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ヨシュア記6章22-26節

2013年07月03日 12時45分41秒 | 聖書

6:23 斥候になったその若者たちは、行って、ラハブとその父、母、兄弟、そのほか彼女に属するすべての者を連れ出し、また、彼女の親族をみな連れ出して、イスラエルの宿営の外にとどめておいた。


ヨシュアがエリコの町を探るために二人の斥候を送ったところ、その事実が感知されて、二人の者は命を危うくするところでした。

ところが、遊女のラハブという人が、彼らを匿って守ってくれました。

そしてラハブは、あなたがたがこの町を攻略する時には、自分たちを守ってくれるようにと願いました。

 ヨシュアは、そのことを聞いていました。

そこで、この町に侵入した時に、ラハブとその家族や関係者達を連れ出して、守りました。

その結果、ハラブの家族は皆、イスラエルの民の内に住む者となりました。

このラハブは、後のイエス様の先祖となりました。

このことは私たちに、彼女が主を恐れて、主に従う信仰に生きたからであるという事実を知らせます。

 私たちにとっても大事なことは、主を恐れて、主に従って生きることだと知るのです。



◆愛を追い求める者

2013年07月03日 12時32分26秒 | 聖書

そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者。
同じことをくり返して言う者は、
親しい友を離れさせる。       (箴言一七9)

私が米国の神学校で学んでいた時に聞いた、ある教授の告白を忘れることができません。その教授は七十歳に近い白髪の方でした。彼がまだ若い駆け出しの大学教師のころ、その大学に、一人の年とった牧師が来て全学の学生の前で話しました。愛に満ちた真実みのある彼の話に、学生たちは大きな感銘を受けました。でも、教養のないこの老牧師は、ところどころで、学問的に間違ったことを言ったのです。若い大学教師は、学生の前でこの老牧師の無教養をあばいて、老牧師を笑いものにしました。ところが家に帰ってから、良心のとがめを感じました。自分の心が何とみにくいごうまんなものかが分かったのです。彼は大決心をして、心からのおわびの手紙をこの老牧師に書きました。すると、しばらくして、返事が来ました。今も、それを宝物のように持っているとのことでした。
 Dear Charles,
 Forgiven forgotten forever.
  Your loving friend, James.
と、たった三行でした。しかしそこには、ほんとうの愛がありました。ほんとうの愛は、背きの罪をおおいます。それは、ゆるす愛ともいえます。素直に忘れて何も言わない愛なのです。
イエスの目には、私たちの偽りやけがれや背きなどの罪は、もう一目瞭然でしょう。しかしイエス・キリストは、何一つ責めず恥をかかせず、その十字架の血潮で、だまって私たちの罪を全部おおってくださいました。その愛によって私も生かされました。あなたも生かされるのです。
自分のことは棚にあげながら、人の欠点や失敗や罪をくどくどと何回も言う人は、愛がありません。そのため、妻や子どもや兄弟姉妹を含めて、親しい友人を失うことになります。

 


◆パロは夢を見た。……

2013年07月03日 12時30分02秒 | 聖書

醜いやせ細った雌牛が、つやつやした、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くした。(創世四一・一、四)

パロの夢は、私が目覚めている時にしばしば経験したことであった。私の怠慢の日々は、私が熱情を傾けて努力し達成したすべてのものを無残に破壊し、冷淡の時は、私のすべての熱心を凍らせ、時々の俗悪な思いは、聖い生活に進んでいた私を押し戻してしまった。私はやせた祈り、やせた賛美、やせた働き、やせた行いを警戒しなければならない。なぜならこれらのものは、私の慰めと平安の脂肪を食い尽くすからである。
たとえ片時たりとも祈りを怠るならば、私はこれまでに達成した霊性の一切を失う。もし天より新しい賜物を求めないならば、私の倉にある古い穀物は、私のたましいの怒り狂う飢きんによって、たちまち失われる。無関心のいも虫と世俗のしゃくとり虫と放縦の毛虫が、私の心をくまなく食い荒らして私のたましいを衰えさせる時、どれほど恵みに成長し多くの実を結んでいても無益である。やせた日と不快な時をもつことのないようにしなければならない。もし望むゴールを目ざして日々旅を続けるならば、私はすぐにそこへ着く。しかし後退するならば、私の尊い召しの報酬からはさらに遠ざかることになり、これまで苦心を重ねて成し遂げた進歩もたちまち奪い去られてしまう。
私たちの日々を肥えた雌牛とする唯一の道は、主の牧場で草を食み、日々を主とともに、奉仕に、交わりに、主を恐れつつ主の道に過ごすことである。どうして私たちの一年一年が、愛において、役立つことにおいて、喜びにおいて、過ぎた年にまさるものとならないでよいだろうか。私は天国の丘に近づきつつあり、主をより多く経験している。そして私はさらに、これまで以上に主に似た者とならなければならない。
主よ。私を守って、たましいのやせ衰えた者としないでください。私が「忌まわしいものだ。私はやせた。私はやせた」と叫ぶことのないようにしてください。否、私があなたの家にあって肥え太り、あなたの御名をほめまつることができるようにしてください。