歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

奈良市・唐招提寺 寺創建以前の、新田部親王の邸宅時の築地塀が出土

2011年07月07日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が6日、奈良市五条町の唐招提寺境内の寺の敷地の北限に当たる場所で、平城京の東西を貫いた四条大路に面する築地塀の一部(幅2・2m、高さ0.7m、長さ4m分)が見つかったと発表した。 塀に葺かれていたとみられる奈良時代前半の瓦も出土し、759年に鑑真が同寺を創建する以前、新田部(にいたべ)親王の邸宅だった時代に造られた高さ約4mの塀と推定した。
 築地塀は、粘土と砂質土を交互に突き固めた版築技法が確認でき、塀跡の南側には形を整えるため塀の壁に板を押し当てた柱穴の列も見つかった。 築地塀は奈良時代に造り替えられた形跡がなく、寺創建時にそのまま利用したと推定でき、創建当時から同寺境内の北辺が変わっていないことも裏付けられた。
 現場は埋め戻されており、現地説明会はない。
[参考:共同通信、産経新聞、読売新聞]

■参考 続日本紀より
天平7年(735)9月30日 一品新田部親王薨。(略)親王天渟中原瀛眞人天皇之第七皇子也。
天平勝宝5年(753)7月11日 入唐副使從四位上大伴宿祢古麻呂來歸。唐僧鑒眞。法進等八人隨而歸朝。
天平勝宝8年(756)5月24日 和上鑒眞。小僧都良弁。華嚴講師慈訓。大唐僧法進。法華寺鎭慶俊。或學業優富。或戒律濂淨。堪聖代之鎭護。爲玄徒之領袖。加以。良弁。慈訓二大徳者。當于先帝不豫之日。自盡心力。勞勤晝夜。欲報之徳。朕懷罔極。宜和上小僧都拜大僧都。華嚴講師拜小僧都。法進。慶俊並任律師。
天平勝宝8年(756)6月9日 太政官處分。太上天皇供御米鹽之類。宜充唐和上鑒眞禪師。法榮二人。永令供養焉。
天平宝宇7年(763)5月6日 大和上鑒眞物化。和上者楊州龍興寺之大徳也。博渉經論。尤精戒律。江淮之間獨爲化主。天寶二載。留學僧榮叡業行等白和上曰。佛法東流至於本國。雖有其教無人傳授。幸願。和上東遊興化。辞旨懇至。諮請不息。乃於楊州買船入海。而中途風漂。船被打破。和上一心念佛。人皆頼之免死。至於七載更復渡海。亦遭風浪漂着日南。時榮叡物故。和上悲泣失明。勝寳四年(752)。本國使適聘于唐。業行乃説以宿心。遂与弟子廿四人。寄乘副使大伴宿祢古麻呂船歸朝。於東大寺安置供養。于時有勅。校正一切經論。往往誤字諸本皆同。莫之能正。和上諳誦多下雌黄。又以諸藥物令名眞僞。和上一一以鼻別之。一無錯失。聖武皇帝師之受戒焉。及皇太后不悆。所進醫藥有驗。授位大僧正。俄以綱務煩雜。改授大和上之号。施以備前國水田一百町。又施新田部親王之舊宅以爲戒院。今招提寺是也。和上預記終日。至期端坐。怡然遷化。時年七十有七。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神戸市・北青木遺跡 砂丘地層から方形周溝墓が出土

2011年07月07日 | Weblog
 神戸市教委は6日、同市東灘区北青木(きたおおぎ)の北青木遺跡で砂丘の地層から、弥生時代中期(紀元前後)の方形周溝墓が出土したと発表した。
 同遺跡は、縄文時代後期から中世にかけての遺物が出土する複合遺跡で、これまでに弥生時代中期の銅鐸などが見つかっている。
 出土した方形周溝墓は、南北約7m、東西約4mの大きさで、木棺(幅0.4m、長さ1m)4基などが見つかった。木棺の大きさなから子供の遺体が収められていた可能性が高いという。
 現地説明会は9日(土)午後2時から開かれる。
[参考・産経新聞]

