TAMO2ちんのお気持ち

リベラルもすなるお気持ち表明を、激派のおいらもしてみむとてするなり。

読書メモ:『高度成長 ――昭和が燃えたもう一つの戦争』

2013-11-30 10:59:00 | 読書
 『高度成長 ――昭和が燃えたもう一つの戦争』(保阪正康著、朝日新書=412)

 よく、高度経済成長は対米復讐戦に例えられる。それは一面真理である。それはどのようにして可能であったのだろうか? この本は主として海軍の経理を担う人材を輩出した「短期現役制度」の人材に注目して分析する。

 彼らは軍国主義を苦々しく思いながら青春時代を過ごし、青春を取り戻すべく、青春時代の理想をもって経済戦を闘い、勝利したということになろうか。また、同じ苦難を味わった者同士、横の繋がりも強かった。

 この時代に学ぶべきことは今でも多いと小生は思う。そして失ってしまったことも。とはいえ、日本のような国は輸出産業で外貨を獲得するしかなく、そのためには海外の資源を得、加工して輸出するしかなく、その構造は戦前に困難を齎し、戦後に成長を齎し、現在はまた困難を齎している。学ぶとすれば、戦前の歴史とセットにしなくてはなるまい。昭和15年体制という切り口で見れば、戦前も戦後も連続しているしね。その切り口ならば、戦前の失敗も、戦後も成功も、同じシステムの上のことだ。

 さて、いつも通り気になったことなど。



 序章は「軍事敗戦・経済勝利の構図」と題して。
・戦争に突入した14年と、高度経済成長の14年という対比がこの本の基調をなす。
・キーワードは「短期現役制度(短現)」。海軍が戦争の原価計算を行なうために発足させた。戦争は経済に規定され、原価計算で戦争のメカニズムを把握出来る。戦後、彼らは官庁で中堅ャXト、企業では中間管理職に、ひいては官僚トップや経営者になった。彼らの横の繋がりは強かった。総数三五五五名。
・著者は言う。「「勝つまで戦う」などというお粗末な戦争観で戦争を行う国があるか。こんな戦争を続けた軍事指導者たちは「万死に値する」」(p14)。だが、それこそ、日本的だと小生は思う。左翼を見るとねえ。
・そんな戦争に疑問を持ち、憎んだであろう短現の方々が、「「軍事」をシステムとして学んだその知識や技術をそのまま「経済」に合致」(p15)させたのが高度経済成長。戦前は反面教師として活用されたということか。
・高度経済成長は最初、冷笑でもって迎えられたのは有名だが、戦略と戦術が有効だったので実現した。「私はウソを申しません」は、裏に「もう国民を騙さない」というニュアンスがあったればこそ。
・長崎浩氏が詳しいと思うが、安保闘争の大衆的エネルギーを経済成長に転化させた。また、開始時期は石炭から石油へ、の変わり目であったことも大きい。
・理論は下村治。大蔵省のケインジアン。とはいえ、技術革新と設備投資の理論が主眼。池田を支えた宏池会は戦前の大蔵官僚が中心。彼らもまた戦争に疑問があったはず。

