座間コミニティー

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◆あなたの愛はぶどう酒よりも快く……。

2015年01月08日 16時43分46秒 | 聖書

(雅歌一・二)

信者にとって、キリストとの交わりほど喜ばしいものはない。他の人たちと同じように、彼は日ごとの生活において恵みを受け、神の賜物と神の働きの両方を喜ぶ。しかし、これらの一つ一つは、いやこれらのすべてを合わせたとしても、比類ない主イエスのご人格の中に見いだす喜びには比べることができない。主イエスは、地上のぶどう園がかつて産したことのないぶどう酒をもち、エジプトのすべての麦畑が、決して育てることができなかったパンをもたれる。
愛する私たちの主との交わりほどすばらしいものがあろうか。天のマナであられるイエスに比べれば、この地上の喜びは豚のえさにも劣る。私たちは肉的な喜びに満ちた全世界をもつよりは、キリストの愛の一口、その交わりの一すすりを味わいたい。穀物に比べれば、もみがらは何であろう。真のダイヤモンドに比べれば、ガラス玉の輝きは何であろう。輝かしい現実に比べれば、夢は何であろう。イエスが最も侮られた時のことを思えば、一時的な騒ぎの楽しみは何であろうか。
あなたが内的生活についていささかでも知っているならば、このように告白するだろう。最も高く清い永続的な喜びは、神のパラダイスの中央のいのちの木でなくてはならないと。ローマの兵士の槍でえぐられた神の泉ほど、すばらしい水を吹きあげる泉はない。世のすべての幸福は地上的なものである。しかし、キリストのご臨在の慰めは、主ご自身のように天的である。
主との交わりを回顧する時、そこにいささかの空虚をも感じない。ぶどう酒の中にはかすがなく、油の中に死んだはえなどはいない。主の喜びは堅実であり、永続的なものである。自負心の強い者にはわからないであろう。しかし思慮深い者はそれが長年のテストに耐え、現在も、また未来にわたっても「唯一の真なる喜び」と呼ぶに値することをあかしする。
どんなぶどう酒も、その栄養、慰め、楽しみ、さわやかさにおいて、イエスの愛のぶどう酒に比べることのできるものはない。この夕ベ、それを心ゆくばかり飲もうではないか。

 


第1列王記13章20-25節

2015年01月08日 16時43分01秒 | 聖書

13:23 彼はパンを食べ、水を飲んで後、彼が連れ帰った預言者のために、ろばに鞍を置いた。
13:24 その人が出て行くと、獅子が道でその人に会い、その人を殺した。死体は道に投げ出され、ろばはそのそばに立っていた。獅子も死体のそばに立っていた。


 神の人は騙されて、自分が預言者であるという人に従ってしまいました。

その結果、彼に語られた主の戒めに従わなかったこの神の人は、帰りの道でライオンに襲われて殺されてしまいました。

彼は騙されて、そのようなことをしたのです。

しかし、主の戒めを守らなかったということが事実です。

また、その主の戒めの方を第一にしなかったということも事実でした。

その結果、彼はライオンの手にかかって殺されてしまったのです。

 彼は主の働きのために遣わされた人でした。

その働きによって、ヤロブアムの偶像礼拝の姿勢を厳しくとがめる働きをした人でした。

しかし、その人がうかつにも自ら騙されて、神の戒めに背く行為をしてして、滅ぼされたのです。

私たちも、主の前に主の言葉に対しては、しっかりと固執すべきだということを知るのです。


「また立って祈っているとき、

2015年01月08日 16時40分36秒 | 聖書

だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい」(マルコ11:25)

「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになります」
この御言葉を喜んで受け取る人は多い。
しかし、すぐ後に「だれかに対して恨み事があったら赦してやりなさい」と告げている。
誰かに対して赦せない心を、憎しみを持ちながら、幾ら祈っても、答えられないということだ。
祈っても祈っても、答えられない状況があるか。
心の奥底に恨みや憎しみがないか、御霊に探って頂く事が大切だ。
もし恨みがあれば、きっぱり赦すことだ。
祈っていて誰かにひっかかりやわだかまり、重いものを感じるなら、それは主が語っておられる。
「誰かに対して恨み事」をよく探ってみよう。
あの言葉、この態度、もしかして根深い恨みがあるかも知れない。
認めたくないので、触れたくないので、無意識に心の奥底に押し込めて、自分でも気づかずにいるかも知れない。
気づいたなら、主の御前で赦そう。
赦しなさいと言われる主は、そうさせて下さる。
「キリストの御前で赦したのです。
これは、私たちがサタンに欺かれないためです」
赦さない心は、サタンの足場を作ってしまう。
赦す事ができるよう、まず祈る事から始めよう。
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赦せない心は、祈りをシャットアウトする。
祈りが聞かれない。自分がどんなに主の大きな赦しを受けて今があるか、よく考えてみよう。
赦せない心が巣くっていないか御霊に探って頂こう。
祈りのためにも重大だ。


