『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【2162】「私」と「池田晶子」が、同時代に存在する不思議と必然性(^^;ゞ

2009-07-17 03:03:47 | 思索
池田晶子さんの書かれたものを紹介して、それについてコメントを書けることの幸せ(笑)も、最後になってしまいました。(^^;ゞ

池田晶子さんのような文章を書かれる方が、この世に存在して、それが、この時代であり、

しかも同時代に、「私」が存在していることの「不思議な必然さ」を、大いに(笑)感じる次第です。(^^;ゞ

その「不思議さ」を分類してみました。(^^;ゞ

① 「私」が存在することの不思議さ
② 「池田晶子」が存在することの不思議さ
③ 私と池田晶子さんが、同時代の日本に生まれた不思議さ
④ 池田さんの書いたもの内容を、私が理解できる不思議さ
⑤ そのことによって、私の心が「ウキウキワクワクすること」の不思議さ
⑥ 私も池田晶子さんも、もともとは、「宇宙の塵」であるという不思議さ
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■『魂とは何かと考える。いよいよわからない。
「信じる」ということと「考える」ということの違いは何か?
正直なところわからない。

精神でもあり、肉体でもあるその人、その独自性を「魂」と呼んでみようと思いました。』(「ある人がその人であるという問い」p213)

■『思い切って書きますが、実は私も知っています。「ある」と「ない」、その違いと同一性。
そして事実から価値が引き出されるのは、この人間という 体を持つ為だという事、
そして、すべてがどうでもいい事を。』(21歳のフリーターからの手紙・p133)

■『満足を捨てて、決意を取る』(藤澤令夫氏の言葉・p185)

■『この頃とくに、心理学の可能性について考える。(中略)

哲学的思考をも、ひとつの心理現象として見抜き包摂してゆける心理的受容性は、なお有効なのではなかろうか。

自己=思考として揺るがなかったこの等式を、少しずつ、自己=心あるいは魂の方向へとシフトしてみる。
すると、そこには、思考される以前の呟きようのもの、感触、気配、誰とも何ともつかないような事柄の一切が包摂されるようなのだ。

一切の現象が心において成立しているとは、当然、、次の逆説を惹起するからである。

すなわち、全宇宙は、心において存在している。

客観的事実と見える物理的宇宙もまた、心における現象である。

宇宙万物は、心の内にある。したがって、私の内に心はなく、心の内に、私がある』(「謎の日々」p240)