カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

ブション

2011年08月15日 | 京都
「寓話的、ランチ。」

肩肘張らず、カジュアルで、居心地が良い、そんな印象を与える店内の壁は、効果的な大きめの鏡張りで、実際以上に開放的なイメージを、来る者に抱かせる。
余計な音楽は存在せず、狭い間隔で配置された席いっぱいの、静かな客のざわめきが、明るい空間に充満する。

皆、場所をわきまえ、声高に話す人は居らず、だからといって、不機嫌に、オドオドと畏まっている訳でもない。
そのざわめきの中には、そこそこに、様々の外国語が混じり、しかしそれは、とても自然で、取り立てて特異な印象は与えない。
当たり前であるという以上に、誰しもが、此処では存在することを許されている、人種に別はなく、性別に別もなく、年齢にも、学歴にも、別はない、この御店に相応しい人間で在りたい、そう思う人であれば、誰であっても、此処には居場所がある。

12時台は無理だとしても、13時を少し過ぎれば、通りすがりに覗いてみて、もしかすると、運良く自分と、そして連れ合いの居場所くらいは、見つけることが出来るかも知れない。

懐加減を気にせずに、気軽に食べることが出来る、そんな価格で提供される、そのランチは、とてもダイナミックで、別の言い方をすれば、大雑把な料理ではあるけれども、それ故に、あらゆる方面に対して、全く気を遣わず、遠慮なく、一心不乱に食べることが出来る。
それなりのお肉は、少々ナイフも通り難く、咀嚼し、飲み下すのに骨の折れる代物ではあるけれど、間違いなく美味しいと言い得るそのニュアンスに、もし、万が一、それを食べ切れない、そんな場合、そんな時は、これは、自分の負けである、そんな意識が、当然のように涌いてくる。

残した人が負けなのであって、残された料理が悪いのではない。
それは、何故なら、これが、在るべき料理としてのイデア、本質を象徴する、そんな料理であるからだ。
この料理を食べ切ってこそ、その人は、人間という存在として、料理を食べる、その資格があると言っても過言ではなく、そういう意味で、肉料理としての原形、ランチとしての原形を、この料理は食べる人に提示している。

例えば、この料理を不当に評して、やはり牛肉は、焼肉で食べるのが、いちばん旨い、はたまた、やはり肉質が、料理的にはいちばんの問題だ、などという、小賢しく、神経質で、狭量な、料理としての概念に限定された意見など、もしあるようであれば、それは全くの見当違いなのである。

そのような、小さな価値観によって創造された料理とは、一線を画す、それ以前の前提を問う、もしくは思い起こさせる料理、それが、このブションのランチであり、それは、現代、新たに創造された、在りのままなのである。

その、ある意味、峻厳な、原初のランチを食すには、身も心も健やかである状態が望ましく、暑いから、涼しくなる料理を、寒いから、温かい料理を、ましてや、疲れているから、癒される料理をなどと心身が望む、そのような状態で挑むべき食事では、決してない。
この料理は、そこに在る為、純粋にその為の料理なのであり、おかしな言い草であると感じられるかもしれないが、人が食べて美味しいかどうか、そんな目先だけの目的、それすらをも凌駕する、原初的意味合い、意義を以って、存在している。

勿論、人が創る物ではある、だがしかし、人が美味しく食べる為、人を癒す為、人が何か、利用できることの為、そんな、人の存在を意識して作られたものではない、在るべき原形、原初の美、もしくは、そのものではなくとも、それを想起させる存在、つまり、それは、料理であるという、それ以上に、おそらくは、荒々しいながらも、芸術と呼ばれるものであり、それが、一見、食べ応え、そして雰囲気だけであると、間々誤解され、軽く見られがちな、そんなブションの、日々体現する、刮目されるべき料理の本質、そして店の在り方なのだ、おそらく。

ブション フレンチ / 京都市役所前駅三条駅神宮丸太町駅
夜総合点★★★★ 4.0昼総合点★★★★ 4.0