マディと愛犬ユーリ、親友のクリスティ、それにハワイのこと

ハワイに住んでいたころ、マディという女の子が近所に住んでいて、犬のユーリを連れて遊びに来ていた。

" The aged " ( 高齢の人たち )

2012-02-09 06:27:48 | 日記

                      (4)

 「あの歳で上手に運転するのよ」とブライアンの奥さんは言った。ジーナのことである。
 90歳だとは思ってもみなかった。
 ブライアンが入院していた時、ジーナが、「私にできることがあったら、役に立ちたいので遠慮なく言ってね」と言ってくれたようで、近くに住んでいることもあって、何度か病院まで、奥さんは車で送ってもらったということである。
 70代の後半ぐらいかなと想像していたが、それにしては、元気で、腰が曲がっているようにも見えない。
 歩くときも、大股で、いかにも若々しいのである。
 
 ジーナのことをあまり知らなかった。
 パーティでお話をする時は、みんなでがやがや喋るので、あまり個人的なことを話すわけではない。
 みんなが酔っ払ってしまって、トシを車で送る人がいなくなってしまって、「タクシーを呼んであげる!」とか言っていた時、ジーナが、「私が送るよ!」と言った。
 トシとしては、送ってもらわなくても、歩いて帰りたい気持ちだったが、「遠慮しなくてもいいよ!」とみんなが言うので、お言葉に甘えることにした。
 二人きりになって、ジーナは、自分のことを語り始めた。
 東京で生まれたこと、カリフォーニアやニューヨーク時代、離婚したこと、一人娘がハワイにいること、仕事を引退してから思い切ってニューヨークからハワイに越してきたことなどを止めどもなく語ってくれた。
 車が、ワイキキに着いてからも、車を止めて、話の続きを語ってくれたが、そんなに引き留めるわけも行かないので、「さよなら」を言って別れた。

 一年ほど前になるが、ホノルル空港から日本に帰る時、搭乗の手続きも終わって待合室にいた。
 アナウンスがあって、機体整備が遅れていて、一時間ほど離陸が遅れると言われた。
 準備が整い次第お知らせしますとのことだったので、皆さん待合室を出て、どこかに散らばっていった。
 再度アナウンスがあり、さらに数時間遅れそうだと言われたのである。そして乗客には、食事券や電話のカードが渡された。
 どこかでコーヒーでも飲むかなと思いながら、それでも、空港内を時間をやり過ごすために歩いていたのである。
 そんな時、ワシントンから飛んできた飛行機の到着ロビーが、ちょっと物々しいというか、テレビカメラを担いだ人たちがいて、何となく異様な雰囲気だったのである。
 以前、日本からやってくる大学の先生を迎えに空港に来た事がある。
 空港の出口で待っていると、JALが着いて、最初に降りてきたお客だからファーストクラスだろうと思う。
 俳優の西田敏行さんが出てきた。
 トシの、ほんの一メートルくらいのところで、迎えの人を探しているのか、きょろきょろしていた。
 そのことを思い出して、ひょっとして、アメリカの俳優さんか、VIP(ヴィ・アイ・ピー)が出てくるのかなあと期待して見ていた。
 ところが出て来た人は、ダニエル・イノウエさんのようだったのである。
 失礼ながら、この方は随分高齢で、もう亡くなっていて、過去の人だと思っていたのである。
 ワイキキのホテルのボールルームで、かってパーティがあった。
 その時彼が出席していて、彼の顔を見たことがあり見覚えがあった。
 ゲートを出てきたこの人が、果たして本当にダニエル・イノウエさんなのか信じられない気持で、咄嗟に、空港から友人の職場に電話をしてしまった。
 「今近くに、ダニエル・イノウエさんがいるのだけど、?」「彼は、まだ生きていたの?」と、何とも失礼な聞き方をしてしまった。
 「もちろん、彼は、現役の上院議員だよ!」という返事だった。
 
 ダニエル・イノウエは、両親が、借金で四苦八苦していた時、ハワイに移住したようだ。
 福岡県広川町の出身である。ダニエルが、ハワイ大学で医者になるべく学んでいた時、真珠湾の攻撃があった。
 日系人たちは、敵国人とみなされ、彼らの苦難の歴史が始まったのである。
 彼は、アメリカに忠誠を誓うべく、442部隊に参加してイタリア戦線で戦う。
 この部隊は、第2次大戦史の中で、もっとも勇猛果敢な部隊と言われ、" Go for Broke! " (当たって砕けろ!)を高らかに叫んで、多くの戦勲を残したが、同時におびただしい戦死者を出してしまった。
 彼は、この部隊の士官であったが、右腕をふっ飛ばされるほどの重傷を負ったのである。

 戦後、彼は、ハワイ大学に戻り、右腕がないため、今度は、政治学を志した。
 1924年の生まれというから、今は、87歳になる。
 いまだ、高齢にかかわらず活躍できるなど、羨ましいというか、何と表現していいのかわからないほどだ。


