こんばんは、ヨン様です。
一般的に、「ある」ことの証明よりも「ない」ことの証明のほうが難しいとされます。
「ある」ということは、一つの事例さえ取り上げれば証明できるのに対し、「ない」ということは、潜在的な候補となり得るすべての事例を確認したうえでなければ証明できないからです。
なので、「ない」という場合には、原則として「この調査範囲において」というような断りを入れなければなりません。
もし仮に世界の全事象を対象としなければならない場合には、「ない」ことの証明は相当困難でしょう。
私たちは「魔法など存在しない」と信じていますが、そのことを科学的に証明することは、厳密には不可能に近いことなのです。
このような、「ないことの証明」は「悪魔の証明」とも呼ばれ、一般に難しいものとされてきました。
では、「あることの証明」は方法論として容易なものであるといえるのでしょうか。
実際には、「あることの証明」も困難になる場合があるのではないかと思われます。
先に結論を言ってしまうと、「相関関係があることの証明」をする場合には、「あることの証明」が非常に困難になります。
例えば、次のような検証の流れを考えてみましょう。
①90歳以上生きた人は、平均睡眠時間が7時間であった。
②70歳までに死亡した人は、平均睡眠時間が6時間であった。
よって、平均睡眠時間を7時間としたほうが、長生きできる。
この結果を一見すると、「平均睡眠時間7時間」というファクターと「長寿」というものの間に因果関係があるかのように思われます。
しかし、この二つの間には、本当に相関関係が認められるのでしょうか。
ここで確認されているのは、「90歳以上生きた人は、平均睡眠時間が7時間であった」という事実だけです。
したがって、「平均睡眠時間が7時間であることにより、脳内の特定物質のバランスが安定し、結果として長寿となった」という可能性を排除できていません。
この場合、厳密には、「平均睡眠時間が7時間」であることは、直接「長寿」と相関関係にあるとは言えないことになるでしょう。
このような場合ならば、まだマシな方です。
なぜならば、「平均睡眠時間が7時間」であることは「脳内の特定物質のバランスが安定」することの必要条件になっており、間接的なレベルでの相関は認められるからです。
一方で、事実が「平均睡眠時間が7時間である人は、生活習慣の向上に意欲的な人であり、たまたま適度な運動と栄養食を好む人が多く、後者の要因によって長寿になっていた」ということだった場合、先の一般化はほとんど誤りであると言わざるをえません。
「平均睡眠時間が7時間」であることと「長寿」であることは、被調査者の生活習慣の傾向によってたまたま生じた重なりに過ぎず、本来的には何の関係もない(つまり、睡眠時間が長かったり短かったりしても、適度な運動と栄養食を習慣にしていたほうが長生きできる場合がある)ことになってしまうからです。
そして、このての検証を行う場合には、常に以上のようなリスクを排除できません。
つまり、ある現象Xと別の現象Yが頻繁に共起するからといって、それらの現象間に因果関係があるとは限らないのです。
もし真にXとYの間に因果関係があることを証明したければ、考えうる変数を全て検討しなければなりませんが、そんなことは現実的ではありません。
このように、「相関関係があることの証明」に関して言えば、「あることの証明」は極めて困難であると言えるでしょう。
では、「ないことの証明」と「相関関係があることの証明」とは、どう異なっているのでしょうか。
「ないことの証明」で問題とされていたのは、個別事例の確認、つまり「トークン(token)」の存在証明でした。
トークンに言及する限りにおいては、確かに「ないことの証明」というのは非常に困難でしょう。
しかし、「相関関係があることの証明」というのは、そのような意味での証明ではなく、むしろ「トークン同士の関係性に関する証明」ということになります(したがって、少しレベルが異なる証明であると言えます)。
このような場合、「想定しうるすべての関係」がほとんど無限にあるため、厳密な意味での証明が非常に難しくなってしまうのです。
「ないことの証明」の難しさはよく強調されますけれども、「あることの証明」も場合によっては難しいと言えるのではないでしょうか。
昨今の氾濫する情報に踊らされないためにも、「相関関係があることの証明」を喧伝するものには周囲したほうが良さそうです。
それでは!