 第一章は「経済大国への道程」と題して。
・岸の退陣で政治の季節は終焉。池田のそもそもの体質はタカ派だが、混乱を収めることが最初の仕事。「貧乏人は麦を食え」と言い放つ性格に対する懸念もあった。
・十年間で「所得倍増」には、年率七・二%の高成長が必要。予算を増すためのデマゴーグと疑われたのも無理はない。
・「所得倍増」(当初は月給二倍)の言葉は中労委会長の中山伊知郎の論文が最初。福祉国家に進むべきとの論理から出た言葉。そのためには生産性向上が必要であるとも。(昭和三四年一月の読売新聞)
・知恵者・宮沢喜一や大平正芳がサラリーマンだけではなく農業や自営業者を含めるために「所得倍増」と言い、池田も従う。
・下村治は主流派の経済悲観論(構造的不況が日本を覆う)に対峙し、ケインズ理論を基に発展的上昇期に日本はあると唱え、所得倍増政策の骨格案づくりをする。そして昭和三五年十一月に「国民所得倍増計画」として具体化する。その根拠は、それまでの五年間、年率九%の成長率があったから。
・インフレ、農業の没落、インフラの不備、労働力不足など様々な懸念が出された。
・エンゲル係数の低下の分、教養と教育に回るだろうと予想されたが、それは当たった。
・強い指導力と計画経済まがいの計画性が高度成長を可能にした。計画経済まがいの実践は、公共部門の投資配分計画を初めに決めてしまうことにあった。方向性と重点産業の明示である。
・農業従事者は成長する鉱工業やサービス業に吸収され、農業の多角化が進み、そして生産性は上がったので農家の実質収入は増えた。農家のベースアップ可能な条件が揃っていたようだ。ミカン成金の時代だね。化学肥料や農薬の威力を見せつけた時代でもあった。
・石炭から石油へ色々なものが代わったのもこの時代。なお、石油の確保ということで混乱が生じ、高度成長も終わった。(石油ショック)
・下村は単純なパラメータ――産出係数を軸とし、設備投資比率や輸入依存度などで補正――を基に手計算で経済成長を予測し、それはズバリ的中した。昭和36年から46年の成長率は10.4%と予測されたが、実際は10.9%であった。
・池田、下村と共に、池田の秘書の伊藤の働きも大きかった。また、財界四天王を通じた経済界の支え、金融界の支え、ひいては労組の支えもあったと見るべきと著者は言う。そして何よりも勤労大衆の意欲。
・重化学工業化で輸出立国の素地が出来つつあった。経済企画庁の内国調査課長である向坂正男は貿易立国をアジる経済白書を昭和35年に書く。向坂逸郎の弟である。元満鉄調査部。彼もまた戦前ファシズムの時代に窒息していたエコノミストであった。
・下村は終戦直後に経済立て直しの理論を求め、激務を行なっていて胸をやられ、入院。そこで数学を学び、経済と数学を強く結びつけた独自の理論を構築する。その頃、日本のマル経の主流派――イデオロギーに凝り固まった連中だと小生は思う――は「資本主義万年危機論」を唱えているレベルだった。そんなバカサヨに対し論理的に反駁していた下村は教祖とまで呼ばれた。
・実務に天才を発揮した下村だが、アカデミズム(都留重人など)からは「追究能力に欠けていて学者ではない」と言われている。象牙の塔の時代だね。逆に都留らに、景気変動論の非現実性を追及していたらしい。
・池田隼人は数字で出来た世界を内部に抱えていたようだ。その数字は汗をかき、走り回り、泣く。
・伊藤昌哉は言う。「六〇年安保時の六月の国会デモをいつも国会の二階から見ていたんだ。それでこの国民のこのエネルギーを、かつての戦争のように、あるいはこのときの反対運動というか、革命的な意味だけに閉じこめるのはもったいない、なんとか経済に向けたいと思ったね。そうすれば日本は一気に活性化していくからね……。」(p66)

