続「とのむら通信」ブログ版

前島本町議会議員・外村敏一(平成29年4月29日付けで引退)
日々の思いや議会傍聴の感想など引き続きお伝えします。

努力の人 料理家 三國清三シェフ

2015年01月11日 | 日々の思い


フリーペーパー雑誌「5L」ファイブエルの12-1月号の表紙を飾る木村政雄編集長のスペシャルインタヴューは
努力の料理家 三國清三(みくにきよみ)氏です。北海道増毛出身の三國氏は1954年生まれですから私より5歳下のほぼ同年代です。
三國さんのことは今回の記事で初めて知ったのですが、数々の修行を経て現在はレストラン「オテル・ドウ・ミクニ」
のオーナーシェフとして又子どもたちに食や味覚を通して子どもの感性を育てる活動など幅広い活躍をされている。

極貧で7人兄弟の家で育った三國氏は中学を出て札幌の米屋で住み込みながら料理人を目指し、北海道随一の由緒ある
ホテル「札幌グランドホテル」に入って美味しいハンバーグを作る人になろうと決意されたそうです。
札幌の夜間の調理師学校で学んだ末、当時中卒では就職出来ない札幌グランドホテルに見事採用される幸運に恵まれます。
採用されるきっかけは彼の機転がもたらしたものです。調理師学校の卒業記念に開かれた札幌グランドホテルでのテーブル
マナー教室に参加した際の終了間際に厨房の責任者に対し「どぶ掃除でも何んでもするからここで使ってほしい」と嘆願
してチャンスを得た。それからというもの彼は皿洗いや鍋磨きを担当し、その陰の努力が認められ半年後には特例で正社員に
採用されたそうです。

その後帝国ホテルに移り、当時の村上信夫料理長に見いだされ1974年、弱冠20歳で駐スイス日本大使館の料理長に就任。
その後もいくつかの三ツ星レストランで修業を重ね、1983年帰国。1985年東京四谷に自分のレストラン「オテル・ドウ・ミクニ」
を開店された。そうである。

このインタヴュー記事の中で最も感銘を受けたのは彼が15歳で札幌に働きに出る際に母親が息子に掛けた言葉である。
母親は「お金がなくても学歴が無くても志は皆平等だ」という畑仕事で一日中泥まみれの母親が言った精一杯の
「はなむけ」だったのだろうという氏の回想の部分です。
それから三國少年は「平等な志」を存分に発揮し、人が嫌がる「鍋磨き」に夢中になり一流ホテルの洗い場を突破口
にして世界へと飛び出した。と締めくくっています。

私より5歳年下の年代で高校にも行けない北海道の極貧の家庭に生まれた少年のサクセスストーリーと言ってしまうには
惜しい話である。豊かさの中に埋没して自分で生きる力や自分を見失う若者が大勢いる昨今、彼の生き様を鑑としたい。

「負けるもんか」幼い頃から北海道の厳しい境遇にいたので何が何でも壁を乗り越えてやるという「突破力」は並外れ
ているかも知れない。と述懐されてもいる。新年早々良い話だとは思いませんか?

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