『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【2175】覚悟は必要か(^。^?

2009-07-26 08:00:31 | 思索
いままで何回かは、このプログで「覚悟」について書いたと思うのです。 (^^;ゞ
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★【自分(私たち)は、「心に映った世界」を、「在る」と思って生活し生きています。

それはすでに「実践されていること」です。

「すでに実践できていること」をするのに、「覚悟」がいるのでしょうか(^。^?


★「すでに実践できていること」によく似ている形態が、「消えてゆく姿」です。

自分(私たち)は、意識するしないに関わらず、「消えてゆく姿」をやって、生活し生きています。

日々の「消えてゆく姿」をやることに覚悟は要りませんが、

「大きな不幸」と思えるような「消えてゆく姿」に遭遇したときは、「覚悟」を決めることが必要かも知れません。 (^^;ゞ


★この場合の「覚悟」を考えると、「把らわれない」という覚悟を持つことが、

「消えてゆく姿」に立ち向かうための、もっとも有効な方法です。


★「消えてゆく姿」と「刹那・永遠・唯識」は、どちらも事実を語ったことなので、
同様に考えることが出来ると思うのです。(^^;

 「事実」を「事実」と受け入れることが、「覚悟」だと思うのです。

【2174】「心に映った世界を、在るように思って生きる」は、事実だから、実践済み

2009-07-26 04:34:02 | 思索


【2173】で、『「刹那・永遠・唯識世界観」を生きるという実践』と書きましたが、

私たちは、もうすでに、「刹那・永遠・唯識世界観」を実践して生きています。


★ほんとうは、「刹那・永遠・唯識世界観」ではなくて、「刹那・永遠・唯識」なのです。

それは「世界観」ではなくて、「事実」なのですから。

「実践する」ではなくて、すでに「実践されている」のです。


★自分が、「刹那・永遠・唯識」で生きていることに、気づくことが出来れば、
「固定した自分」という思い込みから開放されて、心が自由になり、 生きる勇気が湧いてきます。

他人にも、活き活きとして欲しいと思うようになります。

「自他のいのちの輝き」が増すことに、全力を注ぎたいと思うようになります。(^^;ゞ
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★自分(私たち)は、もうすでに、
『心に映った世界』を、「在る」と思って生活し、生きているのです。

自分(私たち)は、もうすでに、
『心に映った物や事象』が、「外界に在る」と思って生きているのです。

「実践する」のではなくて、もうすでに「実践している」のです。

【2173】すべては、心の見ている夢です

2009-07-26 01:44:29 | 思索
先に、答えを書きます。(^^;ゞ

『「全宇宙は、心において存在している」とは、いかなることか?』を再考すると、

『すべては、心の見ている夢』・『人々は、「自分の夢」を見ている』となります。

人は、「自分の心の中」に住んでいて、それぞれが「自分の夢」を見ているのです。

これが、事実です。(^^;ゞ


すべては、「心の見ている夢」であり、
すべては、「個人の心の見ている夢」なのです。
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【2163】の『「全宇宙は、心において存在している」とは、いかなることか?』が、まだどうしても、

腹に落ちないのです。「納得のできる世界観」が描けないので、覚悟が決まらないのです。(^^;ゞ

それで再度自分に、『「全宇宙は、心において存在している」とは、いかなることか?』と問うて、
素直な答えを聴いてみました。

★その答えは、『すべて(宇宙万物・森羅万象)は、心が思い描いていること』でした。

すべての中には、「物・食べ物・お金・家内・親・子供・・・・状況・病気・けが・健康・性交・死・生・誕生・・・」など、
ありとあらゆる物がなんでも入ります。 「自分の環境のすべて」です。

「心」と「外界」の関係が、構造的にそうなっているのは事実です。

その事実に基づいて論ずれば、
『個人個人は、自分の心の中に住んでいて、それぞれが「自分の夢」を見ている』も事実です。 

哲学は、この「心と外界の構造性」について語ったものです。


★この「構造性」について、安易に考えてしまうと、単に「思い込みは、やめましょう!」という教訓になってしまう(笑)のですが、哲学や宗教がめざしていることは、そういう処世術(?)(笑)ではないと思うのです。
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それにしても、私たちのだれでもが、
■何事においても、自分で思い描いて、自分で「苦しんでいる」のは、確かです。

■自分がこだわる分だけ、自分が「苦しむ体験」をするのも事実です。(^^;ゞ

■こだわりがなければ、ただ淡々と、流れるように、なすがままに、
すべてを受け入れて生きてゆけば良いだけのことなのです。(^^;ゞ

すべては、心の見ている夢なのですから。
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★上の文の語句を入れ替えてみると、もう少し広い心境(笑)が味わえます。
 「苦しみ」を、「楽しみ」に変えるのです。(^^;ゞ

■何事においても、自分で思い描いて、自分で「楽しめる」のは、確かです。

■自分がこだわる分だけ、自分が「楽しむ体験」をすることができます。(^^;ゞ

■こだわりがなければ、ただ淡々と、流れるように、なすがままに楽しんで、
すべてを受け入れて生きてゆくことができます。(^^;ゞ

すべては、心の見ている夢なのですから。
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★そして上のことは、
『未来なんて存在しない。 あるのは永遠に続く今だけ!』や、
『自分しか、いなくて、今しか、ない。(世界とは、今の自分!)』という事実とも、
合致した世界観だと思うのです。


★そしてそのあと、「私の問題(テーマ)」となるのは、

その「刹那・永遠・唯識世界観」を生きるという実践です。