THINKING LIVE シンキングライブ

シンキングライブは経済情報サイト
矢野雅雄が運営しています。

21678、ピカソの最後、

2013年04月28日 18時50分39秒 | thinklive

ピカソ (1881-1973) 92歳で死亡。

パブロ・ピカソは、80歳で最後の愛人ジャクリーヌと結婚した。

1973年4月7日の午後、彼は、南仏のカンヌに近い、敷地14ヘクタールに及ぶムージャンのノートル・ダム・ド・ヴィの古城の庭に出て、日光浴をしながら庭師と雑談をかわすほど元気であった。その夜もアトリエにはいってひとりで仕事をした。彼はこの城をふくめて3つの古城の持主であった。

4/8日の午前11時半、ジャクリーヌ夫人はベッドで苦しんでいるピカソを発見した。10分後にかかりつけの医者が呼ばれたが、ピカソはすでに死亡していた。死因は急性肺気水腫による窒息であった。ベッドのまわりにはクレヨンが散乱していたという。死後、3つの城には、彼自身の絵、彫刻、陶芸品など3万9000点作品が遺された。厖大な遺品と遺産を相続したジャクリーヌ未亡人は、13年後の1986年10月、ムージャンの城で謎のピストル自殺をとげた。

*ピカソの死後、マリー・テレーズとジャクリーヌ・ロックは自殺している。フランソワーズ・ジローは、現在まで画家として旺盛な創作を続けている(2010年に東京で日本初の個展を開催)。

*1927年、ピカソは17歳のマリー・テレーズ・ワルテルと出会い、密会を始めた。ピカソはオルガと離婚しようとしたが、資産の半分を渡さねばならないことがわかり中止した。ピカソとオルガの結婚は、1955年にオルガが亡くなるまで続いた。ピカソはマリー・テレーズと密会を続け、1935年に娘〈マイア〉が生まれた、

*1943年、ピカソは21歳の画学生フランソワーズ・ジローと出会い、1946年から同棲生活を始めた。そしてクロードとパロマが生まれた。しかし、フランソワーズはピカソの支配欲の強さと嗜虐癖に愛想をつかし、1953年、2人の子を連れてピカソのもとを去り、他の男性と結婚した。このことはピカソに大きな打撃を与えた。フランソワーズはピカソを捨てた唯一の女性と言われている

死の前の半年というもの、ピカソはいつにもましてアトリエにこもって仕事に没頭した。画想、インスピレーションは溢れるように湧いて途切れなかった。頭脳、精神ははっきりとして明哲で、肉体的状態も耳が遠くなったほかは申し分なかった。

*肺水腫とは、血液の液体成分が血管の外へ滲み出した状態。肺内で液体成分がたまるため肺のガス交換が障害されて、低酸素血症となり、呼吸困難が現れます。

葬式はジャックリーヌと息子ポールの指示より、ごく内輪だけで行われ、遺体はヴォヴナルグのシャトーの庭に埋葬されることになった、

 葬列は夜明け前、サン・ヴィクトワール山の ふもとの古城にむかって徒歩で進んだ。もう咲きはじめていた南仏の花ばなのうえに、大雪が降り積っていた。葬列は烈しい嵐のなかを目的地に辿りついた。それも除雪車によって通路から雪がとりのぞかれ、削岩機が運ばれてきて、城の入口の下の岩に穴がうがたれてからやっと、パブロ・ピカソの埋葬がとり行われた。立会ったのはジャックリーヌとポールとごく少数の友人だけであった。フランソワーズの子、クロードとパロマでさえ遠い丘の上から見守ることで満足しなければならなかった

*自画像、72・6・30、死去が73.4.8であるから、死の1年前の作品、90才の作品

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