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◆わたしは……季節にかなって雨を降らせる。それは祝福の雨となる。

2013年02月24日 09時20分29秒 | 聖書

(エゼキエル三四・二六)

これは主権者のいつくしみである。「わたしは……雨を降らせる」と言い得る者が神のほかにだれがあるだろうか。雲に向かって語り、雨を降らせるように命じることができるのは、ただ神お一人である。地上に雨を降らせる者はだれか。野菜の上に雨を注ぐ者はだれか。それは主ではないか。あわれみの神の賜物であり、人の造り得るものではない。
それはまた必要な恵みである。土地は雨がなけれは、どうすることもできない。あなたは土くれを砕き、種を蒔く。しかし雨がなければ、どうだろう。神の祝福はどうしても必要である。神が豊かな雨を降らし、救いを下されるまでは、あなたはむだな働きをする。
さらにまた、これは豊かな恵みである。「わたしは……雨を降らせる」とある。「しずくをこぼす」のではなく「雨を降らせる」のである。神が祝福を与えられる時には、いつも受けきれないほど多く与えてくださる。豊かな恵みよ。私たちは謙遜であり続けるため、祈り深くなるため、また聖潔になるために、豊かな恵みを必要としている。熱心になるため、生涯救いより離れることのないため、そしてついに天国に達するために、豊かな恵みが必要である。
さらに、それは時に応じた恵みである。「わたしは……季節にかなって雨を降らせる。」今朝のあなたの時はどうであろうか。かんばつの時であろうか。それならば雨を要する時である。重苦しい黒雲のただよう時であるか。それも雨を要する時である。
「あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように。」ここにもまた種々の祝福がある。「それは祝福の雨となる」の雨は複数である。神はあらゆる種類の祝福を送られる。すべての神の祝福は、黄金のくさりの輪のように群れとして与えられる。神が回心の恵みを与えられる時には、慰めの恵みも与えられる。
神は「祝福の雨」を送られるのである。しおれた草木であるあなたは、今日、上を見上げ、あなたの葉と花を開いて天よりの慈雨を受けなければならない。

 


申命記19章8-10節

2013年02月23日 08時33分41秒 | 聖書

19:10 「あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地で、罪のない者の血が流されることがなく、また、あなたが血の罪を負うことがないためである。」


先に、約束の地に入った時、主が各種の戒めを与えておられるので、それを守って生きよと言われました。

また、逃れの町として3つの町を用意しなさいと言われました。

しかし、もし主にあって良き歩みをするならば、そのために、さらに3つの町を加えなさいと言われます。
過失致死というのがあります。

故意ではなく人を殺してしまった時などに語られます。

聖書の語る律法では、人を殺した者は「目には目を」と言われるように、対等な裁きが下されて、死刑になります。

 しかし過失の場合には、たとえ人を殺した場合でも、それはここでは罪のないものだと言われています。

そうした人を死刑にしてしまうことによって、血の責任を問われることがあってはならないと言われるのです。

しかし、過失かどうか確認がされる必要があります。

そのために、この「逃れの町」を作れというのです。


◆主は心を配っておられる

2013年02月23日 08時27分10秒 | 聖書

人の道は主の目の前にあり、
主はその道筋のすべてに心を配っておられる。(箴言五21)

「雨々降れ降れ母さんが蛇の目でお迎えうれしいな。ピチピチチャプチャプランランラン。」この歌をつくった人は、自分のことを何でも知り、雨の日も風の日もいつもすべてのことに心を配ってくれたお母さんを、どんなになつかしく思っているでしょう。
あなたも私もそうでした。小さい時はお母さんにふろに入れてもらって前も後ろもみんな洗ってもらい、何にも恥ずかしい所もなく、体中くまなくふいてもらい、着物を着せてもらい、寝かせてもらいました。下の世話から、いたずらの後始末まで心おきなくしてもらったのです。私たちにとって母親は、すべてのことを優しい目で見ていてくれる人、すべてに心を配ってくれる人でした。
しかし大人になると、自分独りで自分を守らなければなりません。恥ずかしい所を自分でかくし、みにくい所を自分で化粧してごまかし、何から何まで自分でするのかと思いたくなるほど、人は寂しくつらく悲しいと感じる時があります。
しかし神は実は、こんな大人になった私たち一人一人をみな目を離さずに見守り、すべてのことに心を配っていてくださるのです。
罪があると神を避けます。しかし、イエス・キリストの十字架の血で罪をゆるしきよめていただいて、もう一度神を心の中に信じ受け入れる時、実に神は、一人一人を苦しみの時に支え、悲しみの時に慰め、力のない時に励ましてくださいます。神はすばらしいお方です。
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」(Ⅰペテロ五7)。

