こんばんは、ヨン様です。
皆さんは外国語は得意でしょうか。
中学の英語科に始まり、大学に行ったことのある人は第二外国語も習うことになるかもしれません。
大抵の人は英語の他に独仏等の文化言語や中韓などといった近隣アジアの言語を学習したことでしょう。
私自身は、英語をはじめとする外国語はあまり得意ではありません。
韓国語はともかく、それ以外の外国語は大抵発音も文法も日本語と乖離していますからね。
帰国子女や留学経験のある人以外では、非母語が得意だという人は少ない気がいたします。
ところで、外国語の学習と音楽の学習というのは、実は非常に似た側面があると思います。
というのも、どちらも「有限の規則の束を学習することによって、無数の音形式を生成する」という点においては、まったく同じだからです。
以下で具体的に説明していきましょう。
まず、次の日本語を例に外国語学習の場合を見ていきましょう(私たちにとってなじみ深い日本語も、非母語話者から見れば立派な「外国語」です)。
・太郎がスイカを台所で食べている。
良く知られているように、日本語はSOV語順をとる言語です。
名詞句に助詞を付加して動詞に対する格関係を標示するので、比較的語順は自由だと言われることがありますが、「太郎がスイカを食べている」に対し「スイカを太郎が食べている」というと、「スイカ」が強調されているような気がしてしまいます。
また、助詞は後置詞とも呼ばれることもあるように、名詞句の後に付加しなければならず、「が太郎 をスイカ で台所 食べている」という文は日本語で容認されません。
この点「Taro is eating a watermelon at the kitchen」という英語の前置詞とは対照的です。
さらに、「が/を/に/で/…」などのいわゆる格助詞(動詞との意味的関係を示す働きを持つ助詞)は、意味に応じて付加できる対象が決まっており、基本的には主語に「が」、目的語に「を」、場所に「で」などというような対応関係があります。
なので、先の文を「太郎をスイカが食べている」などと言ってしまうと、意味がまったく違う文になってしまいます。
厳密には格助詞と意味の関係はもっと複雑で、目的語に「が」が付いたりすることもありますが、ここでは脇においておきましょう。
すると、このような簡単な文を生成するだけでも次のような規則があることになります。
(説明の簡略化のため、「台所で」と「食べている」(動作進行)については割愛しています。)
S:太郎 O:スイカ V:食べる
(1)Sの後に「が」を付加する
(2)Oの後に「を」を付加する
(3)名詞句をS→O→Vの順に排する
→太郎がスイカを食べている。
単純な文であっても、全く知らない人が書けるようになるためには、これだけの前提が必要となるのです。
しかし、一見不経済に思えるこのような文法の優れている点は、この規則を使うことで、同様の構文(ここでは他動詞構文)を無数に生成できるという点にあります。
例えば、先ほどの規則を使えば次のような全く意味の異なる文を生成することが可能になります。
S:犬 O:幼女 V:ペロペロする
(1)~(3)を適用
→犬が幼女をペロペロしている。
この文は、用いられる名詞句と動詞を入れ替えただけで、文型はまったくさきほどと同じです。
にもかかわらず、描写されている状況はまったく違っているということがお分かりいただけるでしょう。
このように、外国語学習は「有限の規則の束を学習することによって、無数の音形式を生成する」という可能性を秘めているのです。
一方、音楽(より厳密には、西洋由来の機能和声音楽)のほうはどうでしょうか。
実は、音楽のほうも同じような性質を備えているといえます。
音楽において、言語の文に相当する単位は「カデンツ」ですので、次のような単純なカデンツを例として取り上げてみましょう。
(以下、コードネームによって和音を表記し、[]にくくります。)
・[C→F→G→C]
これはごくごく単純なハ長調のカデンツになります。
Cは主和音となるのでトニック(Tonic、T)、Fは下属和音なのでサブドミナント(Sub dominant、S)、Gは属和音なのでドミナント(Dominant、D)です。
ここで例えば順番を変えてみて、[C→F→G→F]などとすると、必ずしも悪いというわけではありませんが、カデンツが終わっていないような印象になります。
