池田晶子さんが、始めてトランスパーソナル心理学について書いた文章を、『魂とは何か?』(最新本)の中で見つけました。
そこには、ご自分が今まで心理学について深く洞察してこなかったことへの反省(?)のようなものが書かれていました。
彼女は亡くなられているので、今後、トランスパーソナル心理学についての彼女の見解を詳しく聴けないのがとても残念です。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
■『心理学の分野は、食わず嫌いである。 このところ、どうもそこを避けて通れなくなりつつあることに気づいている。
哲学的には、認識不可能な無としての死、もしくは「死後」について、
古くより人間が描いてしまう「イメージ」とは、それ自体、なんなのか。
どうしてもそれが、問題と感じられるようになってきたのである。
「実在か非在か」が問題なのではない。
「見える」ということで実在であろうし、「触れない」ということでは非在であろう。
哲学の誠意は、ここに尽きている。そして、そのような事柄が、しかし「存在する」ということはどういうことなのか、
それを語る術を哲学は、もっていない。
先日、ケン・ウイルバーの大著『進化の構造』をパラパラと操っていたら、面白い一節にぶつかった。
驚くと同時に、納得した。ああ、やっぱりー。
あのヘーゲルが、ヘルダーリンに贈った詩の中で、こう語ったそうである。
<自らを忘却した魂は、空間と時間から抜け出し無限なるもののなかで、今やふたたび目覚める。
この魂を思考は掴まえることはできない。
このことを他に語ろうとするものは、天使の舌で語っても、言葉の貧しさを感じざるをえない。>
ウイルバーは、これにプラトンの言葉、「それに関する私の論文は存在しないし、存在しえない」を等置している。
ともに、理性が存在に「降参」を告げている瞬間である。「哲学」の限界である。』(「何が生きているのか」p127)
■『心理学には、心理学の「限界」があろう。
なんであれ、それが思考と理解である限り、「存在」は不可解に決まっているからである。
「何でもあり」の宇宙において、我々が、自分の人生を微力にも構成しようと試みる時、
最後は言語と物語の問題が残るはずだ。ユングもまた「ユング」という物語を生きた、そう言える(言えてしまう)地点があるのではないのか。
ユング心理学を継承発展させたトランスパーソナル心理学も、近年とみに成果をあげているが、
成長を統合の「物語」は、非常におさまりがいいぶん、自身の物語性を忘却しやすい、そんなふうにも思える。
物語がそこから出てくる混沌の側、あるいは物語が物語として成立する瞬間をこそ、
さらに見究めたいという「救われない」願望が自分にあることを、白状せざるを得ない。
そして、これは、なお「心理学的な」問題であり得るのだろうか』(p129)
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
★『哲学の誠意は、ここに尽きている。そして、そのような事柄が、しかし「存在する」ということはどういうことなのか、
それを語る術を哲学は、もっていない』や、『理性が存在に「降参」を告げている瞬間である。「哲学」の限界である。』という文章が印象的でした。
これは、池田さんの「誠実で正直な思い」だと思うのです。(^^;ゞ
「哲学」はそもそも、「存在」についての物語を語っているのではなくて、「存在することは謎である」と指摘しているだけなのです。(^^;ゞ
「理性」と「存在」を対峙させて(?)、同列に(?)考えることから、結論(解決)が出ないのは当然なのです。(^^;ゞ
「哲学」は、「人類の救い」や「魂の救われ」を問題(テーマ)にはしていないのです。
★「白光の教え」は、神に依存するという意味での「宗教」ではなくて、
『存在の根拠は、自分自身である(我即神也)』と考える「教え」です。
そこには、ご自分が今まで心理学について深く洞察してこなかったことへの反省(?)のようなものが書かれていました。
彼女は亡くなられているので、今後、トランスパーソナル心理学についての彼女の見解を詳しく聴けないのがとても残念です。
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■『心理学の分野は、食わず嫌いである。 このところ、どうもそこを避けて通れなくなりつつあることに気づいている。
哲学的には、認識不可能な無としての死、もしくは「死後」について、
古くより人間が描いてしまう「イメージ」とは、それ自体、なんなのか。
どうしてもそれが、問題と感じられるようになってきたのである。
「実在か非在か」が問題なのではない。
「見える」ということで実在であろうし、「触れない」ということでは非在であろう。
哲学の誠意は、ここに尽きている。そして、そのような事柄が、しかし「存在する」ということはどういうことなのか、
それを語る術を哲学は、もっていない。
先日、ケン・ウイルバーの大著『進化の構造』をパラパラと操っていたら、面白い一節にぶつかった。
驚くと同時に、納得した。ああ、やっぱりー。
あのヘーゲルが、ヘルダーリンに贈った詩の中で、こう語ったそうである。
<自らを忘却した魂は、空間と時間から抜け出し無限なるもののなかで、今やふたたび目覚める。
この魂を思考は掴まえることはできない。
このことを他に語ろうとするものは、天使の舌で語っても、言葉の貧しさを感じざるをえない。>
ウイルバーは、これにプラトンの言葉、「それに関する私の論文は存在しないし、存在しえない」を等置している。
ともに、理性が存在に「降参」を告げている瞬間である。「哲学」の限界である。』(「何が生きているのか」p127)
■『心理学には、心理学の「限界」があろう。
なんであれ、それが思考と理解である限り、「存在」は不可解に決まっているからである。
「何でもあり」の宇宙において、我々が、自分の人生を微力にも構成しようと試みる時、
最後は言語と物語の問題が残るはずだ。ユングもまた「ユング」という物語を生きた、そう言える(言えてしまう)地点があるのではないのか。
ユング心理学を継承発展させたトランスパーソナル心理学も、近年とみに成果をあげているが、
成長を統合の「物語」は、非常におさまりがいいぶん、自身の物語性を忘却しやすい、そんなふうにも思える。
物語がそこから出てくる混沌の側、あるいは物語が物語として成立する瞬間をこそ、
さらに見究めたいという「救われない」願望が自分にあることを、白状せざるを得ない。
そして、これは、なお「心理学的な」問題であり得るのだろうか』(p129)
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★『哲学の誠意は、ここに尽きている。そして、そのような事柄が、しかし「存在する」ということはどういうことなのか、
それを語る術を哲学は、もっていない』や、『理性が存在に「降参」を告げている瞬間である。「哲学」の限界である。』という文章が印象的でした。
これは、池田さんの「誠実で正直な思い」だと思うのです。(^^;ゞ
「哲学」はそもそも、「存在」についての物語を語っているのではなくて、「存在することは謎である」と指摘しているだけなのです。(^^;ゞ
「理性」と「存在」を対峙させて(?)、同列に(?)考えることから、結論(解決)が出ないのは当然なのです。(^^;ゞ
「哲学」は、「人類の救い」や「魂の救われ」を問題(テーマ)にはしていないのです。
★「白光の教え」は、神に依存するという意味での「宗教」ではなくて、
『存在の根拠は、自分自身である(我即神也)』と考える「教え」です。