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歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

金海市進永邑 三国時代5世紀の舟形土器が出土

2012年05月23日 | 韓国の遺跡・古墳など
 文化財庁は23日、韓国文化財保護財団文化財調査研究団が調査中の慶南金海市進永邑宅地開発地域で、青銅器時代から朝鮮時代までの遺構約250基をはじめとする遺物約1,500点が出土したと発表した。
 また、出土状態が良好で完形に近い三国時代5世紀の舟形土器(주형토기)一点が見つかった。 馬形土器や鴨形土器のように古墳に副葬される異形土器の一つで、死者の魂をあの世まで運ぶ信仰の表現で墓に一緒に埋めた儀式用明器であると考えられている。
 現在出土地が確認されている船形土器は慶州市路東洞の金鈴塚で出土した2点と大邱達城郡求智面坪村里遺跡で出土した1点があるという。
[参考:聨合ニュース]
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慶州皇吾洞 チョクセム地区の新羅古墳で金銅冠飾など遺物多量出土

2012年05月22日 | 韓国の遺跡・古墳など
 国立慶州文化財研究所は21日、慶州市皇吾洞チョクセム地区(경주 쪽샘지구)の新羅古墳発掘調査現場で多量の遺物が発掘されたと発表した。
 古墳は封墳の直径が23mの積石木槨墳である。封墳の周囲を人頭大の川石(護石)で丸く囲み、、埋葬主体部の主槨(長さ5.5m、幅3.3m)と副葬品を埋納した副槨(長さ3.5m、幅4m)を一列に配置した形状で、主槨の底に小砂利をたくさん重ねて敷いて木棺を置き被葬者を安置した。 被葬者の頭側の東側に副葬品を入れた櫃を置いた。
 木槨の上部には川石と同じ積石を厚さ1m前後で覆い、次に、土で封墳を積み上げて墓を仕上げたが、封墳の高さは概略7mに達したとみられる。
 主槨の中央には被葬者が着装したと見られる純金製心葉形細環耳飾と、ガラス玉で作られた胸飾、銀製銙帯のような装身具類と三葉・三累環頭大刀など装飾大刀がいろいろ副葬されていた。
 特に、主人公の枕元に設置された副葬櫃に白樺樹皮製冠帽に金銅装飾が付着していて、ここに鳥翼形の金銅製・銀製の冠飾と頂部立飾と後立飾が全て揃った帽冠は、新羅古墳で初めての出土である。
 このように金銅および銀で飾った帽子形状の冠は、5世紀後半~ 6世紀初め頃新羅社会を代表した王の墓の皇南大塚と天馬塚、金冠塚で出土したのと形状と構造が似ているため、古墳の主人公の社会的身分もこれに相応する新羅の支配階層に該当する人物だったと判断される。
 さらに副葬櫃から100点余りの土器と多数の鉄製品とともに出字形帯冠の姿を集線文で描写した台付長頚壺が出土した。
[参考:ソウルニュース、聨合ニュース]
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全南霊岩郡ソントゥルボン土城 5世紀頃の築造と判明

2012年05月18日 | 韓国の遺跡・古墳など
 国立羅州文化財研究所は17日、全南霊岩郡始終面内東里にあるソントゥルボン土城(성틀봉토성)(注1)
が、栄山江流域の5世紀頃古代甕棺古墳築造勢力と関連する城郭であることを初めて確認したと発表した。
 同研究所は先月9日から25日まで試掘調査を行った。 この城壁は築造当時の地表面を整えた後、その上部に磨砂土と粘性土を交互に固めた版築技法で土塁(城壁)を作った後、土塁にさらに黄色砂質粘土で覆って築造された。
 特に土塁を積み上げる時、木柱を打ち込んだ溝施設を確認した。城壁の全周は約190m、高さ約1.7m、幅約10mであった。
 城の築造時期は、土塁内部から5世紀始めから中頃と判断される甕棺片が出土して、城壁の版築手法と規模が百済城より古式であり、規模が小さい点、また、この土城周辺に靈岩内洞里双墳と靈岩沃野里方台形古墳をはじめとする多数の5世紀頃甕棺古墳群が散在することから、5世紀の築造とみられる。
[参考:聨合ニュース]

(注1)성틀봉の漢字表記が見当たらない。城の形をした峰というような意味か?