すると、「D→S」という連結は一般的に好まれないこと、また、カデンツの終止は原則としてTであることが分かります(実際には、意図的にそのような効果を生み出す「偽終止」などもある)。
一方、[C→G→C]、[C→F→C]といった連結が可能であることから、「T→D」、「T→S」、「S→T」はいずれも容認されることが分かります。
以上のことから、先ほどのカデンツは次のような規則によって導かれるものであることになります。
T:C D:G S:F
(1)Tは、DまたはSに連結する
(2)Dは、Tに連結する
(3)Sは、DまたはTに連結する
(4)カデンツの最後にはTを置く
→[C→F→G→C]
先ほどのカデンツは無秩序な連結ではなく、このような規則によって生成されたものと考えることができます。
もちろん、厳密には導音の処理やその他例外処理などがあったりするわけですが、おおむねこのような理解でも問題ないでしょう。
さて、重要なのは、このような規則があることにより、ある音組織において「T・D・S」さえ確定すれば、無数の音連結を生成することが可能になる、という点です。
少しだけ和音の数を増やしてみましょう。
T:C、Am D:G、Bdim S:F、Dm
(1)~(4)を適用
→[Am→Dm→Bdim→C]
多少変化球的ではありますが、このカデンツも自然な響きを持っています。
上述のような規則を想定すれば、ことのように無数の異なるカデンツを生成することが可能となります。
すなわち、音楽学習も「有限の規則の束を学習することによって、無数の音形式を生成する」という特徴を有しているといえます。
このように音楽学習と外国語学習は深いレベルで共通しているように思われます。
ただし、ここでは共通点のみを強調してきましたが、相違点も少なくありません。
一つ目は、言語形式は何らかの概念と結びついているのに対し、音楽形式にはそのようなことがないということが関係しています。
「イヌ」といって特定の概念、あるいは指示対象を想起することはできますが、「ド」の音からそのような概念を引き出すことは不可能でしょう。
音楽によって擬似的に対象を音写することはありますが、これ自体極めて臨時的な認知操作であり、言語のような体系性は有していません(これは言語におけるオノマトペ(音象徴)に近く、前言語的な形式に近いことをむしろ裏付けています)。
このような相違により、音楽学習は「母語」との対応付けが難しいという点において、言語学習よりも感覚的なものとなってしまう可能性があります。
二つ目として、音楽においては、「ネイティヴ」と呼べるものがいない、あるいは、極めて少ないということができるかと思われます。
即興を自在に弾きこなし、その場で与えられたメロディーに伴奏を付けたという天才モーツァルトほどの人物であれば誰もが「音楽ネイティヴ」と認めることができるでしょうが、音楽というものは言語ほど人間の認知活動にコミットしていないので、ネイティヴというものが極めて定義しにくいのです。
仮に言語におけるネイティヴを「当該言語の文法規則を完全に習得している人」と定義してみたとして、これに対応する「音楽ネイティヴ」とは「当該音楽の音連結規則を完全に習得している人」ということになりますが、これは検証可能なのでしょうか。
もちろん、このような定義では言語のほうのネイティヴも検証できるか怪しいのですが、「生まれてから日常的に使ったことのある言語」が追認しやすいこともあり、擬似的にこのような定義でも困ることはありません。
ところが音楽の場合にはそのような追認自体も困難であり、ネイティヴにあたる存在を見出すことは難しいといえるでしょう(なお、絶対音感とは「特定の音を絶対的に知覚できる」という感覚なのであって、「当該音楽の音連結規則を完全に習得している」ということとは直接の関係がないと思われます)。
つまり、外国語学習の場合には「ネイティヴから当該言語の文法を教授してもらう」という環境を整備しやすいのに対し、音楽学習の場合にはそれが相対的に難しいのです。
というわけで、少し長くなってしまいましたが、音楽学習と外国語学習の共通点について私見を述べさせていただきました。
「規則」というとなにか束縛されているような印象を受けますが、むしろそれによって共通の伝達手段が生まれ、自由に表現ができているのだともいえるでしょう。
音楽学習も外国語学習も、自由を得るための不自由として理解しておきたいものです。
それでは!
