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◆神はヨナに仰せられた。

2013年07月13日 13時01分10秒 | 聖書

「……あなたは当然のことのように怒るのか。」(ヨナ四・九)

怒りは必ずしも常に罪ではない。しかし、怒りはともすれば狂暴に流れる傾向があるので、私たちが怒りを発する時は、すぐに「今怒るのはよいことだろうか」と自問してみなければならない。
時には私たちは「そうだ」と答える。怒りは多くの場合に感情の爆弾であるが、時にはエリヤが天から呼び下した火であることがある。罪は私たちの至善なる恵み深い神にはふさわしくないので、私たちが罪に怒りを発するなら、その怒りは正しい。あるいは私たちが神の多くの導きにもかかわらず、依然として愚かであるゆえに自分に対して怒り、また他の人々が悪をなしているという、そのただ一つの事実に対して怒るのは正当である。罪過に対して怒らない者はその共犯者となる。罪は忌まわしく憎むべきものであり、新生の心をもつ者はそれに耐えられない。神ご自身も、悪をなす者には日ごとに怒りを発せられる。聖書には「主を愛する者たちよ。悪を憎め」と記されている。
ところが、私たちの怒りは、正しくないほうがはるかに多い。なぜ私たちは子どもたちに対していらいらし、人に腹を立て、同僚を怒るのだろう。そうした怒りは、クリスチャンの誉れを高め、神の栄光を現すものであろうか。それは生来の悪の心が私たちを支配しようとするものであるから、私たちは自らの新生の一切の力を傾けて、それに抵抗すべきではないか。
クリスチャンはすべての点で勝利者となるべきであり、そうでなければ、栄冠は得られないことを記憶しておくべきである。もし私たちが激情を制することができないならば、私たちに対する恵みの働きはどこにあるのか。ある人が「恵みはしばしば渋柿の幹につがれた」とジェイ氏に話したところ、ジェイ氏は「そう。でもその実は渋柿ではないだろう」と答えたという。
私たちは生来の弱さを罪を犯す口実としてはならない。否、十字架のもとに走って行き、生まれながらの悪い性質が十字架につけられて新たにされ、主の御姿に似た柔和な者とされるように祈らなければならない。

 


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