過去の関連ニュース・情報
 2010.10.25 全南霊岩・沃野里方台形古墳 4本の木柱を立てて石室壁を築造した横口式石室墓を発見、埴輪も出土
 2010.4.18 栄山江流域 全南霊岩郡・長洞方台形古墳 2次調査着手
 2009.9.28 韓国・高敞鳳徳里古墳群1号墳 5世紀の百済金銅製履物出土
 2009.4.3 韓国全南羅州市 永洞里古墳群 蜂の巣型古墳を確認
 2008.7.25 百済時代 地方木簡 羅州伏岩里古墳群で初めて出土 製鉄所も発見
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韓国全南順天市・雲坪里古墳群 500年前後の任那日本府説の4県の一つ娑陀から伽耶系の遺物が多量に出土

2012年04月20日 | 韓国の遺跡・古墳など
 昨日の聨合ニュース(日本版)は、「韓国・全羅南道・順天市の雲坪里古墳群(うんぴょんりこふんぐん、운평리 고분군)で任那日本府(임나일본부)説を覆す可能性のある遺物が出土した」と報じた。 順天大学校博物館が発掘調査中の伽耶の古墳から、6世紀初め頃のものとみられる大伽耶系の純金製耳飾りや馬具類、大刀、土器類など約200点が出土した。 雲坪里古墳群は紀元500年前後の同地域(注1)の支配層の墓であり、新たに出土した遺物は日本系のものでなく、伽耶系のものが大量に出土していることから、当時、任那4県のうちの一つだった同地域(注)が大伽耶と連盟関係にあったことを示す重要な資料としている。

 この記事に先立って、今年の2月14日に、やはり聨合ニュースは「順天市・雲坪里古墳群3次発掘調査に着手」と報じていた。
 5世紀後半から6世紀初期にかけて伽耶系古墳と評価される雲坪里古墳群では、2005-2008年に2回の発掘調査で封墳3基(1~3号墳)、土壙墓9基、石槨墓21基などが発掘された。
 特に長方形石室の埋葬主体部を中心にとして同心円上に12基の石槨墓が築造された2号墳では、金製耳飾り、大型器台など1千点余りの遺物が出土し、当時の順天地域最高首長層墓であることがわかった。 当時伽耶勢力と順天支配集団間の活発な政治的交流があったことを示す重要資料している。
 また、従来、全南東部地域は馬韓社会から百済につながる歴史性を持っていたと理解してきたが、雲坪里古墳群発掘調査では伽耶系墓と出土遺物からみて、馬韓社会から百済に渡る中間に全南東部地域が伽耶勢力と密接な関係を結んでいるということが確認されたとしている。
[参考:聨合ニュース]

(注1)任那4県とは、上哆唎、下哆唎、娑陀、牟婁であり、娑陀(サタ、사타)が現在の順天の地域に当る。
参考: 『日本書紀』
継体天皇六年(512)冬十二月。百濟遣使貢調。別表請任那國上哆唎。下哆唎。娑陀。牟婁四縣。哆唎國守穗積臣押山奏曰。此四縣近連百濟。遠隔日本。旦暮易通。鷄犬難別。今賜百濟合爲同國。固存之策無以過此。然縱賜合國。後世猶危。况爲異場幾年能守。大伴大連金村具得是言。同謨而奏。迺以物部大連麁鹿火宛死宣勅使。物部大連方欲發向難波館宣勅於百濟客。其妻固要曰。夫住吉大神。初以海表金銀之國。高麗百濟新羅任那等。授記胎中譽田天皇。故大后氣長足姫尊。與大臣武内宿禰。毎國初置官家。爲海表之蕃屏。其來尚矣。抑有由焉。縱削賜他違本區域。綿世之刺、詎離於口。大連報曰。教示合理。恐背天勅。其妻切諌云。稱疾莫宣。大連依諌。由是改使而宣勅。付賜物并制旨。依表賜任那四縣。大兄皇子前有縁事不關賜國。晩知宣勅。驚悔欲改。令曰。自胎中之帝置官家之國。輕随蕃乞。輙爾賜乎。乃遣日鷹吉士。改宣百濟客。使者答啓。父天皇圖計便宜勅賜既畢。子皇子豈違帝勅妄改而令。必是虚也。縱是實者。持杖大頭打。孰與持杖小頭打痛乎。遂罷。於是或有流言曰。大伴大連與哆唎國守穗積臣押山受百濟之賂矣。