皆さんは外国語は得意でしょうか。
中学の英語科に始まり、大学に行ったことのある人は第二外国語も習うことになるかもしれません。
大抵の人は英語の他に独仏等の文化言語や中韓などといった近隣アジアの言語を学習したことでしょう。
私自身は、英語をはじめとする外国語はあまり得意ではありません。
韓国語はともかく、それ以外の外国語は大抵発音も文法も日本語と乖離していますからね。
帰国子女や留学経験のある人以外では、非母語が得意だという人は少ない気がいたします。
ところで、外国語の学習と音楽の学習というのは、実は非常に似た側面があると思います。
というのも、どちらも「有限の規則の束を学習することによって、無数の音形式を生成する」という点においては、まったく同じだからです。
以下で具体的に説明していきましょう。
まず、次の日本語を例に外国語学習の場合を見ていきましょう(私たちにとってなじみ深い日本語も、非母語話者から見れば立派な「外国語」です)。
・太郎がスイカを台所で食べている。
良く知られているように、日本語はSOV語順をとる言語です。
名詞句に助詞を付加して動詞に対する格関係を標示するので、比較的語順は自由だと言われることがありますが、「太郎がスイカを食べている」に対し「スイカを太郎が食べている」というと、「スイカ」が強調されているような気がしてしまいます。
また、助詞は後置詞とも呼ばれることもあるように、名詞句の後に付加しなければならず、「が太郎 をスイカ で台所 食べている」という文は日本語で容認されません。
この点「Taro is eating a watermelon at the kitchen」という英語の前置詞とは対照的です。
さらに、「が/を/に/で/…」などのいわゆる格助詞(動詞との意味的関係を示す働きを持つ助詞)は、意味に応じて付加できる対象が決まっており、基本的には主語に「が」、目的語に「を」、場所に「で」などというような対応関係があります。
なので、先の文を「太郎をスイカが食べている」などと言ってしまうと、意味がまったく違う文になってしまいます。
厳密には格助詞と意味の関係はもっと複雑で、目的語に「が」が付いたりすることもありますが、ここでは脇においておきましょう。
すると、このような簡単な文を生成するだけでも次のような規則があることになります。
(説明の簡略化のため、「台所で」と「食べている」(動作進行)については割愛しています。)
S:太郎 O:スイカ V:食べる
(1)Sの後に「が」を付加する
(2)Oの後に「を」を付加する
(3)名詞句をS→O→Vの順に排する
→太郎がスイカを食べている。
単純な文であっても、全く知らない人が書けるようになるためには、これだけの前提が必要となるのです。
しかし、一見不経済に思えるこのような文法の優れている点は、この規則を使うことで、同様の構文(ここでは他動詞構文)を無数に生成できるという点にあります。
例えば、先ほどの規則を使えば次のような全く意味の異なる文を生成することが可能になります。
S:犬 O:幼女 V:ペロペロする
(1)~(3)を適用
→犬が幼女をペロペロしている。
この文は、用いられる名詞句と動詞を入れ替えただけで、文型はまったくさきほどと同じです。
にもかかわらず、描写されている状況はまったく違っているということがお分かりいただけるでしょう。
このように、外国語学習は「有限の規則の束を学習することによって、無数の音形式を生成する」という可能性を秘めているのです。
一方、音楽(より厳密には、西洋由来の機能和声音楽)のほうはどうでしょうか。
実は、音楽のほうも同じような性質を備えているといえます。
音楽において、言語の文に相当する単位は「カデンツ」ですので、次のような単純なカデンツを例として取り上げてみましょう。
(以下、コードネームによって和音を表記し、[]にくくります。)
・[C→F→G→C]
これはごくごく単純なハ長調のカデンツになります。
Cは主和音となるのでトニック(Tonic、T)、Fは下属和音なのでサブドミナント(Sub dominant、S)、Gは属和音なのでドミナント(Dominant、D)です。
ここで例えば順番を変えてみて、[C→F→G→F]などとすると、必ずしも悪いというわけではありませんが、カデンツが終わっていないような印象になります。