 第二章は「企業社会を生き抜いた庶民」と題して。
・まずは浅沼稲次郎追悼演説から。「沼は演説百姓よ よごれた服にボロカバン きょうは本所の公会堂 あすは京都の辻の寺」 浅沼の青年時代、仲間が作ったこの詩を、浅沼を尊敬していた伊藤が、二度読むように池田に頼んだ。
・高度経済成長の出発点における、首相と西尾(民社党)、江田(社会党)らの対談が面白い。著者の言うようにゴールは見えていないけど、しかし、お互いの問題点を明らかにし、結果的に建設的になっている。
・昭和三五年十一月の総選挙で池田自民党は勝利し、高度成長がスタートする。いきなり忘年会ブームとは景気がいいね。を、既に女子学生亡国論があったのか。んで、レジャーブーム、インスタント食品の登場、『何でも見てやろう』(小田実)という、新時代への号砲が鳴り響いた。
・石原兄弟の活躍、マイトガイ、赤木圭一郎、吉永小百合という映画スター、ロカビリー、三人娘。橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の御三家。大衆の「欲望」を商品化するシステムが出来てきて、日本社会はゲゼルシャフト化していく。核家族化の進行もあった。少子高齢化が問題になるのは昭和五十年代だからずっと後か。
・高度成長に入る前、怒涛のような突進を懸念した哲学者がいた。唐木順三。明治期を知る老人が昭和の終わり頃に言っていた。「戦前は戦争に突進し、戦後は経済成長に突進した日本。それ以前のゆったりした日本が懐かしい」と。それと重なる発言。昭和15年体制という見解は、著者も有している。
・「政治的暴力行為防止法」では強行採決を行なったが、反池田派の陰謀に嵌められたらしい。与党のほうが野党よりも浮ゥった。「政略に長けなければならぬ」と。
・設備投資は過熱し、原材料輸入による貿易赤字は膨れ、ライバルの佐藤(栄作)らが反主流派を形成する根拠となるが、池田は強気を崩さなかった。昭和37年の経済白書は宍戸寿雄らが執筆し、「転換期」という言葉が使われている。宍戸は東大工学部から海軍の技術中尉を経てエコノミストに。「橘花」のジェット・エンジンを設計した。
・「転換期」には、成長派と安定派が論争をした。安定派は既に曲がり角に来たと考えた。
・あの戦争について、「投下資本が全て無駄になる」と考えたエコノミストがいた。その穴埋めが高度経済成長であると言えなくもない。
・「参謀が戦略・戦術を立て、将校・下士官が作戦を立て、実行するのは兵士」という構図は、高度成長にも当てはまった。
・終身雇用、企業別組合は自社主義を齎し、それが好回転した。そして技術を身に着けた労働者はフローすると予想されたが、それは多分外れた。
・投資が投資を産むのは好況期のマルクス理論そのままなので略。まあ、象徴的なのは輸出産業に化けた自動車産業。金融への就職も人気があった。
・「昔陸軍、今総評」。アカの常として、経済成長分以上の要求をするが――彼らの階級闘争理論の必然ではある(チンシ、チンカリ参照)――、経営側は次年度にそれ以上の成長で原資を作った。なお、総評の闘いは中小企業の賃上げも産み、「賃上げの護送船団方式」となった。大田ラッパだね。合化労連の英雄。
・総評指導者は軍事に対しては強い抵抗を示すも、非軍事の社会主義政権を目指していたわけではなかった。多分、それは無理だと分かっていたのだろう。社会主義政権は武装しなくてはならないからね。なお、池田は暴力はアメリカに依存することを明白にしていた。
・池田の経済一辺唐フ姿勢は「トランジスタラジオのセールスマン」とドゴールに揶揄された。

 第三章は「十四年間の三つの時代」と題して。
・「中国人は空間に生き、日本人は時間に生きる、とよく言われる。(中略)(日本は)古代ギリシアに似ている。発展を線的にとらえる意識はほとんど西洋的といってよく、点から点へ全速力で移動する。」(メ[ル・ジョンソン『現代史』からの引用、p112)
・戦前の突っ走りも、高度成長も日本ならではと言えよう。確かにある種、効率はいい。
・著者は高度成長期を三つに区分する。「昭和35年から東京オリンピック:胎動期」「東京オリンピックから大阪万博:躍動期」「大阪万博から石油危機の翌年(昭和49年):終焉期」
・経済成長が軌道に乗り始め、池田は政治、特に外交に取り組んだ。西側の一員として世界の安定に寄与しようとした。
・とはいえ、キューバ危機の時はアメリカの立場に理解を示しつつ、貿易自由化(率で90%)の問題に忙殺される。企業の競争力にまだ疑問符が残っている時代であった。
・あ、孫崎さんが言ってた「ガン」だ。それをおして、東京オリンピックの開会式に。閉会式の翌日に退陣。後継指名は佐藤栄作。心残りとして、沖縄返還や日中問題があったようだ。
・東京オリンピックで東洋の魔女に熱中(決勝のテレビ視聴率は六六・八%)、新幹線が東京¢蜊繧l時間で結ぶ。マスプロの時代となる。次に高速道路網がやってくる。
・確かにアメリカに物量で追いつこうとしていた。だが、敗戦は物量の問題だったのか?と著者は言う。アメリカプラグマティズム(物質主義)には合理主義や理性主義が背景にある。そういうことかな?
・佐藤は官僚的思考をする人で、高度成長を資本の放縦と考えていたようだ。そして、高度成長の矛盾が出始める時に首相となった。矛盾に対して強圧で対抗することもあった。
・ベトナム戦争を支持し、輸出先はアメリカ。アメリカ依存の国家を固めたのは佐藤かもしれない。但し、沖縄返還の功労者でもある。
・田中の列島改造論について著者は物量主義的だと手厳しいね。
・さて、国民のほうは、物量的幸福に対する不安があった。敗戦でスッカラカンという記憶は新しかった。
・高学歴化、余暇時間の増大、三種の神器。「レジャー」という言葉が使われるようになった。「大きいことはいいことだ」創価学会などの新興宗教が伸長した時代。
・「人づくり=自国は自分で守れ」と言うと角が立つ時代。池田は願ったが、口に出さなかった。
・日本が債権国に変わったのは昭和42年、海外投資で利益を上げる企業群を擁し出した。それはアジア侵略の歴史を曖昧にする面があった。
・郊外に新興住宅街が出来、サラリーマンが都心に通勤するようになった時代。
・洗濯機、炊飯器は家事から主婦を解放した。この本では教養・教育に主婦が時間を費やすようになったと書いているが、むしろパートタイマーになったのでは、と思う。
・週刊誌が生まれた時代。「カネ・出世・エロ」。なお、余暇の多くを勉強に費やすサラリーマンも一杯いた。
・農村の共同体は解体の圧力にさらされた。宮本常一がそれを調査。農村のほうが先に乗用車が入ったという指摘は重要。
・公債乱発で戦費を調達した反省から、赤字国債を長く発行しなかった日本だが、昭和40年に発行して景気浮揚を行なう。きっかけは山一證券梼Y?
・昭和40~45年の間に、賃金は二倍に。万博が盛り上がったわけだ。
・この時期は革新首長の時代。老人医療の無料化、バスの無料化など、遅れていた社会福祉制度の充実が図られる。
・企業が国際競争力をつけるために大型合併も多かった。その背景には当時の経営者に主計将校出身者が多く、彼らには原価計算の大事さが身に染みていたからかも知れない。例外は自動車。
・一方、成長に取り残された人々が残っていた。だが、大多数は無視していた。そんな分裂に対して異議申し立てをする学生たちもいた。
・面白いエピソード。単語だけ。『素顔の日本』(河崎一郎著) 反日的日本人外交官。
・軍隊的組織論を採用した企業も多かった。

