座間コミニティー

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◆聖書全体の中で、

2015年01月18日 16時38分18秒 | 聖書

ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。(ルカ二四・二七)

エマオ途上の二人の弟子は、最も有益な旅をした。彼らの道づれは、最上の教師であり、千人に一人もない注解者であり、その中にはすべての知恵と知識の宝が隠されていた。主イエスはへりくだって福音の説教者となり、二人の聴衆を前にその使命を果たすことを恥となさらなかった。今日でも、主は一人に対してであっても、教師となることを拒まれない。このようなすぐれた教師と道づれになることを求めよう。主が私たちの知恵とならなければ、私たちは決して救いを悟り得ないのである。
この無比の教師は、すべての本の中で最上のものを教科書に用いられた。新しい真理を啓示することもできたが、それよりも古くからの真理を解説することを好まれた。その全知によって最上の教授法を知り、モーセや預言者の書を引いて、知恵に至る確実な道は、思索、推理、読書ではなく、神のみことばの黙想であると示された。霊が天上の知識に富むための最短の道は、このダイヤモンドの鉱山を掘り、この天の海から真珠を集めることである。イエスが他の人を富ませようとされた時、聖書という石切り場で働かれた。
世にも幸福なこの二人は、最上のよい題目について考えるように導かれた。イエスが自らご自身について語り、ご自身に関することを解き明かされたからである。ダイヤモンドをみがく。これ以上にすばらしいことがあろうか。家の主人が親しく戸を開き、客を食卓に招き、山海の珍味を並べられたのである。畑に宝を隠された方が、探している者を自ら案内されたのである。
私たちの主は最もすばらしい問題を論じ、ご自身のご人格とみわざにまさるものを二人は見いだすことはできなかった。私たちはこれらの点に目を注ぎ、常に聖書に尋ねなければならない。おお、イエスを教師として、また教訓として聖書を学ぶ恵みを与えてください。

 

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「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。

2015年01月18日 16時37分37秒 | 聖書

神があなたがたのことを心配してくださるからです」(Ⅰペテロ5:7)

思い煩いの無い人はいない。すべての人が思い煩いに悩まされる。
その思い煩いを自分で何とかしようとして、もがいて、ますます泥沼に落ち込む。
どんなに自分で取り除こうとしても、どうにもならない事が経験済みだ。
自分の一番の弱点に来るから始末が悪い。
目の前の事、少し先の事、延々将来の事にまで及び、恐れと不安に飲み込まれる。
それはどんどん膨らんで行く。
化け物のようだ。取り込まれて、がんじがらめだ。
経験した人はわかるだろう。
主は私たちがこの思い煩いに悩まされる事をご存じであり、そのため、「神に委ねよ」と解決策を示して下さっている。
それは「祈り」だ。祈りが思い煩いからあなたを解放する。
思い煩いに代わり、平安が臨む。
思い煩うか、祈るか、どちらかだ。
どちらを取るだろう。自分の力や人の力、この世のノウハウに頼るのでなく神に祈ろう。
そうするなら、問題は依然存続しているに関わらず、状況は同じなのに、心の奥に深い平安が来る。
そして、大丈夫だと思える。
状況に全く関係ない「主の平安」を下さる。
あなたも主に、心の内をことごとく何もかも告げてみることだ。
人知を超えた神の平安に包まれることを体験していく。
------------------------------
先の事を、又もう戻れない過去をあれこれ思い煩い、今の時を台無しにしている。
神がその事、あの事を心配していて下さる。
委ねて「今」を生きよう。
主と共に目の前のなすべき事をして行こう。

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今日の聖人の記念日

2015年01月18日 07時48分23秒 | キリスト教

聖マルガリタ(ハンガリー)

1242/43年-1270年

 マルガリタは、ハンガリー国王ベラ4世の娘として生まれた。当時、ハンガリーは政情の危機に直面していたので、両親は幼いマルガリタをブタペストのドミニコ会の修道院に預けた。1254年に、彼女は修道女になることを望み、ボヘミア王からの結婚の申し出を始め、すべての縁談を断わって、神にささげることを誓った。

 祈りと苦行に励み、謙遜な態度を保ち、貧しい人々への寛大な愛を行なった彼女は、人々から慕われた。マルガリタが王女のころ、彼女のもとで働いていた女性は、「王女でありながら、私たちより謙遜な方であった」とほめたたえた。

