座間コミニティー

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ヨシュア記8章10-17節

2013年07月13日 13時12分32秒 | 聖書

8:10 ヨシュアは翌朝早く民を召集し、イスラエルの長老たちといっしょに、民の先頭に立って、アイに上って行った。


戦いがなされる時、総指揮をする人というのは、戦いの先頭に立つ人もいれば、後ろに座って指揮をする人もいます。

陣頭指揮を執るというのは、前の方に立って指揮を執ることでしょう。

それぞれに理由があります。

後ろにいた方が、全体を見渡せるという便利さもあるのです。

 ここでは、ヨシュアは民の指導者である長老達と一緒になって、先頭に立ったと語られています。

その作戦は、主が彼に与えたものであるからです。

それに従ったのです。

 私たちも、そうです。

教会でいろいろな話し合いをします。

その時に、誰がするのかということが議論されます。

提案した人がいてそれが決議されたならば、主が共にいてくださるという信仰に立って、自ら進み出て、戦いに出ることです。

伝道の企画とか、音楽会の企画とか、教会にはいろいろあります。

その時、主が導きを与えてくださったのであれば、提案者が積極的に働くということは、このヨシュアの姿勢から伺えるのです。


◆えこひいきするな

2013年07月13日 13時03分55秒 | 聖書

悪者をえこひいきすることはよくない。
正しい者をさばきのときに否むこともよくない。(箴言一八5)

裁判の時、富・権力・友人閑係などがあるからといって、悪い者を悪くないようにさばいたり、反対に、地位の低い底辺に生活する人を正しいのにないがしろにするような裁判をしてはいけないと、ここに語られています。しかし、裁判ばかりではなく、私たちの人間関係や判断などのあらゆることにおいて、えこひいきは罪だと、聖書は言います。
この世に差異があることは厳然たる事実です。
・ 経済的に富んだ人があり、貧しい人がある。
・ 社会的に高いクラスの人があり、低いクラスの人がある。
・ 政治的に治める人があり、治められる人がある。
世の中は、「かごに乗る人担ぐ人、そのまたわらじをつくる人」がいるのです。でも違いがあっても、「えこひいき」や「差別」をすることは罪です。なぜでしょうか。
第一に、差別をつける人は、神と金とに兼ね仕える二心の人だからです。神は、一人残らず差別なしに愛しておられます。神が愛している者を軽蔑することは、神のわざを妨害することです(ヤコブ二1―4参照)。第二に、差別することは、悪い考えで人をさばくのだと聖書は言います。心の動機が罪深いのです(二4参照)。
神のきよいみこころと神の限りない愛に照らして、自分自身の実情を考える時、だれがひがんだり、えこひいきをしてよいでしょうか。
ヤコブは、「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という最高の律法を守るなら、あなたがたの行ないはりっぱです」(ヤコブ二8)と言いました。すべての人に対してほんとうの隣人になり、そして愛すること、これこそえこひいきへの積極的反対なのです。

 


◆神はヨナに仰せられた。

2013年07月13日 13時01分10秒 | 聖書

「……あなたは当然のことのように怒るのか。」(ヨナ四・九)

怒りは必ずしも常に罪ではない。しかし、怒りはともすれば狂暴に流れる傾向があるので、私たちが怒りを発する時は、すぐに「今怒るのはよいことだろうか」と自問してみなければならない。
時には私たちは「そうだ」と答える。怒りは多くの場合に感情の爆弾であるが、時にはエリヤが天から呼び下した火であることがある。罪は私たちの至善なる恵み深い神にはふさわしくないので、私たちが罪に怒りを発するなら、その怒りは正しい。あるいは私たちが神の多くの導きにもかかわらず、依然として愚かであるゆえに自分に対して怒り、また他の人々が悪をなしているという、そのただ一つの事実に対して怒るのは正当である。罪過に対して怒らない者はその共犯者となる。罪は忌まわしく憎むべきものであり、新生の心をもつ者はそれに耐えられない。神ご自身も、悪をなす者には日ごとに怒りを発せられる。聖書には「主を愛する者たちよ。悪を憎め」と記されている。
ところが、私たちの怒りは、正しくないほうがはるかに多い。なぜ私たちは子どもたちに対していらいらし、人に腹を立て、同僚を怒るのだろう。そうした怒りは、クリスチャンの誉れを高め、神の栄光を現すものであろうか。それは生来の悪の心が私たちを支配しようとするものであるから、私たちは自らの新生の一切の力を傾けて、それに抵抗すべきではないか。
クリスチャンはすべての点で勝利者となるべきであり、そうでなければ、栄冠は得られないことを記憶しておくべきである。もし私たちが激情を制することができないならば、私たちに対する恵みの働きはどこにあるのか。ある人が「恵みはしばしば渋柿の幹につがれた」とジェイ氏に話したところ、ジェイ氏は「そう。でもその実は渋柿ではないだろう」と答えたという。
私たちは生来の弱さを罪を犯す口実としてはならない。否、十字架のもとに走って行き、生まれながらの悪い性質が十字架につけられて新たにされ、主の御姿に似た柔和な者とされるように祈らなければならない。