座間コミニティー

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◆羊飼いたちは、見聞きしたことが、

2015年01月28日 16時59分43秒 | 聖書

全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。(ルカ二・二)

彼らの賛美の主題は何であったか。彼らは、聞いたことについて神を賛美したのであった。救い主が彼らのためにお生まれになったという大いなる喜びの良いおとずれのために賛美したのである。私たちも彼らにならおうではないか。イエスと主による救いについて聞いたことを、私たちも感謝して歌おうではないか。
彼らはまた、見たことのゆえに神を賛美した。そこには最も妙なる音楽――私たちが経験したこと、内に感じたこと、自らのものとしたこと――がある。イエスのことを聞くだけでは十分ではない。単に聞くだけでもたてごとは鳴るかもしれない。しかし、生ける信仰の指が音楽を奏でるのでなければならない。もしも神が与えてくださった信仰の目をもってイエスを見たならば、琴の糸にくもの巣などを張らせず、声高らかに主権者の恵みを賛美し、あなたの琴を目覚めさせよ。
彼らが神を賛美した一つの点は、彼らの聞いたことと見たこととの一致である。「話のとおりだったので」というところに注意していただきたい。あなたは、福音が聖書に語られたとおりであることを見いだしてはいないか。イエスはあなたに安息を与えると言われた。あなたは彼にあって、すばらしい平安を味わっていないのか。イエスはあなたが信じることによって喜びと慰めといのちをもつと言われた。あなたはこれらのすべてを受けてはいないのか。主の道は快い道であり、平安の道ではないのか。あなたはきっと、シェバの女王とともに、「私にはその半分も知らされていなかったのです」と言うであろう。私は、キリストが、そのしもべたちが語ったよりもはるかにまさる妙なるお方であることを見いだしてきた。私たちの王の美は、あらゆる想像上の美よりもはるかに輝いている。
私たちの「見た」ものは、「聞いた」ものと一致する。いやそれよりもはるかにまさる。それゆえ、このように尊く、恵みに満ちた救い主のために、神をあがめ、神に賛美をささげよう。

 


「神よ。私を探り私の心を知ってください。

2015年01月28日 16時58分51秒 | 聖書

私を調べ…傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」(詩139:23)

私達の世界で、対人関係は大きい。その様々な関係の中で、何か心がザラつく時、暗くなる時、とにかく平安が失せた時は、何か自分の側が間違ったという事だ。
「肉の思いは死、御霊による思いはいのちと平安」、自分が神との正しい関係にあれば、状況がどうであれ心は平安だ。
どんなに敵対され攻撃されても、自分は平安だ。
どこまでも相手でなく神との関係だからだ。
心に死の感覚あり、平安が無いのは、自分に問題がある。
相手に反応した結果、自分の内に、妬みや敵対心、さばく心、又、思い煩い、自己正当化等、何かの罪が生じ、平安が失せた。
しかし、心の苦しい気持ちの根拠が、自分の内に見えないので、相手に置き、相手のせいにする。
それが人に傷つけられた、にすり替わる。
実のところ、相手が自分の思い通りにならないので、許せず、さばいている。
しかし、気づかずに相手に傷つけられたと思う。根にあるのは相手を自分の思い通りにしようとする、強い思い、自我だ。
神の御前に心を開き、御霊に内を隅々まで調べて頂こう。
光に照らされない限りわからない。間違いを指し示し、いのちの道へと導いて下さる。
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自分の思い通りにしたい、はエデンの園での誘惑であり、神を捨てて、選び取った罪だ。
根深く自分の内にある。光の御使いに偽装しでも来る。
神のためと言いながら、実は自分の思いを通したい。
光のもとに自分をさらそう。


今日の聖人の記念日

2015年01月28日 07時04分28秒 | キリスト教

聖トマス・アクィナス司祭教会博士

1226年-1274年

 トマスは、北イタリア、ロンバルディアの貴族の家に生まれた。幼いころからベネディクト会のモンテ・カッシーノ修道院で教育を受けた。その後ナポリ大学で学び、司祭になることを決意し、設立されたばかりのドミニコ会に入ろうとした。両親や兄弟の猛反対にあい、城に閉じ込められたが、彼は初志を貫いてドミニコ会に入り、パリとドイツのケルンで学び、哲学、神学などを修めた。内気なトマスは、学生仲間から「だんまり屋のシシリー牛」と軽蔑されたが、教授の大聖アルベルト(11月15日参照)は、彼の奥深い才能を見抜き、その後2人は固い友情で結ばれた。果たしてトマスは、当時最も優れた学者となり、パリやイタリアの大学で教鞭を取った。