欽明天皇元年(540)九月乙亥朔己卯。幸難波祝津宮。大伴大連金村。許勢臣稻持。物部大連尾與等從焉。天皇問諸臣曰。幾許軍卒伐得新羅。物部大連尾與等奏曰。少許軍卒不可易征。襄者男大迹天皇六年。百濟遣使表請任那上哆唎。下哆唎。娑陀。牟婁四縣。大伴大連金村輙依表請許賜所求。由是新羅怨曠積年。不可輕爾而伐。於是大伴大連金村居住吉宅。稱疾不朝。天皇遣青海夫勾子。慰問慇懃。大連怖謝曰。臣所疾者非餘事也。今諸臣等謂臣滅任那。故恐怖不朝耳。乃以鞍馬贈使厚相資敬。青海夫人依實顯奏。詔曰。久竭忠誠。莫恤衆口。遂不爲罪。優寵彌深。☆是年也太歳庚申。

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韓国・京畿金浦雲陽洞遺跡 楽浪土器と韓国式銅剣が出土

2012年04月06日 | 韓国の遺跡・古墳など
 文化財庁は5日、漢江文化財研究院による京畿道金浦市雲陽洞遺跡(김포 운양동 유적)の発掘調査で、三国時代以前の馬韓(마한)の墓様式で知られる墳丘墓(분구묘)6基が追加して発掘され、ソウル・京畿地域初期鉄器時代(注1)木棺墓からだけ出土した韓国式銅剣が楽浪土器(注2)と一緒に出土したと発表した。
 金浦雲陽洞遺跡は漢江下流に隣接する海抜73m丘陵に位置する青銅器時代から朝鮮時代の遺跡。 2009年には青銅器時代住居跡と原三国時代墳墓30基などが現れ、環頭大刀、金製イヤリングなどが出土した。
 雲陽洞遺跡が、当時楽浪など周辺地域との交易で重要な役割をした支配階層の墓であったのを再証明するだけでなく、馬韓百済史研究の重要な資料になるだろうとしている。
(注1)BC3世紀~BC1世紀
(注2)BC1世紀~AD4世紀の楽浪郡時期の遺物
[参考:聨合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2009.9.16 韓国・京畿金浦で3世紀の馬韓勢力墳墓を大量に発掘し、鉄器類、鉄製武器類などが多数出土
 2010.12.2 韓国・京畿金浦陽村で3世紀の墳丘墓22基を確認
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慶州・昌林寺 三層石塔無垢淨塔願記の実物(金銅板)を発見

2012年02月29日 | 韓国の遺跡・古墳など
 大韓仏教曹渓宗傘下・仏教文化財研究所は28日、新羅第46代文聖王(在位839-857)が文聖王17年(唐・大中9乙亥年、855)(注1)に慶州南山・昌林寺に三層石塔を建て、その造成経緯を書いて奉安した金銅板形状の発願文『国王慶膺造無垢浄塔願記』を龍珠寺孝行博物館(京畿華城市松山洞)で発見したと発表した。
 この発願記は、1968年に京畿 華城龍珠寺末寺の霊源寺(利川市)大雄殿を解体した時に基壇から発見され、その後ずっと霊源寺に秘蔵され、昨年龍珠寺孝行博物館に寄託されたものである。
 「慶膺(キョンウン)」は文聖王の諱(いみな)であり無垢浄は統一新羅時代に塔を建てる根拠になった仏教経典の無垢浄光大陀羅尼経(751) (注2)を意味する。 縦22.4cm×横38.2cm、厚さ0.8mmの純銅に鍍金をした判型であり、裏表面に塔を建設することになった背景と起源内容、造塔に関与した人物らを記録した。
 この発願記は、1824年昌林寺三層石塔から無垢浄光大陀羅尼経と共に発見された。 当時金石学の大家・秋史・金正喜(1786-1856)がその字をそのまま模写しておいたことでその実物とわかった。
[参考:聨合ニュース]

(注1) 聨合ニュースでは大中3年としていたが、文聖王17年(855)は唐・大中9年であり、実際にこの発願記を作成した年号は「唐大中九年歲在乙亥」と記している。
(注2) 日本では、聖武天皇の発願により宝亀元年(770)に完成した百万塔の小塔中に納められ、世界でも最も古い印刷物のひとつとしてよく知られる。
 関連ニュース・情報
 2009.11.3 奈良県斑鳩町・法隆寺 百万塔 奈良時代767年製作を示す文字を確認
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金海市・良洞里遺跡 4世紀の円筒形鉄器(儀器)が出土

