座間コミニティー

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申命記20章10-18節

2013年02月28日 08時05分12秒 | 聖書

20:16 「しかし、あなたの神、主が相続地として与えようとしておられる次の国々の民の町では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。」


イスラエルの民が約束の地に入るためには、途中でいくつかの町や国に遭遇します。

その時に、もし戦わなければならなくなったら、まずその人々に降伏を勧めなさいと言われています。

しかし、降伏をしないために戦になって、イスラエルの民が勝利を得た時には、彼らを自分たちの奴隷とし、また戦利品は自分たちのものとしてとってもよいと言われました。

 しかし、約束の地に住んでいる人々に対しては、全く違っていました。

その人々と戦って、戦いに勝った時には、男や女、大人や子供にかからず、皆殺害しなさいと言われました。

聖絶しなさいと言われたのです。

なぜかと言いますと、イスラエルの民がこの地に住む時に、彼らが生かされていることによって、彼らの祭っている偶像礼拝に、民が陥ってしまうことがないためでした。

つまり、信仰的な理由によったのです。

ですから聖絶、つまり、神の命による殺害と言われたのです。

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申命記20章1-9節

2013年02月28日 08時03分17秒 | 聖書

20:1 「あなたが敵と戦うために出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの地から導き上られたあなたの神、主が、あなたとともにおられる。」


約束の地に入る時には、そこでは戦いがあります。

入ってからも戦いはあります。

そうした時に、敵は自分たちよりも軍事力があり、また町が強固であったりする時もあります。

そうした時に、あなた方は恐れるなといわれるのです。

主が与えると約束してくださっているので、主を信頼していけば、必ず勝利を獲得できるからです。

しかし、その時にも、戦いに出ることを強要はされませんでした。

家を建てたばかりの人、畑で収穫を終えていない人、婚約しているが結婚をしていない人、恐れて弱気になっている人、そうした人は家に帰れといわれるのです。

主が召された戦いは、主を信頼して戦うことです。

それがないと、主の戦いではなくなって、単なる強がりになってしまうからです。

これは伝道も同じです。

いつも主を見つめ、主が共にいてくださるという信仰を持って、成していくのです。


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◆目 を さ ま せ

2013年02月28日 07時56分14秒 | 聖書

なまけ者よ。いつまで寝ているのか。
いつ目をさまして起きるのか。
しばらく眠り、しばらくまどろみ、
しばらく手をこまねいて、また休む。
だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、
あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。(箴言六9―11)

いつか駅の職員が寝坊して、駅のシャッターをおろしたままで一番電車を通らせてしまい、お客さんが電車に乗れなかったという事件がありました。しかし、これはニュースになるほど特別なことでした。日本人は勤勉で清潔です。
ところが、その私たち日本人の怠惰でだらしがない点は、「神」とか「愛」「永遠」「きよさ」についてです。
ある時ホテルにとまって、朝早く出発しなければならないことがありました。フロントに行ってみると、ボーイさんがフロントの向こうで横になって寝ています。声をかけると起きあがったのですが、寝ぼけまなこで、こちらが何を言っても要領を得なかったことがあります。
人生も、寝ぼけているとそのとおりです。絶対にきよく正しい神の前に立つと、どうしていいか分かりません。愛とか永遠とかの前におどおどしてしまうのです。
いつも一生懸命働き、勤勉に商売しているように見えても、神の愛が分からず、神のきよさ・永遠も分からず、死とさばきも何のことかと目をこすっているようでは困ります。やがてすべてを神が分からせられる「死」を待っているのではおそいのです。私はまっすぐ歩いている、一生懸命やっていると思っても、愛がなければ曲がっています。きよくなければ、よろめいているのです。神の愛と神のきよさに目ざめましょう。
「目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます」(Ⅰコリント一五34)。

 

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◆私の望みは神から来るからだ。

2013年02月28日 07時54分01秒 | 聖書

(詩篇六二・五)

このことばを用いることは信者の特権である。彼がこの世からなんらかの望みを期待しているとすれば、それはまことにつまらない望みである。しかし、この地上の祝福であると霊的な祝福であるとを問わず、神によって欠乏を満たされたいと望むなら、その望みは決してむだになることはない。彼は信仰の銀行から常に資金を引き出し、神の恵みによってその必要を満たされる。私がこのことを心得ているならば、大金持ちのロスチャイルドに金を預けるよりも、神と取り引きしたいと思う。私の主は、決して約束を破られることはない。約束を御座に携えて行くならば、神は決してそれを無視されることはない。だから、私は神の戸口に立って、豊かな恵みの御手をもって戸を開かれるまで待とう。その時に約束の真偽ははっきりする。
さらに、私たちは、この世以上の望みをもっている。やがて、私たちは死ぬだろう。そうすれば「私の望みは神から来る」。私たちが病の床にある時、神が御前の使いを遣わして神のふところに運ばれることを期待しないだろうか。脈が衰え、呼吸が乱れた時に、天使は私たちの枕もとに立ち、あわれみの目を注いで、「私の愛するたましいよ。私とともに来なさい」とささやく時のあることを私たちは知っている。私たちが天の都の門に近づく時、「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」という歓迎の声を聞くことを期待する。さらに、私たちは黄金の琴と栄光の冠を期待し、まもなく御座の前の輝く群衆の中に入ることを望む。私たちは栄光の主に似せられる時の来ることを心待ちにしている。なぜなら「私たちはキリストのありのままの姿を見る」と書かれてあるからである。
私のたましいよ。もし以上のことがおまえの望みであるならば、ただ神のためにのみ生きよ。おまえの必要をすべて満たし、その恵みによっておまえを召し、贖い、救われた神の栄光を現すことを願い、かつ決意して生きよ。これがおまえのもつべき、来るべき栄光の望みである。

 

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