 当時、ヨーロッパ世界には、ギリシャ哲学者アリストテレスの思想が入り、ある学者はキリスト教を捨て、ある学者はその思想をキリスト教に反するものとして否定する、という思想的混乱を巻き起こしていた。トマスは、アリストテレスの思想のある部分を取り入れ、キリスト教に合った哲学と神学の書を著わした。『神学大全』は、神の愛、神の内にすべての完全さがあることを表現した不朽の名著とされている。

 トマスは、1274年にリヨン公会議に赴く途中、病に倒れ亡くなった。

 彼は、学生・学校の保護者とされている。


◆神の愛を知る

2015年01月28日 07時03分09秒 | 聖書

わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。
その叱責をいとうな。
父がかわいがる子をしかるように、
主は愛する者をしかる。       (箴言三11―12)

「健康な生き方」とは何でしょうか。
・ 愛されているという満足・喜び・平安に満ちている。
・ 愛するという力・希望・忍耐にあふれている。
この二つのことは、ぜひ必要です。これは神からだけ来ます。神は愛だからです。
この神の愛を知る一つの大きな方法は、人生の苦しみの中に、私たちが神の愛の涙と血を知ることです。
新聞の「父の日」特集の中に「父を語る」として、「私のお父さんはよく叱る人だった。もうその叱る人はない。今になって父の愛をしみじみ感じている」と記されていました。
また、ある人は告白しています。とんでもない踏みはずしたことをした時、お父さんが烈火のように怒ったそうです。自分を引きすえて、お前のようなものは死んでしまえと涙ながらに言って、ナイフを渡しました。そしてもう一本のナイフを取り出すと、お父さんは手のひらをたたみについて、ぐさっとその手にナイフを突き刺したそうです。「さあ死ね」と。血があふれ流れました。その父の愛と力に私の心は粉々にくだけたと、その方は述べていました。
キリストの十字架の血潮は、これではないでしょうか。罪とわがままに満ちた自分勝手な私たちは、十字架に引き立ててこられました。しかし、「キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ五8)。
神は愛しているので、叱り、苦しめ、こらしめます。ですから、しらけてはならないのです。その前に引きすえられ心をくだいて神の愛を受け止め、神の愛に満たされる時、人は変わります。

 


◆キリストにあって完全な者……。

2015年01月28日 07時02分06秒 | 聖書

(コロサイ一・二八欄外注)

あなたは、自分のうちには完全がないことを、たましいのうちに感じないだろうか。日々その感じを深くしないだろうか。両の頬をつたう涙の一滴ごとに、「不完全」という嘆きを聞かないだろうか。ため息をつくたびに、「不完全」という叫びを聞かないだろうか。あなたのくちびるから荒いことばが出るたびに、「不完全」という思いがしないだろうか。あなたは心で夢見つつ、自分自身の中に完全を得ようとしばしば考えた。だが、この悲しむべき不完全の自覚のうちに、あなたに対する慰めがある。あなたは「キリストにあって完全な者」である。神の目から見れば、あなたはキリストにあって満たされているのである。
今もあなたは、愛する御子によって受け入れられている。しかし、まだこれから実現される第二の完全がある。それはすべての信者に保証されているものである。信者からすべての罪の汚れが取り去られ、しみや、しわのようなものの何一つない、聖く傷のない者となって立たせられる時を待ち望むのは、喜ばしいことではないか。キリストの教会は、その時、神の全知の目でさえも、なんらの傷もしみも見いだせないほど純潔な者となり、神聖で栄光に輝く。そのためハート氏の言った次のことばも決して言いすぎではない。
 私の救い主の衣をまとい
 聖者のように聖くされる
その時私たちは「キリストにあって完全な者」という短い聖句の喜ばしい意味を理解し、また体験する。その時までは、私たちはイエスの救いの高さ、深さを完全に理解することはできない。このように考える時に、あなたの心は喜びに躍りはしないか。黒いあなたがいつか白くされ、汚れたあなたがいつかはきよめられる。ああ、なんという驚くべき救いであろう。
キリストは黒い傷のある者を取り、栄光のうちにきよい無比の者とされる。その美において並びない者、天使セラフィムの友としてふさわしい者とされる。ああ、私のたましいよ。立って、このキリストにある完全という喜ばしい真理を賛美せよ。