" Descended from a Japanese " ( 日本人の子孫 )

2012-02-05 04:56:22 | 日記

                    (3)

 ミネソタの女高生たちと話をしていた時、誰かが、
 「木曜日の午後、ボランティアで老人ホームに行くけど、あなたも行くの?」とか話し合っているのを耳にし、興味が沸き、つい、
 「一緒に行っていいかなあ?」などと言ってしまった。
 「もちろんいいですよ!」ということだったので、図らずも同道することにしたのである。
 彼女たちは、一週間に一度、お年寄りたちのところに行って面倒を見たり、一緒に遊んであげたりしているとのことだった。
 
 当日、老人ホームに行く途中、花屋さんに寄って、女生徒たちは、自分の小遣いで花を買った。
 家でクッキーを焼いて持ってきた人もいた。
 ある生徒は、トシが教えてやった折り紙の鶴など持って来ていた。
 それぞれの生徒には、受け持ちのお年寄りがいるようで、真っ先にその人たちの部屋に行き、手を取り合ったり、抱き合ったりしながら再会を喜んでいた。
 部屋の掃除や片づけごとから、テーブルクロスを取り換えたり、花瓶の花を生け変えたり、洗濯などを手伝っていた。
 平生は、老人たちだけで、おそらく淋しげで湿っぽい雰囲気なのだろうが、彼女たちが訪れて、急に大きな声がこだまし、明るい雰囲気に包まれるような感じだった。
 お年寄りと手をつなぎ、散歩を楽しんでいる人もいた。
 お年寄りたちは、急に華やいだ感じで、皆さんうれしそうな表情をしていたのが印象的だった。
 
 高校生たちは、その後ホールに集まり、お年寄りたちと遊戯をしたり、ゲームを楽しんでいた。
 それから一緒にクッキーを食べたり、コーヒーを飲みながら、おしゃべりを楽しんでいた。
 老人たちは、彼女たちがやってくるのを心から待ち望んでいる様子が、ひしひしと伝わってきたのである。
 その時、初めて、「老人ホーム」つまり、elderly home や nursing home という言葉を知った。
 
 高校に、ボランティア活動のグループが、いくつかあるようで、女子生徒と同様男子生徒たちも、積極的にこのような活動をしているとのことだった。
 若い時から、社会に奉仕する意義を知り、心構えを養う、そんな気風があることなど羨ましい気がしたのである。
 自分たちの幸せの一部を、他の恵まれない人たちに分け与え、共有出来るなど素晴らしいことだと思った。

 最近、ウイスコンシン州マディソンの老人ホームで撮影した動画を見た。
 93歳の女性の誕生日を祝う場面が映っていた。
 彼女は、家族に囲まれ、ケーキを前に上機嫌だった。みんなで歌う「ハッピーバースデイ」の歌がこだましていた。
 手拍子を取りながら、歌っている輪の中に、3人馴染みの顔があった。
 このおばあさんの孫にあたる3人姉妹である。
 彼女たちには、アメリカで何度も会ったし、日本でも会ったことがある。
 
 このおばあさんは、実は日本人だった。
 鹿児島で生まれて、アメリカに移民として渡った。
 第2次世界大戦のとき、日系人であるという理由だけで「強制収容所」 (Concentration Camp)に入った。
 殆どの日系人は、アリゾナやニューメキシコの強制収容所に入れられたが、彼女の場合、遠く中西部のアイオワ州にある収容所に連れて行かれたのである。
 戦後になって解放されたが、以前住んでいたカリフォーニアには帰らず、アイオワ州に近いウイスコンシンに住み、アメリカ人と結婚したのである。

 3人姉妹が日本にやって着て、我が家でホームステイした。
 我が家に滞在して、日本を見て回りたいという希望はあったのだが、もう一つ大きな目的があった。
 もはや、動くことに不自由しているおばあさんの、かねてからの希望である、自分の故郷鹿児島にある墓を訪ねて行って、お参りをしてほしいということだった。
 おばあさんの長年の希望をかなえるべく彼女たちはやってきた。
 この3人は、鹿児島まではJRの汽車で、そこから地図を頼りに大隅半島の端までバスで行った。
 日本語が話せない彼女たちだが、なんとか目的を果たして、おばあさんに報告できると意気揚々と帰ってきた。
 親戚の人たちにも会えたようで、そのことをうれしそうに話してくれた。

 この3人は、「クオーター」と言うことになるのか、つまり4分の1、日本人の血が混じっていることになるが、どこから見ても、日本人の面影を探しても見つからない。完全な白人の風貌である。
 もちろん日本語をしゃべる機会もないだろうし、「こんにちわ!」ぐらいしかしゃべれない。

 


" Check the number and try your call again " (番号を確かめ、もう一度おかけ直しください)