 


◆わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。

2013年02月23日 08時25分32秒 | 聖書

(ヘブル一三・五)

約束はすべて個人的に解釈すべきではない。神がだれか一人の聖徒に語られたことは、すべての者に語られたのである。神がある者のために泉を開かれたならば、それはすべての者に飲ませるためである。神が穀倉を開いて与えられる時には、だれか一人の飢えた者のためであることもあるが、すべて飢えている聖徒は来て、それを食べることができる。
主にある友よ。神がアブラハムに語られたか、モーセに語られたかは問題ではない。神は約束を受けた者のすえであるあなたにそれを与えられた。あなたにとって高すぎるというような高遠な祝福はなく、広すぎるというほど広大な恵みもない。あなたの目を上げて、北と南と東と西を見回せ。これはすべてあなたのものである。ピスガの頂に登って神の約束の果てを望み見よ。これはみなあなたの領土である。生ける水の川の流れの中で、あなたの飲んではならないものは一滴もない。その地に乳と蜜が流れているなら、その蜜を食べ、その乳を飲め。みなあなたのものだからである。大胆に信ぜよ。主が「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と言われたからである。
この約束において、神はその民にすべてを与えられたのである。「わたしは決してあなたを離れない。」それなら、神のご性質のうち、私たちに示されないというものはないのである。神は全能であるか。神はご自身を信頼する者のためにその力を現される。神は愛であるか。それなら、神はいつくしみをもって私たちをあわれまれる。神のご性質を形成している種々の属性は、ことごとく私たちのために傾けられるのである。
一言で言えば、あなたの欠乏、あなたの要求、あなたが一時的にまた永久に要するもの、生きているもの、死んでいるもの、この世のもの、次の世のもの、現在のもの、復活の朝のもの、また天上にあるもののうちで、この聖句「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」の中に含まれていないものは一つもないのである。

 


申命記19章4-7節

2013年02月22日 07時52分30秒 | 聖書

19:4 「殺人者がそこにのがれて生きることができる場合は次のとおり。知らずに隣人を殺し、以前からその人を憎んでいなかった場合である。」


この3つの町は、何のために用いられたのでしょうか。

そのことを語って、それは知らずに隣人を殺害してしまった人が、逃れてくるための町だというのです。

たとえばその例として、木を切るために斧を振り上げたところ、その斧が人の頭に当たって死んでしまった時などです。

この時にも、殺された人の親族は、その人を殺人者として追いかけてきます。

しかし、彼は故意に殺害をしたのではないから、死刑にはならないで、正式な裁きの時まで彼が逃れることができる「逃れの町」を作れと言われるのです。

殺人は死刑でした。

しかし、それは故意による殺人の場合であって、過失の場合にはその人を守れと言われたのです。

こうして主は、人の命が正当な手段と理由がないのに取られることを、防がれたのです。

罪が犯された時にも一律に裁くのではなくて、なぜ犯されたのかという理由をわきまえて、事を裁くことを求められたのです。


◆祝されたプライバシー

2013年02月22日 07時48分27秒 | 聖書

あなたの泉を祝福されたものとし、
あなたの若い時の妻と喜び楽しめ。   (箴言五18)

「あなたの水ためから、水を飲め。豊かな水をあなたの井戸から。あなたの泉を外に散らし、通りを水路にしてよいものか」(15―16節)。ここだけ読むと、聖書はよいものを独り占めにする自己中心を教えているようにさえ感じます。実は、夫婦の愛のことを言っているのです。続けて少し読んでみましょう。「あなたの泉を祝福されたものとし、あなたの若い時の妻と喜び楽しめ。……いつも彼女の愛に夢中になれ。わが子よ。あなたはどうして他国の女に夢中になり、見知らぬ女の胸を抱くのか」(18―20節)。
夫婦の性の結びつきを伴った愛を、聖書は賛美します。「祝されたプライバシー」とでもいいましょうか。神の与えてくださった夫婦の結びつきは、二人だけに特別与えられた喜びの泉なのです。与え合い受け入れ合って互いに深く愛し合う時、それは喜びであり、健全で強い家庭の土台となります。夫婦の性愛は、互いを最も深く知り合うよすがです。
このような愛に結ばれて若い時の愛を持続する時、人に邪魔にされたりのけ者にされて、悲哀と孤独を味わう老年ではなく、幸せな老境が待っています。西洋のことわざの「白いものをかぶった山は天に近く、白いものをかぶった人も天に近い」ということばどおり、天に近い老年を迎えることも期待できます。
聖書は、キリストと教会をこの夫婦愛にたとえ、夫婦をキリストと教会の関係にたとえ、これこそ奥義だと語っています。祝福された二人だけのプライバシーをほんとうに豊かなものとせよと、聖書は言います。