 


第1列王記17章1-7節

2015年01月28日 07時00分40秒 | 聖書

17:3 「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。
17:4 そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」
17:5 それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。



 イスラエルの王アハブの偶像礼拝の行為に対して、神は預言者のエリヤを遣わして、彼の悪行を責め、その行為を改めるように勧めます。

ここでエリヤは、もし彼がその罪を悔い改めないならば、当時の最も恐ろしい災害である飢饉がこの国に到来するであろうと警告をしました。

その警告を語った後、神様はエリヤに対して、故郷のケリテ川のほとりに身を隠せと命じられました。

アハブに対して強い警告の言葉を告げた彼が、アハブから迫害を受けることを逃れさすためでした。

その時に主が彼に語ったことは、そのケリテ川の所で隠れている時には、あなたの食べ物であるパンと肉を、朝夕カラスに運ばせようといったことでした。

主が用いられる人々を、主は守られるのです。



詩篇131篇1~3節

2015年01月28日 06時57分37秒 | 聖書

★主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。
まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように私の前におります。
イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て。

マタイの福音書10章7、22節
★行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。
★また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

■O:今日のコラム
1月27日の朝です。主を待ち望みましょう。イエス様をいつもお待ちしましょう。イエス様にいつも依り頼んでいきましょう。僕らは、絶えず主を待ち望むことに目を向けていきましょう。天の御国が近づいているからです。イエス様が、僕らをあらゆる場所へと遣わそうとされているからです。

天の御国は、主が光を放たれ、主の臨在が満ち溢れている場所です。(黙示録21章~を参照)主の臨在があるところは、天の御国が近い場所だと言えると思います。天の御国が来ている場所です。イエス様を信じて主に祈る時、歩いていても電車の中でも、バスでも自転車でも、自動車の中でも、バイクでも飛行機でも、トイレでも、職場でも、学校でも、主が共におられます。僕らは、聖霊様の宮だからです。感じても、感じなくてもです。ますます主御自身を求めていきたいです。

イエス様は、12弟子達を遣わすためにマタイの10章を語られました。行く場所、言う事、やること、持ち物、とどまる場所、挨拶の仕方、遣わされる場所の状況、その場所で必ず苦しみや試みがくること、信頼するべきは天のお父さんであること、イエス様に従う者としての心得、イエス様がこられた目的、などです。
僕らと共に主がおられる時に、主を知らない周りの人と本気で付き合おうとする時、批判が満ち溢れます。それは、ある意味、その相手が僕らのことを心配してくれているからです。だからこそ、僕らは、その相手が救われることを祈っていきたいです。だから、最後まで耐え忍びたいのです。僕らがイエス様の十字架と復活、救いを宣言していきましょう。僕らが、ブレてしまうならば、誰がこの塩気を保つことができるでしょうか!?この世に塩気を保つことは、主が僕らに託しているのです。

だから、僕らは、絶えず主を待ち望みましょう。自分の力でやるのではなく、自分の心を誇らせず、自分の目を高ぶらせないようにするのです。自分の力を、及びもつかない大きなことや、奇しいことに、深入りさせないのです。これらのことを、自分の目線では見ないようにするのです。そして、主の目線で、主の力で、解き放っていくのです。

そのために、主の前に、自分のたましいを委ねるのです。たましいを主に捧げるのです。主を待ち望みましょう。耐え忍ぶ信仰を主から受け取りましょう。


■A:考えてみよう
主を待ち望みましょう。天の御国がこの地にくるように祈りましょう。そして、自分の周りに「天の御国が近づいた!」と宣言していきましょう。


■P:祈り


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


1月27日(火)のつぶやき

2015年01月28日 01時45分41秒 | キリスト教

◆私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、 goo.gl/W6AyBm


庶民の声 代弁/政党助成法廃止法案 識者ら歓迎・・・ goo.gl/rdsNIN


「割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。 goo.gl/PiAWF7