2012-02-01 10:11:19 | 日記

                   (2)

 ハワイのヒルトンホテルの中庭で、日本人の団体がパーティをしていた。
 福引大会をしているようで、当たった人は賞品をもらって、大仰なジェスチャーで喜んでいた。
 外れた人は、バツとして面白おかしい格好をさせられたり、ひとり芝居をさせられたりしていた.
 いつの間にか、ホテルのお客が取り囲むように見ていて、トシも観客に交じって眺めていたが、後ろにいたアメリカ人同士の会話が耳に入ってきた。
 「あれは日本人のホモの団体ツアーだよ!」と言っているのが聞こえたのである。
 そう言われて、よく見てみると男ばかりである。
 もちろんホモの団体ではなかった。
 バブルの頃のこと、日本にはお金があり余った人たちがいて、ハワイで不動産を買い漁っていたころである。
 このホモと言われた団体は、30人くらいで、おそらく中小企業で、社員を引き連れてハワイ旅行にやってきたのだろう。
 アメリカ人から見ると、男ばかりで旅行をするなど、いかにも不思議な現象だったろう。
 もしこれが、アメリカの場合だと、家族を連れてくるのが普通で、半分くらいは女性になるだろうか。
 
 日本と違って、アメリカでは、パーティなどで出会いが多く、若い人も歳をとった人も、同じように知り合いになれる。
 わが国では、若い人たちは、自分たちだけ仕事帰りに飲みに行ったり、女子は、女子だけで楽しんだり、主婦は、グループを作って、ランチに出かけたり、日帰り旅行をしたり、仕事をしている人たちは、職場で宴会をしたり、慰安旅行したりするが、
家族に関係なく、職場の人たちだけで旅行に出かける。
 それぞれが枠の中でだけでお付き合いをする場合が多いので、なかなか自分の枠を超えて、他の人たちと交わることが少ないように思う。

 アメリカでパーティに行っていると、若い人も、歳をとった人も、女性も、男性もやってくるので、特に望んだわけではなくとも、周りに意外と年配者が多いのに気付く。
 ブライアンのおばあさんは、百歳近くまで生きたということだ。
 そのおばあさんにトシが会ったことはない。
 ブライアンの奥さんから、彼のおばあさんの話をよく聞いていた。
 ブライアンの奥さんは、結婚する前に、よくブライアン家に行っていたようで、家族の誰より、おばあさんと話した機会が多くて、思い出しても、そのことが最も印象的だったようである。
 彼らは結婚した後も、ロスアンジェルスに住んでいたが、サンディエゴの大学に就職して、さらにオレゴン、そしてハワイと移り住んだ。
 トシが彼らに出会ったのは、ハワイだった。
 ブライアンが、ロスアンジェルスのおばあさんに、何度か電話をしているのを聞いたことがある。
 " How old is she? "(おばあさん、いくつなの?)
  " Over eighty "(80過ぎだよ)
 と言っていたのを思い出す。

 石原裕次郎さんの家があったカハラの高級住宅地に、時々マージャンをするために行っていた家がある。この家も豪邸で、庭にはプールがあった。
 マージャンのグループは、小児科の女医さん、大学の先生、ストアオーナーなどだったが、マージャンを始める前に、どこかのレストランで、まず食事をした。そのとき必ずこの家のおばあさんが一緒に来ていた。その方は、最初に会った時が、もう90歳だということだった。
 この女性とよく話をしたのは、一つにトシとはお互い日本語で話ができたからだった。
 彼女は、神戸の生まれで、お嬢さん学校を出て、適齢期になって、江戸時代から続く日本橋の医者の家に嫁いだ。
 ご主人が、医学研究のためアメリカに留学したのに追いてやってきた。
 レストランで食事をする時、マージャンをする時、皆さん英語で話をするが、トシとこの方だけは、日本語で話をしていた。
 このおばあさんは、実にきれいな日本語を話した。合わせるように、こちらも、できるだけ上品にと思い、言葉を選びながら、努力したのである。
 二人が、日本語で話すことをみんなが知っていて、いつも隣り合わせに席順を作ってくれた。
 最後に会ったのは、この女性が93歳の時だった。
 はじめのころは、杖をついて自分で歩いていたが、いたって元気な様子だった。
 最後に会ったときは、車いすに乗っていて、お孫さんが、いつも押していた。
 このたびハワイに行って、カハラの書店に立ち寄ったとき、手帳を見ながら思い切って電話をしてみた。
 「おばあさん、元気かなあ!」といつも思っていたからである。

 " We are sorry that you have reached a number that has been disconnected.  Please check the number and try your call again " 
 (残念ですが、あなたがかけた番号は使われていません。番号を確かめ、もう一度おかけ直しください)
 というメッセージが返ってきた。
 知人に聞いてみると、本土に住む長男のところに行ってしまったようなのである。