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◆英知に救われる生活

2015年01月18日 07時47分21秒 | 聖書

悪の道からあなたを救い出し、
ねじれごとを言う者からあなたを救い出す。(箴言二12)

ねじれた心ほど私たちの人間関係を不幸にし、私たちの生活をおぞましいものにするものはありません。嫁と姑の間・夫と妻の間・職場の上司との間・部下の間でもそうです。
私にも心に覚えがあります。ねじれた心からねじれた態度・ねじれたことば・ねじけた行為が出て、人間関係をくさらせ暗くし、じめじめさせるのです。
ねじれた心は、好意をもって人を見ることができません。寛容さのない忍耐深くない心です。あの人は私をこう思っている。私にこんなことを言った、こんなことをしたからゆるせないと、憎んだり怒ったり知らん顔をしたりします。
ねじれた心はまた、二つの物差しを持つ心です。自分で花びんを壊すと、あ、失敗しちゃったですませます。しかし嫁が壊そうものなら、不注意だ、心が入ってない、何だとさばいたり、非難したり、こごとを言ったりするのです。あなたには桃一つを一五〇円で売り、美人のお客さんには五〇円で売っている八百屋さんを見たら、あなたは怒るに違いありません。しかしあなた自身が自分勝手なことをしています。いつも自分には五〇円、人には一五〇円で売っているのです。
ところが、神を知り神から英知をいただくと、自分の罪深さ・自分勝手さがよーく分かってきます。こんな私を神が愛しゆるし忍耐し恵んでくださることが分かります。そして、人にも同じようにしようと考えるようになります。英知は、まさに私たちをねじれた人間関係から救い出すのです。

 

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◆したがって、安息日の休みは、

2015年01月18日 07時46分36秒 | 聖書

神の民のためにまだ残っているのです。(ヘブル四・九)

天国にある信者の状態は、地上の信者とどんなに異なっていることだろう。この地上では、信者は労苦し、疲れを忍ぶようになっているが、死が存在しない天国では疲労は全く知られない。この地上では、信者は主に仕えようとするが、その熱心さに行動が伴わないことを見いだす。彼は絶えず、「私の神様。あなたに仕える私を助けてください」と叫ぶ。もし彼が積極的なら、多くの仕事が与えられるであろう。しかし、心はあせっても力が足りないので、彼は「私は仕事をいとうのではありませんが、仕事に疲れています」と叫ぶのである。
主にある友よ。疲労を覚える暑い日が永遠に続くのではない。太陽はまさに沈もうとして地平線に近づく。太陽が再び現れる時には、見たことのない輝かしい日が来て、夜昼神に仕えてもなお安息を得る国が出現する。この地上では、安息はただ部分的である。だが、天国での安息は完全である。この地上ではクリスチャンは旅人である。彼は行くべき所に行き着いていないことを感じている。天国ではすべての者が安息を得ており、彼らは山頂に達し、神のふところに到達している。
ああ、疲れた働き人よ。ただ、永遠に憩う時を思え。あなたはそれを考えることができるか。それは永遠の安息であり、「残っている」安息である。この地上における私の最上の喜びも、「朽ちるもの」のしるしを帯びており、美しい花もしおれ、甘美な杯も飲み尽くされる。美しい声で歌う小鳥も死の矢によって打ち落とされ、最も楽しい日も夜のために妨げられ、祝福の満潮も悲しみの干潮に変わる。しかし、天国ではすべてのものが不滅である。たてごとはさびず、栄冠はしぼまず、目はかすまず、声は衰えず、心は動揺しない。そして永遠に死を見ない住民たちは、無限の喜びの中に全く没入するのである。
幸いなる日よ、幸いなる日よ。その日、朽ちるものはいのちにのまれ、永遠の安息が始まる。

 

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第1列王記15章9-15節

2015年01月18日 07時44分52秒 | 聖書

15:11 アサは父ダビデのように、主の目にかなうことを行った。
15:12 彼は神殿男娼を国から追放し、先祖たちが造った偶像をことごとく取り除いた。
15:13 彼はまた、彼の母マアカがアシェラのために憎むべき像を造ったので、彼女を王母の位から退けた。アサはその憎むべき像を切り倒し、これをキデロン川で焼いた。