 


◆しかし、彼の弓はたるむことなく、

2013年02月22日 07時47分11秒 | 聖書

彼の腕はすばやい。これはヤコブの全能者の手により、それはイスラエルの岩なる牧者による。(創世四九・二四)

神がその子どもたちに与えられる力は、真実の力である。それはからいばりではなく、私たちのよく口にする煙のような虚勢でもなく、真の神の力である。なぜヨセフは誘惑に勝てたのだろうか。神が助けてくださったからである。神の力がなかったら、私たちは何もすることはできない。すべての真実の力は、「ヤコブの全能者」から来る。
神がどれだけ親しい方法でヨセフに力を与えておられるかを見よ。「彼の腕はすばやい。これはヤコブの全能者の手による。」このように、神はその御手をヨセフの上に置き、その御腕をヨセフの腕の上に置かれるというのである。父がその子を教えるように、主は彼を恐れる者を教えられる。その御手を彼らの上に置かれるのである。なんという謙遜であろう。全能、永遠の神が、御座から下ってその御手をその子の上に置き、その御腕をヨセフの腕に伸ばして強められるのである。
この力は「ヤコブの全能者」から来る約束の力である。あなたが聖書の中でヤコブの神のことを読むなら、神がヤコブに約束されたことを必ず記憶せよ。クリスチャンは神の約束を考えることを喜ぶ。すべての力、すべての恵み、すべての祝福、すべてのいつくしみ、すべての慰め、その他私たちのもっているすべてのものは、約束によって水源から与えられるのである。もしも約束がなければ、私たちは待ちぼうけを食うほかはない。光と熱が太陽から来るように、すべての恵みは約束から来るからである。神の使いが上がったり下ったりしていたのは、ヤコブの見たはしごの上だけであって、その頂には約束の神がおられるのである。
主にある友よ。敵である射手があなたを激しく攻め、あなたを打ち、あなたを傷つけることがあっても、あなたの上にはなお力があふれている。それゆえ、すべての栄光をヤコブの神に帰することを怠ってはならない。

 


申命記19章1-3節

2013年02月21日 08時24分55秒 | 聖書

19:1 「あなたの神、主が、あなたに与えようとしておられる地の国々を、あなたの神、主が断ち滅ぼし、あなたがそれらを占領し、それらの町々や家々に住むようになったときに、
19:2 あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられるその地に、三つの町を取り分けなければならない。」


イスラエルの民に与えることを約束されたカナンの地のことで、3つのことが記されています。

1つめは、それは神様が与えてくださると約束された地であることです。

2つめは、彼らがその約束を信じて戦っていく時に、主が勝利を与えて土地を確保させてくださること。

3つめは、その地に住んだ時に、主の御心に従って歩まなければならないこと、でした。

 ところが、ここを見て参りますと、その土地を与えられた民がその全部を、ただ自分たちのためだけに確保するようにとは言われませんでした。

その地に、3つの町を選んで、それを他の人のために用いよと言われるのです。

土地は主によって与えられたものですので、その地を主の御心を行うために用いよと言われたのです。



◆気ままな生活の終わり

2013年02月21日 08時18分13秒 | 聖書

そうでないと、他国人があなたの富で満たされ、
あなたの労苦の実は
見知らぬ者の家に渡るだろう。
そして、あなたの終わりに、
あなたの肉とからだが滅びるとき、
あなたは嘆くだろう。      (箴言五10―11)

きのうに続いて、性的な不道徳の愚かさ・恐ろしさを語っています。説教したり、こごとをいっているのではありません。実物・実例・実際の姿を単純に記しているのです。
「終わりよければすべてよし」といいます。若いころから神を恐れることと神と人のために生きることを学んだ私の尊敬する先輩が、三年ほど前天に召されました。若いころは藁を着て寝るような貧乏の中で苦労しました。汗と苦労に満ちた一生だったかもしれません。
しかし、彼のまわりには妻のきよい深い愛がありました。みんなお父さん孝行で、まっすぐに神に従って歩いている子どもたちと孫たちがいました。彼を裏切らない友人たちに囲まれていました。彼が育てた教会には、たくさんの輝いた顔がありました。彼の葬儀に参加するために私の友人が乗った町のタクシーの運転手は、こう言ったそうです。「あの先生の顔を見ると、不平や不満がしぼんじゃったね。」すばらしい人生だったと思います。彼はその人生の最後にその労苦の実をどっさり収穫し、栄光の神のふところにそれを携えてがいせんしたのです。
金もうけをし、社会的な地位は高くなります。しかし性的不道徳を続ける人は、なかなかその愚かさに気がつきません。平気で女遊びをし、それでも自分は利口だ、かい性があると思う人の愚かさは、最後が来ないとその愚かさに気がつかない点にあります。肉体の力が尽きて、愛のあたたかさや豊かな心の平安や喜びが欲しい時に、まわりに人の愛を求めても、一つも見つかりません。