一般的に、「ある」ことの証明よりも「ない」ことの証明のほうが難しいとされます。
「ある」ということは、一つの事例さえ取り上げれば証明できるのに対し、「ない」ということは、潜在的な候補となり得るすべての事例を確認したうえでなければ証明できないからです。
なので、「ない」という場合には、原則として「この調査範囲において」というような断りを入れなければなりません。
もし仮に世界の全事象を対象としなければならない場合には、「ない」ことの証明は相当困難でしょう。
私たちは「魔法など存在しない」と信じていますが、そのことを科学的に証明することは、厳密には不可能に近いことなのです。
このような、「ないことの証明」は「悪魔の証明」とも呼ばれ、一般に難しいものとされてきました。
では、「あることの証明」は方法論として容易なものであるといえるのでしょうか。
実際には、「あることの証明」も困難になる場合があるのではないかと思われます。
先に結論を言ってしまうと、「相関関係があることの証明」をする場合には、「あることの証明」が非常に困難になります。
例えば、次のような検証の流れを考えてみましょう。
①90歳以上生きた人は、平均睡眠時間が7時間であった。
②70歳までに死亡した人は、平均睡眠時間が6時間であった。
よって、平均睡眠時間を7時間としたほうが、長生きできる。
この結果を一見すると、「平均睡眠時間7時間」というファクターと「長寿」というものの間に因果関係があるかのように思われます。
しかし、この二つの間には、本当に相関関係が認められるのでしょうか。
ここで確認されているのは、「90歳以上生きた人は、平均睡眠時間が7時間であった」という事実だけです。
したがって、「平均睡眠時間が7時間であることにより、脳内の特定物質のバランスが安定し、結果として長寿となった」という可能性を排除できていません。
この場合、厳密には、「平均睡眠時間が7時間」であることは、直接「長寿」と相関関係にあるとは言えないことになるでしょう。
このような場合ならば、まだマシな方です。
なぜならば、「平均睡眠時間が7時間」であることは「脳内の特定物質のバランスが安定」することの必要条件になっており、間接的なレベルでの相関は認められるからです。
一方で、事実が「平均睡眠時間が7時間である人は、生活習慣の向上に意欲的な人であり、たまたま適度な運動と栄養食を好む人が多く、後者の要因によって長寿になっていた」ということだった場合、先の一般化はほとんど誤りであると言わざるをえません。
「平均睡眠時間が7時間」であることと「長寿」であることは、被調査者の生活習慣の傾向によってたまたま生じた重なりに過ぎず、本来的には何の関係もない(つまり、睡眠時間が長かったり短かったりしても、適度な運動と栄養食を習慣にしていたほうが長生きできる場合がある)ことになってしまうからです。
そして、このての検証を行う場合には、常に以上のようなリスクを排除できません。
つまり、ある現象Xと別の現象Yが頻繁に共起するからといって、それらの現象間に因果関係があるとは限らないのです。
もし真にXとYの間に因果関係があることを証明したければ、考えうる変数を全て検討しなければなりませんが、そんなことは現実的ではありません。
このように、「相関関係があることの証明」に関して言えば、「あることの証明」は極めて困難であると言えるでしょう。
では、「ないことの証明」と「相関関係があることの証明」とは、どう異なっているのでしょうか。
「ないことの証明」で問題とされていたのは、個別事例の確認、つまり「トークン(token)」の存在証明でした。
トークンに言及する限りにおいては、確かに「ないことの証明」というのは非常に困難でしょう。
しかし、「相関関係があることの証明」というのは、そのような意味での証明ではなく、むしろ「トークン同士の関係性に関する証明」ということになります(したがって、少しレベルが異なる証明であると言えます)。
このような場合、「想定しうるすべての関係」がほとんど無限にあるため、厳密な意味での証明が非常に難しくなってしまうのです。
「ないことの証明」の難しさはよく強調されますけれども、「あることの証明」も場合によっては難しいと言えるのではないでしょうか。
昨今の氾濫する情報に踊らされないためにも、「相関関係があることの証明」を喧伝するものには周囲したほうが良さそうです。
それでは!
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