『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【2945】人生とは「消えてゆく姿」(経験)を行じること

2011-03-31 21:24:53 | 思索
人生を、自営の商売にたとえますと、(^^;ゞ

「売れた」とか「売れていない」というのは、その時々での判断(思い)であり、「消えてゆく姿」なのです。

人生全体(商売全体)の一部なのです。 一時的な「思い」なのです。

その「思い」は変化して消えてゆくのです。

「移ろうもの」です。

「心(思い)=事象」に一喜一憂する必要はないのです。

人生とは、「消えてゆく姿」(経験)をただ行じることです。

そのことに気付くと、「不安(=把らわれ)」が消えます。

起こることは起こるし、

起こらないことは起こらないのですから、安心していれば良いのです。

■『災難に遭う時には、災難に遭うのがよろしく候』なのです。

■『大空をいつも見ていなさい。そうすれば心がひろく、明るくなる』なのです。

【2944】他人とは、悟るべき器の人が「消えてゆく姿」を現わしている姿(の神人)

2011-03-31 04:58:09 | 思索
■先日も、慈悲心のことを書きましたが、正直に言って、
私には、「わかっている人」と「わかっていない人」を峻別し差別する気持ちがあると気付きました。

他人とは、悟るべき人間が「消えてゆく姿」を現わしている姿なのです。

他人は「消えてゆく姿」をしている尊い姿の人なのですから、
その人の身に現れている「消えてゆく姿」で、その人を判断して、たとえば蔑んではいけないのです。

他人に関しては何も判断しないで、

自分の心を静かにして、

「自分の心を見つめる」と良いのだと思うのです。

この世に存在するのは、「自分の心」だけなのです。

そういう意味で、「我即神也」なのです。

【2943】この人生で、何を理解し何をすべきか?

2011-03-31 04:35:27 | 思索
「いまの自分」に災害は振りかかっていませんが、

いつかは災難や病気に遭う身であり、家族を亡くし自らも死ぬ肉体の「自分」なのです。

「自分に起こる不幸(不都合)とは何か」を理解した上で、
「人間」とは何か、「人生」とは何かを理解しなければならないと思うのです。

唯識とは、「人間と宇宙(外界)はそういう構造になっている」という事実の説明です。

「白光の教え」はもっと深くて、その構造を理解した上で、「世界平和の祈り」や印で、
他者の潜在意識(本心・守護霊)に働きかけて、他者の業を浄めるということをするのですが、

私には、まだちょっと理解できていません。(^^;ゞ

【2942】神人(我即神也)とは、唯識を理解する人

2011-03-31 04:34:03 | 思索
■神人(我即神也)であることは、想念ではないのです。心の事実です。

神人(我即神也)とは、唯識を理解する人のことです。

「目覚める」とは、唯識に目覚めることです。

その方法が瞑想です。


■海外でも印を組む方は沢山おられますが、
「白光の教え」よりも先に印という方法がもてはやされて、
その後に「教え」の説明を求められるのだそうです。


■過去世の因縁で、被害に遭ったのではないのです。

「過去の想念」が、消えるために現れたのです。

「過去世」というのは客観的な事実ではなくて、「今の自分の思い」です。


ただただ「思い」だけがあるのです。

「今の思い」だけがあるのです。

「今の思い」が、現実を見て感じているのです。

「感じる中味」は人それぞれで、各々の意識によって異なるのです。

表面的な事象を見るか、因果の本質を見るのかによって、
「現実」の捉え方が異なるのです。

■「自分の思い」が時間や経過を感じているのです。

「自分の思い」は、今にここにしか存在しないのです。

今この瞬間の「自分の思い」が全宇宙なのです。

「思い」が止まれば、宇宙は沈黙します。

■先日の集会でイトウ君が語っていたのも、こんな唯識のことだったと思います。(*^_^*)

唯識を理解している神人と、そうでない神人がいると思うのです。

そして前者であっても「頭で理解している方」と「実践しておられる方」がおられると思います。

「世界平和の祈り」や「呼吸法の印」を深く続けていて無分別であれば、実践できていると思うのです。

(この辺りの考えはまだあまり深まっていないので、今後異なる解釈になるかも知れません。(^^;ゞ)