2012年02月24日 | 韓国の遺跡・古墳など
 国立金海博物館は24日、金海良洞里遺跡Ⅳ-1号木槨墓(양동리유적 Ⅳ-1호 목곽묘)で収集した遺物を整理する過程で4世紀頃の伽耶文化圏の古墳で集中して出土する円筒形青銅器(注1)と似るが、材料は鉄を鍛造して作った円筒形鉄器(長さ15.2㎝)一点を確認と発表した。
 長い木の柄の先に挿して使う一種の儀器と判断されるとしている。 円筒形鉄器の内部には鉄で作った短い棒が入っていて揺らすと音が鳴る。
 これと類似する円筒形金属遺物は、金官伽耶時代王たちの共同墓地として知られる金海大成洞遺跡をはじめとして良洞里古墳、金海望徳里古墳、釜山福泉洞遺跡などの地で、これまで全部で45点が出土したが、材料は全て青銅である。 この他にも国立慶州博物館に寄贈された遺物も良洞里出土品と伝わるがこれまた青銅製品だ。
 このような円筒形青銅器は、日本でも同じ形の遺物が集中出土するという点で、三国時代韓半島と日本列島の文化交流の遺物と見られる。
[参考:聨合ニュース]

(注1)筒形銅器のこと。
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釜山市・蓮山洞古墳群 韓国最大古墳群築造技術究明

2012年02月24日 | 韓国の遺跡・古墳など
 釜山博物館は22日、整備と復元のために昨年7月から第2次発掘調査を行っている釜山蓮堤区(부산박물관)にある蓮山洞古墳群(연산동 고분군、釜山市記念物第2号)で、M3号墳の精密発掘調査をした結果、全長16m、幅4mに達する韓国で最も大きい規模の主・副槨竪穴式石槨墓(주ㆍ부곽 수혈식 석곽묘)を確認し、また、長さ25.2m、高さ4m以上の巨大な封墳を築く方法として小さい粘土塊を整然と積み重ねる古代の墓築造技術の秘密も明らかにしたと伝えた。

 蓮山洞古墳群は三国時代の釜山地域唯一の高塚古墳群である。 1次調査(2009年12月~2010年12月)では、それまで知られていた10基の高塚古墳の他に6基が新たに確認され、今回の2次調査でさらに2基の古墳が確認された。
 墓内部と封土から、三国時代の札甲片と板甲片も出土した。(注1)
 27日午後3時から、蓮山洞古墳群発掘調査現場で市民公開説明会が開催される。
[参考:聨合ニュース]

(注1) 東京国立博物館には、小倉コレクションとして、下記2点の同古墳群からの出土品を所蔵している。
 鉄製眉庇付冑 1個 伝釜山市東莱区蓮山洞出土 (三国時代・5世紀)
 鉄製短甲 1領 伝釜山市東莱区蓮山洞出土 (三国時代・5世紀)

過去の関連ニュース・情報
 2010.8.2蓮山洞古墳群 110基を越える墓を確認、墓築造中の食事を提供する野外露地施設も
 三国時代遺構: 時期的には福泉洞古墳群の後に出現し、5世紀後半から6世紀半ばに築造されたとみられる。盃山から北に延びた50m前後の稜線頂上部に沿って封墳の大型古墳10余基が一列に並び、周辺の丘陵傾斜面には中小型古墳が配置されている。大型古墳は既に調査された4号と8号墳の場合、石槨の長さが11mに達する
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韓国康津郡・月南寺址 試掘調査で12~13世紀の遺構が出土

2012年02月21日 | 韓国の遺跡・古墳など
 全南康津郡は16日、高麗時代に真覚国師(慧、ヘシム、1178∼1234)が創建したとされる同郡城田面月南里の月南寺址(全南道記念物第125号)一部の試掘調査を終えたと発表した。
 今回の調査は(財)民族文化遺産研究院が、昨年末から今年1月まで月南寺址3層石塔(宝物第298号)周辺で行われた。
 調査結果、出土遺物と建物跡構造から12~13世紀に重点的に築造されたとみられる遺構が多量に出土した。
 今回出土した遺物は瓦と陶磁器が大部分で、瓦類は主に高麗時代に製作された。 特に鬼目文軒丸瓦と蓮華文軒平瓦の存在は、建物の地位が高いことを知らせる重要な資料と評価されている。
 高麗から朝鮮時代までの幅広い遺物が確認された磁器類は、高麗青磁が主であるが、12~13世紀の皿、杯、瓶、香炉、椅子、枕など、多様でかつ多量の出土が注目されている。
 さらに、月南寺の寺域と建物配置などの把握のために今年下半期から全面的な発掘調査をする意向としている。
[参考:聨合ニュース]
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モンゴル・バヤンノール市・突厥壁画墓発掘 高句麗壁画と近似 青龍や白虎

