歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

近江八幡市・長命寺塔頭「穀屋寺」 最古の熊野観心十界曼荼羅が見つかる

2009年08月06日 | Weblog
 近江八幡市は6日、西国三十三カ所の1つ、同市長命寺町にある長命寺の塔頭「穀屋寺」から熊野観心十界曼荼羅(くまのかんしんじつかいまんだら)2点と長命寺参詣曼荼羅3点が見つかったと発表した。十界曼荼羅のうち1点は戦国時代末期(16世紀末、安土桃山時代)の作とみられ、全国最古級という。
 十界曼荼羅は縦約141cm、横約110~113cm。同じ絵柄で、上部に誕生から死までの人間の姿が描かれ、中下部に地獄や餓鬼、菩薩や仏など仏教の世界観を表す「十界」を表現している。中央上部には十界のうち「仏界」の阿弥陀、薬師、釈迦の三仏が描いている点が特徴。人物の服装や髪形から戦国時代末期と江戸時代後期の作とみられ、戦国時代末期のものは、全国で確認された十界曼荼羅約60点の中で最古級という。
 参詣曼荼羅は縦約154~約161cm、横約159~約180cm。長命寺の境内を上から眺めた視点で描いている。3点はそれぞれ戦国時代末期、江戸時代中期、同後期の作と推定した。
 長命寺は永正13年(1516)の兵火で焼失。寺の再興のため、16世紀半ば頃から尼僧が全国を歩きながら十界曼荼羅を用いて布教し、浄財を集めた。穀屋寺は、長命寺再建のため全国に寄付を募った僧や尼僧が拠点にした。
 同市立資料館と栗東歴史民俗博物館が4月から調査し、木箱に入った曼荼羅5点と古文書約千点を確認した。持ち歩くために折りたたんだ本来の状態で伝来しているのはほとんど例がないという。
[参考:共同通信、産経新聞、京都新聞]
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長岡京市・伊賀寺遺跡 縄文後期の玉の製作拠点を確認

2009年08月06日 | Weblog
 市教委と市埋蔵文化財センターは6日、発掘調査を行っている伊賀寺遺跡(同市下海印寺)で縄文後期の土層から碧玉製の玉の未製品9点(0.5-1cm)や碧玉の石くずが出土し、装身具の玉作りの場だったことがわかったと発表した。縄文後期の玉の製作拠点が確認されたのは近畿初という。原料の碧玉は但馬産とみられる。
 土層からは石鏃、石棒などの石器類も大量に出土し、黒曜石やサヌカイト、結晶片石、讃岐石など長野県周辺から和歌山県や香川県にかけての石材が使われたことが確認された。
 伊賀寺遺跡では、遠方から石材を入手し玉作りを行うシステムを確立していたことを裏付ける画期的な資料とする。
[参考:京都新聞]

過去のニュース・情報
 2008.9.19長岡京・伊賀寺遺跡 縄文期に多人数火葬
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佐賀市・三重津海軍所跡 新たに2つの炉跡が見つかる 8日に現地説明会

2009年08月06日 | Weblog
 世界遺産登録を目指す九州山口近代化産業遺産群入りに向けて発掘調査が行われている幕末の三重津海軍所跡から、新たに2つの「炉」の跡が見つかった。このうち、3mほどの溝が3本掘られた炉跡の中から木炭や石炭、溶けた金属が見つかった。これらの遺構は出土した磁器から1820~60年代のものとみられ、海軍所の時期と合致する。
 以前の調査で、既に確認されていた炉跡の詳しい構造もわかってきた。石組みの内側に粘土の層が塗り固められており、金属を溶かす際の熱効率を高める目的があったと考えられる。このほか、一帯は砂と粘土を交互に重ねてかなり大規模な造成が行われていたことも新たにわかった。しかし、海軍所の建物跡とみられる遺構はまだ見つかっていない。
 三重津海軍所跡の発掘は今月一杯行われる。
 現地説明会が8月8日(土)9:30~、10:30~、11:30~(各30分程度)に行われる。(雨天中止)場所は佐野記念公園内
[参考:サガテレビ、毎日新聞、佐賀市HP]

過去のニュース・情報
 20009.6.26 三重津海軍所跡 世界遺産暫定リスト入り実現を目指し追加調査
 2009.5.29 三重津海軍所の痕跡証明に地下探査
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向日市・長岡京 脇殿跡を初確認

2009年08月06日 | Weblog
 向日市埋蔵文化財センターは5日、長岡宮内裏跡(同市鶏冠井町東井戸)から、脇殿と見られる遺構が初めて見つかったと発表した。
 今年6月から実施された長岡宮第二次内裏南東部における宮跡第472次調査で、内裏内郭築地回廊雨落ち溝と大型建物が見つかった。その配置や間隔などから、東西21m、南北6mの大型建物があったとみられる。桓武天皇が執務した内裏正殿跡から南東約20mに位置し、長岡宮内裏の遺構では正殿に次ぐ大きさという。
 平安宮や、平安京への遷都直前に桓武天皇が住んだ仮内裏「東院」では、脇殿は正殿の左右に各2棟あったとされ、長岡宮も計4棟あった可能性が高い。また、他の宮の脇殿は南北棟で、今回のような東西棟は例がないという。
 桓武天皇は長岡京時代、執務の場所を朝堂院北側の大極殿から、内裏正殿へ移したとされ、脇殿は従来の朝堂院の機能を持っていたのではないかという。
 現地説明会は8日午前11時から、現場近くの大極殿公園南側広場・大極殿院閤門跡で開かれる。
[参考:京都新聞、向日市埋蔵文化財センターHP]



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