今日の聖人の記念日

2015年01月08日 07時19分45秒 | キリスト教

聖セヴェリノ(ノリクム)

?-482年

 セヴェリノは、ローマで生まれた。あるとき神の導きを感じて、全財産を捨てエジプトの砂漠へ行き独居生活を始めた。その後、まだキリスト教を知らない人々のために宣教したいという望みから、ノリクム(オーストリア)へ行き宣教師となった。ドナウ川の岸に修道院を建て、そこで活動しているうちに貧しい人々が彼のもとに助けを求めて来るようになり、次第にオーストリア地域にキリスト教が広まった。

 またセヴェリノは、相次ぐ異民族の侵入によって荒廃したローマの市民のために、教会再建や福祉事業を行うなど、政治的、宗教的に貢献した。彼の功績は、宗教・民族を越えて評価された。

 彼はノリクム(オーストリア)の使徒と呼ばれ、またワイン製造者の守護の聖人とされている。


◆叫ぶ声が聞こえない時

2015年01月08日 07時18分08秒 | 聖書

恐怖があらしのようにあなたがたを襲うとき、
災難がつむじ風のようにあなたがたを襲うとき、
苦難と苦悩があなたがたの上に下るとき、
そのとき、彼らはわたしを呼ぶが、
わたしは答えない。
わたしを捜し求めるが、
彼らはわたしを見つけることができない。(箴言一27―28)

きのうに続いて悲しいことばです。
第二次世界大戦前後に、「呼べば答えるめんこいぞ」という軍馬の歌がありました。「あなーた なーんだい 空は青空 二人は若い」なんて、流行歌もありました。呼べば答える。それこそ、愛の姿・幸福のしるしです。
神は聖書の中ではっきりと何回も、「わたしを呼び求めよ、そうすればわたしは答える」と約束していらっしゃいます。イエス・キリストも、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ七7)、こうおっしゃいました。これこそ、いま与えられている確かな福音です。
死と滅びの恐怖・災難・苦難がつむじ風のようにあなたを連れ去る時が来ます。それは、永遠の暗黒のかなたで「神さま、助けてください」と叫ぶ声も、もはや神の耳に聞こえない時なのです。この警告を、けっしてむなしくしてはいけません。今、罪を悔い改め、くだかれた魂となって「神さま」と呼び求めなさい。そうしたら、わたしはあなたに耳を傾け、あなたに手をさし伸べるのだと、神はおっしゃっているのではないでしょうか。
神は、心くだけた魂にいと近くいてくださいます。うめき声や小さな叫びにも、耳を傾けてくださる方です。
「わたしは、……心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」(イザヤ五七15)。

 


◆聖なるささげ物に関しての咎……。

2015年01月08日 07時17分09秒 | 聖書

(出エジプト二八・三八)

このみことばによって、どれほど驚くべき事実が暴露されたことだろう。この悲しい現実を見つめるなら、私たちは謙遜にされ、また、教訓を与えられる。
礼拝における罪、偽善、形式主義、不熱心、不敬虔。礼拝の時、私たちの心は迷い、神を忘れている。なんと多くの罪が存在することか。主のためになす私たちの働きのうちに、尊大さ、利己心、不注意、怠慢、不信仰などの驚くべき多くの汚れがある。私たちの個人的な礼拝にあっても、放縦、冷淡、怠慢、不活発、虚栄など、まるで泥が山のように積み重なっているようだ。これらのものをよく観察すると、見かけよりさらに悪いことがわかる。
ペイソン博士は、弟に送った手紙でこう述べている。「私の伝道地は、ちょうど私の心のように、まるで怠け者の庭だ。さらに悪いことは、その両者をきよめようとする私の思いが、高慢か、虚栄か、または怠惰から出ていることである。私はこの庭に繁茂した雑草を見て、それを取り除こうと熱烈に願っている。だが、なぜそう願うのか。動機は何であろうか。庭を散歩しながら、『うちの庭は、なんとまあ手入れが行きとどいているのだろう』とひとり言を言うためかもしれない。これは高慢である。あるいは、隣人が垣根越しにのぞいた時、『お宅の庭は立派ですね』と言ってもらいたいためかもしれない。これは虚栄である。または雑草取りに手がかかるから、根絶やしにしたいと思っているのかもしれない。これは怠惰である。私たちが聖潔を願う時すら、その思いは悪しき動機により汚されがちである。少し眺めていると、美しい緑の芝生の陰に毛虫が隠れていることがすぐにわかる。」
大祭司が聖なるささげ物に関しての罪を担った時、その額には「主への聖なるもの」と書いてあった。このことはなんと喜ぶべきことか。そのように、主イエスは、私たちの罪を担われる時、私たちの汚れを神の御前に提出されず、ご自身の聖潔をささげてくださるのである。ああ、信仰の目をもって、私たちの偉大な大祭司を見る恵みが与えられますように。