すると、「D→S」という連結は一般的に好まれないこと、また、カデンツの終止は原則としてTであることが分かります(実際には、意図的にそのような効果を生み出す「偽終止」などもある)。
一方、[C→G→C]、[C→F→C]といった連結が可能であることから、「T→D」、「T→S」、「S→T」はいずれも容認されることが分かります。
以上のことから、先ほどのカデンツは次のような規則によって導かれるものであることになります。
T:C D:G S:F
(1)Tは、DまたはSに連結する
(2)Dは、Tに連結する
(3)Sは、DまたはTに連結する
(4)カデンツの最後にはTを置く
→[C→F→G→C]
先ほどのカデンツは無秩序な連結ではなく、このような規則によって生成されたものと考えることができます。
もちろん、厳密には導音の処理やその他例外処理などがあったりするわけですが、おおむねこのような理解でも問題ないでしょう。
さて、重要なのは、このような規則があることにより、ある音組織において「T・D・S」さえ確定すれば、無数の音連結を生成することが可能になる、という点です。
少しだけ和音の数を増やしてみましょう。
T:C、Am D:G、Bdim S:F、Dm
(1)~(4)を適用
→[Am→Dm→Bdim→C]
多少変化球的ではありますが、このカデンツも自然な響きを持っています。
上述のような規則を想定すれば、ことのように無数の異なるカデンツを生成することが可能となります。
すなわち、音楽学習も「有限の規則の束を学習することによって、無数の音形式を生成する」という特徴を有しているといえます。
このように音楽学習と外国語学習は深いレベルで共通しているように思われます。
ただし、ここでは共通点のみを強調してきましたが、相違点も少なくありません。
一つ目は、言語形式は何らかの概念と結びついているのに対し、音楽形式にはそのようなことがないということが関係しています。
「イヌ」といって特定の概念、あるいは指示対象を想起することはできますが、「ド」の音からそのような概念を引き出すことは不可能でしょう。
音楽によって擬似的に対象を音写することはありますが、これ自体極めて臨時的な認知操作であり、言語のような体系性は有していません(これは言語におけるオノマトペ(音象徴)に近く、前言語的な形式に近いことをむしろ裏付けています)。
このような相違により、音楽学習は「母語」との対応付けが難しいという点において、言語学習よりも感覚的なものとなってしまう可能性があります。
二つ目として、音楽においては、「ネイティヴ」と呼べるものがいない、あるいは、極めて少ないということができるかと思われます。
即興を自在に弾きこなし、その場で与えられたメロディーに伴奏を付けたという天才モーツァルトほどの人物であれば誰もが「音楽ネイティヴ」と認めることができるでしょうが、音楽というものは言語ほど人間の認知活動にコミットしていないので、ネイティヴというものが極めて定義しにくいのです。
仮に言語におけるネイティヴを「当該言語の文法規則を完全に習得している人」と定義してみたとして、これに対応する「音楽ネイティヴ」とは「当該音楽の音連結規則を完全に習得している人」ということになりますが、これは検証可能なのでしょうか。
もちろん、このような定義では言語のほうのネイティヴも検証できるか怪しいのですが、「生まれてから日常的に使ったことのある言語」が追認しやすいこともあり、擬似的にこのような定義でも困ることはありません。
ところが音楽の場合にはそのような追認自体も困難であり、ネイティヴにあたる存在を見出すことは難しいといえるでしょう(なお、絶対音感とは「特定の音を絶対的に知覚できる」という感覚なのであって、「当該音楽の音連結規則を完全に習得している」ということとは直接の関係がないと思われます)。
つまり、外国語学習の場合には「ネイティヴから当該言語の文法を教授してもらう」という環境を整備しやすいのに対し、音楽学習の場合にはそれが相対的に難しいのです。
というわけで、少し長くなってしまいましたが、音楽学習と外国語学習の共通点について私見を述べさせていただきました。
「規則」というとなにか束縛されているような印象を受けますが、むしろそれによって共通の伝達手段が生まれ、自由に表現ができているのだともいえるでしょう。
音楽学習も外国語学習も、自由を得るための不自由として理解しておきたいものです。
それでは!