姿へとなっていきます。もちろん、まだまだ完全ではありません。しかし実行していくとき、主の力によって、栄光から栄光へと造り変えられると信じます。

主の恵みを悟れば悟るほど、主の偉大さ、栄光をみていきます!!!

■A:考えてみよう

今日も主の恵みを覚え、またその恵みをほめたたえましょう!血潮の宣言をしていきましょう、主にあってあるべき姿へと造り変えられていきます!

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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