 


第1列王記13章11-19節

2015年01月08日 07時15分50秒 | 聖書

13:18 彼はその人に言った。「私もあなたと同じく預言者です。御使いが主の命令を受けて、私に『その人をあなたの家に連れ帰り、パンを食べさせ、水を飲ませよ』と言って命じました。」こうしてその人をだました。
13:19 そこで、その人は彼といっしょに帰り、彼の家でパンを食べ、水を飲んだ。



 神の人がユダからベテルに来て、ヤロブアムにあったということを聞いた一人の人が、この神の人の後を追いました。

そして、神の人に自分の所に来て食事をしてくれと願いました。

神の人は、神様がここで食べたり飲んだりしてはならないというので、招きには応じませんと断りました。

ところが、その人は自分も預言者ですと偽って、神の人に自分の所に来て飲み食いすることを求めました。

神の人は、彼が預言者であると言ったので、その言葉に信じて彼に従い、その食事に預かりました。

 今の時代も、聖書の語っていないことを告げる偽預言者はいます。

そうした人達には、預言者であるからということで、聞き従ってははならないのです。

聖書の教えによく注意して、心を傾けるべきなのです。


第一サムエル記9章24節 (第一サムエル記10章)

2015年01月08日 07時12分27秒 | 聖書

★料理人は、ももとその上の部分とを取り出し、それをサウルの前に置いた。そこでサムエルは言った。「あなたの前に置かれたのは取っておいたものです。私が客を招いたからと民に言って、この時のため、あなたに取っておいたのです。」その日、サムエルはサウルといっしょに食事をした。

■O:今日のコラム
サウルは、王になる前、親を敬う純粋な少年でした。

「雌ろばを捜しに行ってくれ。」父のその一言に、彼は反抗もせず、従順に、いろんな所へと捜しに行きました。それも、簡単に諦めることもせず、いろんな地を巡りました。それも、歩いて。(4節を参照)

また平坦な地だけではなく、山地にも行ったということは、山道も歩いたということです。どのくらい時間がかかったとは、はっきりと書かれていませんが、おそらく1日はかかっているでしょう。

そんな、忠実で純粋だったサウル。
彼は、その日、当時イスラエルを治めていた祭司サムエルと共に食事をし、しまいには、イスラエルの王になる油注ぎを受けるなんて、想像もしていなかったでしょう。

その日は突然やってくるのです。

けど、神様、そしてサムエルにとっては、突然ではありませんでした。神様はちゃんと計画をもって動かれます。

神様は、サウルが王になって、そこから高慢になり、しまいには、王の座から降りることをお見通しでした。それでも、神様はサウルを王として選ばれました。なぜでしょう?

ここでははっきりと書かれていませんが、神様は、この時のサウルの従順さと忠実さを見ておられたと思います。

神様は、未来もすべてご存知のお方ですが、それと同時に、今を見ておられる方なのです。今、どのような態度、行動をとるか。今、どのような選択をするのか。神様は、それを見て評価される方です。

だから、サウルが今まで、親を敬ってきたこと、(それは、主の戒めの中の大切な一つです) それを神様はご覧になり、彼を王に立てたと思います。

それも、恐らく、サウルは、この日だけでなく、日々、親に忠実に仕えていたでしょう。だから、この日も、父の一言ですんなりと従ったと思います。

しかし、神様にとって、この日は特別な日だったのです。神様には、定めの時があります。サウルはそれを予期してもなかったし、知らなかったでしょう。私たちも、そうではないでしょうか?

神様は突然、私たちを引き上げてくださいます。けど、神様にとっては突然ではなく、その時を待っていて、また、特別な最良なものを与えようと準備しておられます。今日の聖句でサムエルが、サウルの為に最良のお肉をこの時の為にとっておいたように。


■A:考えてみよう
神様の計画が見えず、上に引き上げられず、日々、普通の平凡な生活を歩んでいると感じていないでしょうか?神様は、皆さんの今日の歩みをご覧になっております。今日、神様に対して、また隣人に対して、忠実に愛し仕えたかを見ておられます。今日、主の喜ばれることを選択し、行動していきましょう。主は必ず定められた時に、あなたの為に特別にとっておいた最良なものを与えてくださいます!!


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


1月7日(水)のつぶやき

2015年01月08日 01時45分14秒 | キリスト教