16:4 「七日間は、パン種があなたの領土のどこにも見あたらないようにしなければならない。また、第一日目の夕方にいけにえとしてほふったその肉を、朝まで残してはならない。」
アビブの年のことが語られています。
この年はイスラエルの年の初めの月で、私たちの歴では、3月の中頃から-4月の中頃に当たります。
その月中頃に、7日間の間、過越の生け贄を献げると共に、パン種を入れないで作ったパンを食べなさいと命じられました。
生け贄を献げるのは、初めの日になされます。
しかし、種を入れないパンを食べるのは、7日間すべてに渡ってでした。
この過越の生け贄は、民が主への感謝として献げてから、引き取って自分たちで食すものでした。
また、パンも同じように、自分たちが食しました。
過越の犠牲は、民がエジプトを出る時に、主によって命が守られ、また種入れぬパンは、そこを急いで出てきたことを記念するものでした。
共にそれは、エジプトから、すなわち奴隷状態からの解放を主が与えてくださったことを、いつまでも覚える、そのためになされた祭りであったのです。
あなたに悪いしうちをしていないのなら、
理由もなく、人と争うな。 (箴言三30)
争うことは、現代社会の特徴ではないでしょうか。ですから、私たちの心は、いつも防御の姿勢で固められています。いつやられても切り返せるように、刃を研いで待っているのです。そして、こんなに構えた防御の姿勢をとっていることは、やはり実際に争いを巻き起こしています。
私たちの口は、人の心を傷つけることばかり言ってしまいます。痛みをやわらげることばを、私たちは忘れてしまったのでしょうか。いや、初めから知らないのです。そして防御態勢がよくできて緊張している心は、ちょっと触れられても、たやすく人に傷つけられます。そこで、「悔しい、苦しい。どうするか見てろ」というわけで、人をもっと深く傷つけて満足しようとします。
争う生活は、固く縮こまる生活です。緊張して、堅いからをかぶっています。そこには、伸び伸びしたいのちが成長することはありません。この悪循環を断ち切って、心から平和を求めるにはどうすればいいのでしょうか。
自分のいやらしさ・力のなさ・罪深さ・弱さを思いきり知って悟り、くだけた開かれたその心の中にイエス・キリストに入っていただくこと、悔い改めて神を信じることです。やはり狭い門だといわれるかもしれません。しかし、ここにこそほんとうの平和があります。争いが絶え、剣が折られ槍が折られて、鋤となり鎌となるのです(イザヤ二4参照)。
悔い改め、開かれた心の中にイエスの愛がわきあがってくる人々は、理由もなく争う必要がありません。
(Ⅰヨハネ四・一四)
イエス・キリストが、父なる神の許しと、権威と、同意と、助けをもってこの世に来られたということを考えるのはすばらしい。イエス・キリストは、人々の救い主として、父なる神がお遣わしになった方である。私たちは三位一体の神に位格の区別があることを知っているが、その栄誉に区別のないことを忘れがちである。私たちは自分たちの救いの栄誉を主なるイエス・キリストに帰し、父なる神には帰することをしない。これは重大な誤りである。
イエスはどのようにして来られたか。父なる神がお遣わしになったのではないか。イエスが驚くべき教えを語られたのは、父なる神がイエスのくちびるに恵みを注がれ、新しい契約の力ある仲保者とされたからではないか。父なる神、子なる神、聖霊なる神を正しく知っている者は、決してこの三位格に対する愛に強い弱いを感じない。その人は、べツレヘムにおいても、ゲツセマネにおいても、カルバリにおいても、この三位が等しく救いのわざに携わっておられたことを知っている。
主にある友よ。あなたはその信頼を人なるキリスト・イエスに置いているか。あなたはひたすら主に結ばれているか。それなら、天の神に結ばれていることを信じなさい。あなたは、人なるキリスト・イエスの兄弟であって、主と深い交わりにあるのだから、これによって永遠の神と結ばれている。
「年を経た方」があなたの父であり、あなたの友である。あなたはかつて父なる神が御子を恵みのわざのために備えられた時の、父なる神の心にある愛の深さについて考えたことがあるか。もしないなら、今日一日このことを考え続けようではないか。父なる神がイエス・キリストを遣わされたことを熟考せよ。イエスが父なる神のみこころをどのようになされたかを思え。瀕死の救い主の御傷に「わたしはある」という方の愛を見よ。イエスを思うたびに、必ず永遠に賛美されるべき神を思え。それは「彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった」と書いてあるからである。