2012年01月23日 | 韓国の遺跡・古墳など
 1月22日の読売新聞で、「白虎?7世紀モンゴルの墓に「高松塚」似の壁画」と題して、記事が掲載された。 発掘調査は昨年の7~9月にかけてモンゴル-カザフスタン共同調査団により行われたもので、11月27日に大阪国際大学(枚方)で同調査に携わったA.オチル モンゴル遊牧文化研究所長が同発掘に関する講演を行った。
 国内では読売新聞以外の報道はないようだ。
 韓国の聨合ニュースを見ると、10月27日に東北アジア歴史財団が「7世紀突厥壁画墓発掘調査結果および成果」と題して講演会を開催し、やはりA.オチル氏が講演を行っている。
 聨合ニュースでは、7世紀といっても、600年頃としている。
 現存高さ4m、直径32mの封墳の中に、地上から7.5m下に、直径4.5m、高さ2.7mの平面楕円形の墓室が設けられた。 南側壁面を突き抜けて南北方向に全長42m、幅1.8mに達する墓道も確認された。 墓道の壁に漆喰を塗り、赤や青、黒の顔料で40点余りの画が描かれていた。青龍と白虎壁画は墓道両側に各々発見された。
 「돌궐벽화무덤」(突厥壁画墓)で検索すると、青龍・白虎の画像が見れるはずである。

追記 2013.10.21
 明日香村のキトラ古墳(特別史跡、7世紀末~8世紀初め)に関する講演会が10月19日、東京であったそうである。モンゴルの7世紀の墓から、東アジア最大級の「四神(ししん)」(方角の守護神)の極彩色壁画が見つかり、「モンゴル初の四神」と朝日新聞が写真入りで紹介していた。
 よく調べてみると、昨年1月22日に読売新聞で紹介されたもののようである。ただ、その時には遺跡名は書かれていなかったが、今回「オラーン・ヘレム墳墓」(直径30mの円墳、高さ4m、)と分かった。




キーワード
 突厥=Türk=テュルク=투르크=돌궐
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釜山機張郡龍岫里 古墳から5世紀中後半の家形土器が出土

2012年01月18日 | 韓国の遺跡・古墳など
 釜慶文物研究院(2010年設立)は17日、昨年6月から10月まで釜山機張郡鼎冠面龍岫里(부산 기장군 정관면 용수리)一帯の古墳群発掘調査で三国時代の5世紀中後半の家形土器(집모양 토기、高さ18㎝、幅17㎝)を発掘したと発表した。
 この家形土器は正面から見ると、二つの柱があり、柱の後に平面壁を中心に半円形形状をなしている。半円形状の部分には外周に12本の小さい柱が立てられていて、屋根は切妻造(맞배형)のようだ。 酒や水を注いで入れることができる酒杯形の形状などからみて祭儀用として使われたとみている。
 この土器が発掘された地域は、4~6世紀の大規模家の跡地などが発見された佳洞遺跡(가동유적)に接している。
[参考:聨合ニュース]
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宣寧郡嘉礼里 2千500年前の大型支石墓2基を発見

2011年12月29日 | 韓国の遺跡・古墳など
 宣寧郡は28日、嘉礼面嘉礼里(의령군 가례면 가례리)で住民情報により現場調査の結果、青銅器時代・2千500年前の大型支石墓(고인돌)2基を発見したと発表した。
 1号墓: 横3m、縦3.4m、高さ1.6m、40t
 2号墓: 横1.4m、縦2.6m、高さ1.3m
1号墓には、農耕のための星座跡と知られる性穴(성혈、星穴)が12個確認されており、宜寧地域で確認された支石墓中最大という。
[参考:聨合ニュース]