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

釜山東三洞貝塚 鯨骨からアジア最古の捕鯨の歴史を証明

2011年07月05日 | Weblog
 西日本新聞が今朝、「釜山市の新石器時代の遺跡・東三洞貝塚((동삼동패총、BC.5500-BC2000)で、日韓共同の調査チームが発掘したクジラの耳の骨を、大型クジラのものと特定し、現時点で東アジア最古の遺跡と話している」と報じた。
 韓国の聨合ニュースでは、6月23日に発表している。
 調査は釜山市の福泉博物館と日本の国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の西本豊弘教授(64)たちが実施した。
 調査では、西本教授が、紀元前3000-2000年の地層から出土した耳の骨5点をザトウクジラやシロナガスクジラを含む大型クジラのものと確認した。
 ザトウ鯨とシロナガスクジラの特徴が、背部位が縞を成しているという点からみて、近隣の蔚山・盤亀台壁画(반구대암각화에)にある鯨の絵と一致するとしている。
 昨年、蔚山市の黄城洞貝塚で、新石器時代の層から「矢尻が刺さったクジラの骨」が複数出土している。
[参考:2011.6.23聨合ニュース、2011.7.5西日本新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2010.8.18 蔚山黄城洞・新石器前期の鯨骨と矢尻が出土 韓国捕鯨史上最古の遺物?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

盛岡市・中ノ橋・奈良写真館 宮沢賢治ゆかりの写真館

2011年07月05日 | 盛岡


写真は、中ノ橋付近の地図。 中ノ橋の右上に岩手銀行中ノ橋支店(注1)があり、その裏側(上側)に奈良写真館があったと思われる。

 5,6年前に、早稲田大学の図書館で昔(明治期頃)の写真集を眺めていたときに、ふと、中ノ橋・「奈良写真館」の写真が目に留まった。
 2階建ての屋根に架かる「奈良写真館」と書かれた看板と、写真館の左隣に並ぶ白い土蔵が印象的であり、雰囲気のある写真である。 (写真が載っていた本の名前は、記録していないのでわからない。 多分B4サイズの本である。)
 中ノ橋は盛岡市内を流れる北上川の支流中津川に掛かる橋であり、地名としても残っている。
 盛岡市は家内の生まれ育った場所。 そして、ピアニストの奈良希愛さん、ポップアート作家の奈良美智(青森県)さん、あるいは会社の同期の人間(青森県)にも奈良さんがいたなどと思い浮かべ、さらに奈良さんは意外にも東北にたくさんいるんだと感心をしながら、図書館の複写機でコピーをした。

 その当時、インターネットで「奈良写真館」を検索しても何も情報が得られなかったのが、今回、再びインターネットで検索をしたら、宮沢賢治ゆかりの写真館だとわかり感激をした。
 それは、azaleaさんのブログ『宮沢賢治と「アザリア」の友たち』で見つけさせていただいた。
 「アザリア」とは西洋ツツジの「アザレア」であり、宮沢賢治(1896-1933)とその仲間が立ち上げた文芸同人誌に「アザリア」と名付けられた。
 宮沢賢治が盛岡高等農林学校3年の大正6年(1917) 10月31日に、同人誌の仲間4人が奈良写真館で撮影したそうである。この写真は、「宮沢賢治の青春」(菅原千恵子著、角川文庫)の本の表紙にも使われている。
 これについては、2009年6月6日(土)の盛岡タイムスに『賢治ら「アザリア」の4人写った写真の撮影場所が判明 小菅健吉が手紙に記す』の見出しで記事が掲載されたようであるが、残念ながらインターネットでは記事が削除されてしまって見ることができない。
 一方、奈良写真館は明治35年(1902)から昭和8年(1933)の間、開業されたらしい。
 ちなみに、コピーした写真の撮影日は、明治44年(1911) 7月9日と書かれている。さらに、「奈良真順→真一、勝郎」とメモをしてあるので、多分館主であろう。そうすると、撮影者は奈良真順さんあるいは奈良真一さんとなる。写真を掲載できないのが残念である。