 


◆主ご自身がこう言われるのです。

2013年02月21日 08時15分03秒 | 聖書

(ヘブル一三・五)

私たちが信仰によってこのことばを把握していさえすれば、あらゆるものを征服する武器を手に持っていることになる。どんな誘惑も、この両刃の剣によって倒せないものはない。どんな恐怖も、神の約束の弓から来るこの矢によって射止められないものはない。人生の苦難と死の苦痛、内なる邪念と外なるわな、上より来る試みと下より来る誘惑、これらは私たちが、「主ご自身がこう言われるのです」というとりでの中に閉じこもっているならば、言うに足りないほどの軽い悩みである。静かな時の喜びのためにも、また戦いの時の力のためにも、この「主ご自身がこう言われるのです」というみことばが、私たちの日々の避け所でなければならない。そしてこれが私たちに、聖書を研究することがきわめて必要なことを教えてくれる。
聖書の中には、あなたの場合にぴったりとあてはまる約束がある。しかし、あなたはそれを知らないために、慰めを受けることができないかもしれない。あなたは牢獄の中にいる囚人のようなものである。そして、一たばのかぎの中の一個でとびらを開くことができ、あなたを解放することができるのであるが、もしあなたがそのかぎを捜さないなら、自由がすぐそばにあるにもかかわらず、あなたは囚人としてとどまっていなければならない。聖書の中には、霊薬の処方箋があるが、あなたがそれを研究し、「主ご自身がこう言われるのです」とあるのを発見しないから、あなたの病はいやされないのである。
あなたは聖書を読むだけでなく、あなたの記憶の中に神の約束を豊かに蓄えておくべきではないだろうか。あなたは偉人のことばを記憶し、有名な詩人の詩歌を暗唱しているが、神のみことばを蓄えて、難問や疑いをただちに解決すべきではないか。「主ご自身がこう言われるのです。」これはすべての知恵の源であり、あらゆる慰めのわき出る泉である。それをあなたの中に豊かに住まわせて、「永遠のいのちへの水がわき出る泉」とせよ。そうすれば、あなたは神のいのちの中で、健康に力強く幸福に育つことができる。

 


申命記18章14-22節

2013年02月20日 09時13分03秒 | 聖書


18:18 「わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。」


イスラエルの民は、異邦人が行っている占いなどを禁じられました。

では、イスラエルの民はどのようにして、主のみ声を聞くことができたのでしょうか。

それは、まずここでモーセが主の御心を告げておりますように、主が預言者に語られて、その預言者が民に語り伝えたことを通して、人々は主の御心を知ることができました。

 しかもここでは、モーセは主の約束として、終末の時には一人の預言者を遣わしてくださると語っています。

新約聖書では、このお方こそ、救い主キリストであると語っています。

つまり、イエス様のことを語っているのです。

イエス様は神の言であられます。

このお方を通して、神様はご自身の御心を、完全なあり方で伝えてくださっているのです。

ですから、主と主の御心を知りたいと思うならば、イスラエルの民も異邦人もすべての民が、聖書を通して神の御心を、このお方に聞くべきなのです。



◆人格の尊厳を売り渡すな

2013年02月20日 08時55分09秒 | 聖書

子どもらよ。今、私に聞け。
私の言うことばから離れるな。
あなたの道を彼女から遠ざけ、
その家の門に近づくな。      (箴言五7―8)

「人格の尊厳」がよく言われます。権力をかさに着たり、暴力によってあなたの人格の尊厳を侵すものは人類の敵です。
しかし実際は、権力も暴力も、真底まであなたの人格の尊厳を破壊することはできません。人があなたの顔にたんつばをひっかけ、あなたの着物に汚物を塗りつけても、あなたの人格がけがれるわけではありません。洗えば落ちます。殺されても地獄には行きません。
イエスは、外からのものはあなたをけがさない、あなたの体を通っても、みな排せつされてかわやに出てしまう、あなたの内なるものが、あなたをけがすのだ、と言われました。
だれでも、自分がみじめになったり、あわれな者になったりしたい人はいません。しかし、確実にあなたの人格をけがし、あなたをみじめにするものがあります。それは性的不道徳です。性的不道徳には、強力な罪の喜びというわながしかけてあります。お金と引き換えにその一時的な喜びを買ったその後には必ず、尊厳さを売り渡したみじめなあわれなけがれた魂の寂しさ・孤独があります。性的な不道徳をくりかえしていると、必ず人生の最後に貧しさ・病気・不安・独りぼっち・そして神のさばきが待っているのです。
近づくな。ひっかかるな。私たちにはみな弱い所があります。その弱さを自覚して神の愛ときよさを追い求めること、そこに秘訣があります。自分は大丈夫と思う人ほど失敗をします。
「あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい」(Ⅱテモテ二22)。

 


◆気落ちした者を慰めてくださる神……。

2013年02月20日 08時53分06秒 | 聖書

(Ⅱコリント七・六)

だれが神のように慰めることができるであろう。友よ。あわれな憂いに沈む神の子どものもとに行き、美しい約束を告げ、その耳に慰めのことばをささやけ。彼はへび使いの声に耳を貸さない、耳の聞こえないまむしのように、聞こうとしないだろう。彼は毒草やにがよもぎを飲んでいるのである。そしてあなたがどんなに慰めても、彼の口から聞くのは一言二言のあきらめのことばだけであろう。神に対する賛美の歌や、ハレルヤの叫びや、喜びの詩などはとうてい聞くことはできない。しかし神がその子どものところに来られ、その子どもの頭をもたげてくださるなら、嘆いていた者の目は輝いてくる。あなたはその悩んでいた人が次のように歌うのを聞くだろう。
 主よ、あなたのおられる所が楽園です
 あなたのおられない所は地獄です
あなたは彼を励ますことはできなかった。しかし、主はそれをなさった。ギルアデにない乳香が神にはある。造られた者の中には医者がいない。しかし創造者はいやし主である。神の甘美な一言がクリスチャンにとってどんなに心を打つ完全な歌になるか、驚くほかはない。神の一語は金の一片のようなものである。クリスチャンは金箔師であって、その約束を何週間分にもわたって打ち延ばすことができる。
かわいそうなクリスチャンよ。あなたは、あわれな乾いた井戸である。ポンプが乾いている時には、まず水を注ぎ入れよ。そうすれば、水を上げることができると聞いたことがあるだろう。主にある友よ。そのように、あなたが渇いている時には神のもとに行き、その喜びをあなたの心に注ぎ入れられるように求めよ。そうすれば、喜びがあふれるだろう。地上の友のもとに行くな。せいぜいヨブの友人のような慰め手を得るだけだろう。まず第一に「気落ちした者を慰めてくださる神」に行け。そうすれば、「私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように」と言うことができよう。

 


◆家庭に忠実であれ

2013年02月19日 10時53分08秒 | 聖書

他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、
その口は油よりもなめらかだ。
しかし、その終わりは苦よもぎのように苦く、
もろ刃の剣のように鋭い。         (箴言五3―4)

聖書は、けっして禁欲主義を教えていません。神の与えてくださったこの世界は、第一義的には祝福なのです。聖書は、この世を浮き世と呼んで否定したり、この世を捨てて出家したりするようには、けっして教えていません。かえって夫婦が愛し合って家庭をつくり、仕事にも励むことを命じているのです。クリスチャンになったからといって、信仰に熱心になったからといって、この世の祝福を避けるようにとは言っていません。かえって、社会の第一線で活躍するように励ましているのです。
神は人を男と女に造られ、祝福として性を与えておられます。人間が家庭をつくっていくために、性の喜びを与えてくださいました。つまり、愛と性は固く結びついています。性があることによって、人間は愛を教えられます。初めは奪う愛しか分からないのに、だんだんと与える愛へと変えられていく時、さらにいっそう性は祝されるのです。
しかし、性には大きなわながあります。自分の欲望を満たすためだけに性が使われ、奪う愛のみでほんとうの愛と結びつかない時、相手を道具とし、相手への忠実さは失われるのです。そのような結婚愛と分離された性はあなたの人間性を破壊し、あなたの家庭を破壊し、社会をだめにします。性のためのセックスの終局は苦よもぎのように苦く、両刃の剣のように鋭く殺りくするのです。
「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです」(ヘブル一三4)。