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アメリカの姉妹都市から、管理職夫妻がわが市に招待されてやって来た。
各地の市長を表敬訪問したり、公式のスケジュールをいっぱい抱えて忙しそうだった。
大分では、県知事に会ったり、「一村一品運動」の実態を見学したりした。
各地で歓待されたようで、毎日が、飲めや食えで追いまくられたようである。 古民家に案内された時は、彼らのために目の前で、神楽を舞ってくれたりもした。
連日のハードスケジュールで、くたくたのようだった。特に奥さんは、
「死にそうだった!」と言っていた。
我が家に着いた時は、完全にばて気味のようだった。
コーヒーを飲みながら、歓談などしていたら、安心したのか、いく分寛いだふうに見えてきた。
風呂に入り、衣服を着かえ、夕食を済ませる頃には、すっかり落ち着いたようだった。
早目に、
「オヤスミ!」を言って、彼らは、自分の部屋に引っ込んでいった。 その後は、朝まで、ぐっすり眠り込んでしまった。
次の日の朝、食事の時間になっても、下りて来ない。
後で聞くと、何はともあれ、ベッドにへばりついたまま、時間の経過を、全く気付かないまま眠りこけていたようである。
「この家に来て、ほっとして、安心したのかも知れません!」と言った。
ようやく起きてきて、遅い朝食を済ませて、コーヒーを飲んで、気が緩んだのか、和やかな会話を楽しむ気持ちになったようだ。
朝食に出た、「味噌汁」をすすりながら、奥さんが、
「美味しいですね!」と言った。
「何か、気分が和むスープですわ!」
京都に住む、ハーブ研究家のイギリス人、ネニシアさんも、初めて、日本に来て味噌汁を飲んだ時の思い出は、
「忘れられない!」と言っていた。
夫妻の夫の方は、アイルランド系アメリカ人で、市長の補佐をしている。
高学歴の故か、出世は早いようで、おそらくまだ30代だろう。
奥さんは、日系の3世だということだった。
彼女が、日系だということで、市長は、彼らを日本に派遣する気になったのかも知れないと思ってしまった。
彼女自身は、日本語を全く理解できないようだった。でも、
「両親は、少し、日本語を理解できます」とのことである。
奥さんの方も、キャリアで、将来を嘱望されていた。
彼女は、仕事とは別に、夜、ピュージェットサンド大学の法学部に通っていた。
将来は、弁護士として、独立するようである。
十分睡眠をとったためか、元気を取り戻して、彼らは、一転饒舌になってきた。
庭で、花の手入れをしている我々の横に立って、始終何かを話していたのである。
リビングに帰っても、話は続いた。
政治の話というよりも、故郷のこと、趣味のことなどが話題になった。
近所の猫がやってくると、それを抱きかかえて、抱いていることも気付かないふうで、話だけは続いていたのである。
ロングフェローやテニソンの詩の話もした。
別に、畏まった話ではなかった。少年時代の、そんな詩人にまつわる自分の体験談と言ったらいいだろうか。
黒沢明や小津安ニ郎の映画を、アメリカで初めて見た時の感動を話してくれた。
黒沢をシェイクスピアのリチャード3世と対比しながら、映画の構成などを話した。
小津は、日本人の私生活を、いかにも細やかに描き出した様は、秀逸で、到底アメリカには、このような監督はいない、と力説していた。
その方達は、yamadaさんのお宅に泊まられたのですか?
京都のハーブ研究家とは、ベニシア スタンリースミスさんの事ですか?
私は、彼女の暮らしぶりのファンなんです。
夫婦ともに、とても、いい方で、仕事のこと、趣味のことなどで、話が弾みました。
京都郊外に住んでいて、自然と仲良く生活しているべニシア・スミスさんのことです。
彼女の生活ぶりは、どことなく、ターシャ・チューダーさんを思い起こさせます。
ターシャ・チューダーさんを彷彿させます。
自然と仲良く暮らす生活に憧れを抱きます。
そこに6年もかけて、Do-It-Yourselfで、自分で家を建てました。
小学生の男の子は、交通機関がないものだから、馬に乗って通学していました。
授業中は、運動場の外れに、校長先生から許可をもらって、馬を木にくくりつけていました。