(注1) 旧盛岡銀行は昭和恐慌の影響で1931年に破綻し、翌年救済のため岩手銀行が設立された。

2012.1.17追記
 先の奈良写真館の写真は「蔵から出てきた盛岡 : よみがえる写真乾板 / 伊山治男 編」(東京 : 国書刊行会, 1989.7)に収蔵されているようだ。

関連ニュース・情報
 宮沢賢治(宮澤賢治)


キーワード:奈良写真館、 奈良真順
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

亀岡市・余部遺跡 弥生時代の竪穴住居の貯蔵穴から土錘28点が出土

2011年07月01日 | Weblog
 京都府亀岡市教委は30日、同市余部町の余部(あまるべ)遺跡で、弥生時代後期(約1800年前)の竪穴住居跡部分から1m四方の貯蔵穴が確認され、中から素焼きの土錘(長さ4~7cm、幅2~3cm)28点が出土したと発表した。 土錘は本来、漁で使う網の重りであることから、人為的に埋めたものとみられ、祭祀に用いられたのではないかとみている。
 ほかに、弥生時代後期の竪穴住居跡3棟、古墳時代中期の竪穴住居跡1棟と鎌倉時代(13世紀)の溝が見つかった。
 現地説明会は、2日(土)午前10時30分から開かれる。
[参考:京都新聞、読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2008.7.29 亀岡市・余部遺跡 古墳時代5世紀の方墳1基を発見
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大分県杵築市・五田遺跡・五田天神古墳 弥生時代の内行花文鏡が出土

2011年07月01日 | Weblog
 杵築市教委は、杵築市鴨川の「五田遺跡・五田天神古墳」(五田:ごた)の発掘調査で、2世紀後半から3世紀前半の青銅鏡や鉄製の鋤先などが見つかったと発表した。弥生時代から、周辺に有力な集落があった証拠とみている。
 出土した地域は、「木付村」の周辺と考えられる場所で、13世紀から16世紀にかけて、豪族・木付氏の本拠地として栄えた場所で、木付氏の居城であった竹ノ尾城跡(注1)に隣接している。
 青銅鏡は水田から見つかった。直径約7・7cmの「内行花文鏡」で、完全な形で見つかった。 後漢の鏡の一つだが、作りが精巧でないため弥生時代2世紀後半~3世紀初めに北部九州で製造された仿製鏡であるとみられる。 同様の鏡は、雄城台遺跡(大分市)、松木遺跡(豊後大野市)でも出土しているが、完全な形での出土は県内でほとんど例がないという。
 鋤先は稲作に使われた可能性が高いという。
 ほかに、地区の集会場でもある天神宮の周辺の田を調査していたところ、周溝の痕跡と埴輪が見つかったため、古墳と断定した。周溝を含めた大きさは直径45m前後の円墳とみられる。
[参考:2011.6.25大分合同新聞、2011.7.1読売新聞]

(注1) 竹ノ尾城: 高山川の淵に臨む丘の頂にあった城。
 建久七年(1196)に大友家初代能直が豊前豊後の守護職となる。 
 建長2年(1250)に大友家2代親秀(1195-1248)の6男・親重が八坂郷木付荘に入部し、姓を「木付」と改め、竹ノ尾の高台に竹ノ尾城を築いた。 頼重、能重、貞重、頼直と4代にわたって居城したが、応永元年(1394)、4代木付頼直の時に、八坂川の河口にある台山に木付城を築き移った。
 杵築とは、第六代将軍徳川家宣下賜の朱印状に「豊後国杵築領...」とあり、木付を杵築と書かれたことに由来するようである。

過去の関連ニュース・情報
 2010.1.20 群馬県川場村・青龍山吉祥寺 大友氏時が創建

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする