「忙」しい。とは、
心(りっしんべん)を亡くすと書きます。
金曜日夜、福島にいた時、駅の前で、
ふと、とあることを思い出しました。
ずっと忘れていたのではなく、
年が明けてから、そして日が経ち近づく中で、
今年はいつに、、、と考えたりしていました。
でもこの1週間、忙しさや不調などで
実際に忘れていたんですね。
忙しかった、余裕が無かったのも事実ですが、
忘れていたという事実がちょっとショックでした。
人間は、忘れる生き物だと思います。
背負える分量というのは限られているのでしょう。
そのことを考えると、
人間というのは、今を生きることが
最も重要になるように作られているのだなと感じます。
極論すれば、1時間前、1分前、1秒前も過去であり、
今というのは今しか存在しません。
その今を生きることは即ち、過去が増えていくことであり、
でも増えゆく過去を、人間は全て背負うことは出来ないから、
今を生きていくということは、過去を忘れること、なのです。
でも、恐らくですが、
過去を忘れる、のではなく、
記憶の奥底にしまう、というのが正しいのかもしれません。
タイトルにも書きましたが、
時間はずっと流れ続けています。止まることはありません。
そして、戻ることもありません。
言ってみれば、グラフと言うか、一本線なんですね。
でも、不思議なことに、
人間の生活というのは、
1年365日というサイクルで動いています。
生きるということは一本の線であるという
厳然たる事実がありつつも、
実際は365日の周期で何周も廻り続けてもいるのです。
僕は今日、そこへ行く車中で
こんなことをずっと考えていました。
そして、大げさかもしれませんが、
このことは、人間のために
神が与えてくれたことなのじゃないかと考えていました。
実際には時が流れ続けているから、
廻り続けていると言っても、
例えばどんな日であっても、
その日当日と、1年前のその日、
そして10年前のその日は明確に違う訳です。
生きることで、進んだ分だけ、
後ろには過去というのがどんどん増えていき、
でも、それは持っていくには重すぎて
今を生きることが出来ません。
でも、それでは、人間は、
前だけ見て、過去を顧みない生き物になってしまいます。
だから、人生が、時間が一本の線でありながら、
神は、365日という周期を人間にあたえ、
たくさんの過去を、記憶の奥底にしまわせて、
その周期で、その過去を思い起こすことが出来る様にしてくれた、
そういうことなのだと思います。
同じことを繰り返していますが、
生きるということはそういうことなんだと感じたんです。
福島でふと思い出したという事実から、
その現実が、自分にも訪れているという哀しさを強く感じながら、
でも、結果、こうして、
それを忘れるということは無かったことも事実で、
今年も、そこで、忘れること無く、
そのことをちゃんと思い出し、振り返ることが出来たこと、
そのことに、多くの感謝と少しの安堵を感じました。
皆、今を生きています。
僕も今を生きています。
でも、過去というのは、今ではないから、
その場に止まってしまっているわけで、
上記の原理に沿えば、
その過去と自分の今の距離というのは、
だんだん離れていくことは事実です。
でも、過去はそこにしかなくて、そこに止まっているから、
今を生きる自分がそこに行かないと、思いを馳せないと、
そこにしか居られない過去がかわいそうな訳です。
でも、言い方を変えれば、
過去は常にそこにある、のです。
自分は今を生きていくために、
また、その過去のために、
来年も、またその先も、
またそこに立ち返りたい、そう思います。
自分の心を亡くさないために、
もうしばらく力を貸して欲しい、そう思います。