 神様は、親のした良い歩みに報いて下さって、その子に祝福をもたらして下さる方です。

その点は先に、ダビデの信仰に報いて、その子を憐れんで下さることを語っていたことです。

それは、具体的には、偶像礼拝者であった王アビヤムの後を継いだ王アサに与えられました。

 その与えられた祝福は、彼が主に対する信仰にしっかりと立って、生きる人となったということです。

それがダビデに係わる子孫への恵みでした。

王となったアサは、偶像を取り除き、神殿男娼を排除しました。

また、母であったマアカがアシェラ像を作ってそれを礼拝する偶像礼拝を行っていたので、彼女を王母の地位から退かせ、その影響力を絶ちました。

彼は、主にのみ従う者となったのです。

それが、主が与えて下さった恵みでした。

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サムエル記 第一 30章8節 (1サムエル29章)

2015年01月18日 07時42分06秒 | 聖書

★ダビデは主に伺って言った。「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」するとお答えになった。「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」

★それで、サウルは主に伺ったが、主が夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても答えてくださらなかったので、(1サムエル28章6節)

★サムエルはサウルに言った。「なぜ、私を呼び出して、私を煩わすのか。」サウルは言った。「私は困りきっています。ペリシテ人が私を攻めて来るのに、神は私から去っておられます。預言者によっても、夢によっても、もう私に答えてくださらないのです。それで私がどうすればよいか教えていただくために、あなたをお呼びしました。」(1サムエル28章25節)

■O:今日のコラム
ダビデとサウルの生涯は、あらゆる面で対照的でしたが、主からの導きを受けることに関しても同様でした。

今日の場面、ダビデもサウルも窮地に立たされていた、という点では共通しています。

ダビデは戦争に参加するつもりで、勇士達を引き連れて自分たちの町を離れていましたが、留守の間に、その町が襲われ、自分も家来も、妻子や財産を略奪され、町は焼き払われてしまいました。
ただでさえ上司からの嫌がらせの中、綱渡りのようなストレスいっぱいの生活だったのに、経済も家庭も攻撃されるという打撃を受け、その上、部下からもリーダーシップに対する不満と不信が炸裂し、危うく殺されかけるほどの窮地に追い込まれていました。

一方サウルも、長年の敵であるペリシテ人が軍を招集して攻めて来るという状況。やはり、難しい立場でした。

戦場に出て行かなければならないリーダーとして、同じように試練の中にあったダビデとサウル。どうしても、主の導き、助けを必要としていた二人。しかし、主の取り扱いは、鮮やかなほど対照的でした。

ダビデが主に伺った時、主ははっきり答えてくださいました。
サウルは、というと、同じように「主に伺った」のに、「夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても答えてくださらなかった」とあります。

この違いはどこから来ているのでしょうか?

答えは、ダビデとサウルの毎日の生活の中にあった、と思います。

主は、私たちが戦場に行く前に、毎日の生活の中で、私たちと一緒に歩みたい、と願っておられるのです。
困った時だけ助けを求めるのでなく、嬉しい時も、幸せな時も、満ち足りる時も主に感謝し、痛い時も、悲しい時も、孤独な時にも、主を見上げて、主に信頼してほしいと願っておられます。

サウルの手には槍が、ダビデの手には立琴があった、という箇所がサムエル記に出て来ますが、これは、とても象徴的なシーンだと思います。

1サムエル18章10節 …ダビデは、いつものように、琴を手にしてひいたが、サウルの手には槍があった。
槍は何を表しているでしょう?
琴は?

聖書には、繰り返して、肉によって歩む礼拝者たち(カイン、サウル、律法学者、パリサイ人etc.)と、御霊によって、信仰によって、愛によって歩む礼拝者たち(アベル、ダビデ、イエス様、ステパノetc.)が登場します。

槍や琴は、心の状態の現れですが、どんな木につながっているか、という実であり、行いでもあります。心の中にだれが住んでいるかで、だれが支配しているかで、その実は変わって来ます。

柔和で、忍耐強い方、全能で力強く、聖い方、誠実な方、憐れみ深くいつくしみ深い主、イエス様が、今日も私たちの心の中に豊かに住んでくださいますように。


■A:考えてみよう
私の手には琴があるだろうか?槍があるだろうか?


■P:祈り
今日、どこにいても、何をしていたとしても、私の心に主への信頼と感謝、賛美がありますように。平安と喜び、神様の義が私を支配して下さいますように。今日、御霊に導かれて歩む事ができますように。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

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1月17日(土)のつぶやき

2015年01月18日 01時48分18秒 | キリスト教
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