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全南霊岩・チャラボン古墳 周溝から祭祀木器が出土

2011年12月16日 | 韓国の遺跡・古墳など
 霊岩郡は始終面泰澗里のチャラボン古墳(영암 자라봉고분)の20年ぶりの発掘調査を大韓文化遺産研究センターに依頼して、6世紀初めの築造が確認された。 さらに引き続いて周溝の発掘調査が行われており、霊岩郡は14日、100点余りの円筒形土器(원통형 토기、注1)とともに祭祀木器が完全な状態で出土したと発表した。
 発掘した祭祀木器には、笠型木製埴輪(개형 분주목기)、長さが520cmに及ぶ幡竿形木器(깃대형 목기)、両刃形木器(양날형 목기)があり、韓国では初めての出土例という。
 これら祭祀木器は単に古墳周溝に廃棄されたわけでなく、周溝内部に設けられた木造構造物に意図的に貢献したとみられるとしている。
 このような祭祀木器の出土は、前方後円墳築造と関連して進行された葬制の一面と考えられる。
[参考:聨合ニュースほか]

(注1) 円筒形土器: 円筒埴輪のことか。
 辞書にない語句がいくつかあり、同じ物を表す語句が韓国語と日本語で違う、そして写真が公開されているのに、写っている木器が何なのか説明がないために、正確に内容を把握することができない。したがって、内容に間違いがあるかもしれないので、そのつもりでお読みいただきたい。

関連ニュース・情報
 2011.11.23 全南霊岩・チャラボン古墳 20年ぶりに再発掘し、6世紀初めの築造を確認
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光州市・新昌洞遺跡 初期鉄器時代から高麗時代まで持続して活用された生活の場

2011年12月16日 | 韓国の遺跡・古墳など
 国立光州博物館は14日、7月29日から初期鉄器時代から三国時代の農耕複合遺跡の新昌洞遺跡(광주 신창동 유적、史跡375号)を発掘調査した結果、新たに紀元前2世紀後半-1世紀頃の円形土壙6ヶ所と4-5世紀の三国時代住居跡10基が見つかり、さらに、高麗時代以後の方形土壙まで発見され、この一帯が紀元前2世紀後半以後高麗時代まで持続して人間生活の主要空間として活用されたことがわかったと発表した。
 特に、新昌洞半月村北西の丘陵南側斜面で三国時代住居跡が密集分布するとことがわかり、これら住居跡は空中から見下ろすと全て方形であり、四柱式が中心をなしていることが明らかになった。
 これら住居跡から、かまど枠、鋳造鉄斧(農工具用)、打捺文土器、灰青色硬質土器、砥石、防錘車などが出土した。
[参考:聨合ニュース]
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ソウル松坡区・風納土城 東側城壁は二度の増築、基礎工事は3世紀中後半に開始

2011年11月29日 | 韓国の遺跡・古墳など
 韓国・国立文化財研究所が28日、4月より切開調査中である漢城首都期百済王城である風納土城(풍납토성、ソウル市松坡区)の南側城壁と隣接した東側城壁は、二度の増築過程を経て完成されたと発表した。

調査成果
■ 城壁の基礎工事は、整地して幅11mの区間に最大0.9mの高さに土を積んだ。 この区間から楽浪系土器・頚部暗文壷(경부암문호)、格子文牝瓦(격자문암키와)などが出土して、3世紀中後半に工事が始まったことが分かった。 さらにその上に骨組になる土塁:を積み、その内外にさらに土を重ね合わせて(版築法で)積み完成した。
■ 城壁の内部では、揮帳文がある直口短頸壺(직구단경호)が出土して、高句麗土器の製作技術との関連が推測される。
 前項の楽浪系土器を合わせて、このことは、風納土城築造当時、百済の北方地域で多様な物質文化が流入していたことを示している。
■ 今回の調査地点確認された城壁の幅は37mであり、高さは最大9.5mに達する。 完成以後二回の増築を行い、最終城壁の総幅が43mに達する。 城壁内壁には城壁と地表面を保護するための石垣施設も残っていた。 増築時期は、4世紀後半以後とみられる。

11月29日午後2時 ソウル・風納土城の東城壁発掘調査現場説明会が開催される。
[参考:聨合ニュースほか]

過去の関連ニュース・情報
 2011.6.21 ソウル松坡区・風納土城 東側城壁の切開調査を進行中(年末まで)
 風納土城関連
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