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◆いつでも祈るべきであり……。

2016年11月13日 16時51分06秒 | 聖書
(ルカ一八・一)
人は、いつでも祈るべきであり、失望してはならないとすれば、キリスト者においてはなおさらのことである。イエスはご自分が地上でもたれたと同じ務めを託して、教会を世に遣わされた。この務めの中に、とりなしの祈りがある。
教会がこの世の祭司であるというのは間違いであろうか。造られた者がみな沈黙しているので、教会はその代弁者にならなければならない。受け入れられる祈りをささげるのは、教会の一大特権である。恵みのとびらは、教会のさまざまな嘆願に向かって絶えず開かれているため、それらの嘆願がむなしく返ることはない。隔ての幕は教会のために裂かれ、血は教会のために祭壇の上に注がれている。さらに神は教会に、欲するものを絶えず求めるようにと招かれる。天使さえもうらやむこの特権を教会はむげに退けるべきであろうか。教会はキリストの花嫁ではないのか。教会は、いつでも望むままに王の御座に近づくことができる者ではないか。この尊い特権をもち腐れにしてはいないか。
教会は常に祈りの必要に迫られている。教会の中にはいつでも、信仰の傾く者、公然と罪に落ちていく者がいる。キリストの御胸に運ばれるため、祈りを必要とする小羊がいる。強い者は高ぶらないよう、弱い者は失望しないように祈らなければならない。
たとえ一日の二十四時間を全部祈り会にあて、それを一年中続けたとしても、とりなしの特別な項目がなくなることはないであろう。病む者、悩む者、信仰の動揺している者がいないだろうか。親族の回心、信仰後退者の回復、堕落者の救いを求める者がいないことがあろうか。否、会衆は絶えず集い、教師は常に説教するが、無数の罪人は罪と咎の中に死んでいる。暗黒の増しつつある国、偶像、残忍、悪魔的行為に満ちている世にあって、もし教会が祈らないならば、慈愛に満ちた主のご命令を無視した罪を、なんと申し開きできるだろうか。教会は、絶えずとりなしの祈りをしなければならない。すべての信者は神の倉に祈りのレプタを積まなければならない。
 

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