 第四章は「指導者たちの戦争体験」と題して。
・短現が始まったのは昭和12年12月。軍医、薬剤、主計、造船、造機の専門士官の養成が目的。海軍には主計将校が少なく、艦船が増えてもそれに見合う将校を養成していなかった。昭和13年4月から、20年4月までに13期生が入学。
・陸軍に優秀な人材を取られない、という意図もあったらしい。戦死者は408人で12%。
・「護送船団方式」は、最も弱い船に合わせて進むことを言う。彼らはマネージャーとして、横の繋がりを活かしてそれを成し遂げた。
・教育は徹底的な詰め込み。但し、落ちこぼれが出るのも当然として、最低限の力はつけさせるように、教官は使命感をもっていた。軍政、一般教養、主計科実務、兵学。OJTも含め、海軍の伝統を身に着けることを目的とした。平時においては日本の紳士たれ。
・アメリカ式経営も学ぶ。卒業生が後に経営に携わった時、アメリカ由来の教育カリキュラムを見て、経理学校と同じであると感じる。(佐分森雄『いまも実際に役立つ座学』)
・今で言う文書フォーマットも徹底的に仕込まれる。実務に生きる。「照会」「依頼」「報告」など。
・戦後日本の縦割り行政の弊害を、彼らは緩和した。交流会は『士交会』などの名である。期により異なる。こういう交流は、他には旧制高校とのこと。
・東条英機の政策を入試面接で批判しても合格。口先の「大和魂」はお呼びじゃない。タテマエの分析じゃなく、リアルな分析を叩き込まれる。戦争の行き詰まりも当然すぐに理解する。
・本土決戦の武器は「子どものおもちゃ」。
・特攻隊員は死ぬ意味=死に甲斐を求めていた。異様な眼光を放ち。特攻隊員を見た人たちも死に甲斐を考えるが、それは戦後強い生き甲斐に変わった。戦争の非人間性や理不尽を見た知性・理性が、トラウマを乗り越えるように高度成長を齎したと言えよう。
・を、東レの森本忠夫さんだ。昭和27年京大経済卒、東レにて社会主義圏の市場を開拓をした人。戦争の中の「日本人が演じたどうしようもない無知、愚行、狂気、錯誤などが自らの運命の選択をめぐってさえ、平然と行われたから」と批判しつつも、戦後についても「人々は、大企業や中央官庁への就職を人生のステイタス・シンボルと考え、日本的威光社会の中に埋没させられてきた」と批判する。戦中派の中でも高年齢層らしい見方である。
・第二次世界大戦期のアメリカは、軍事費が大いに伸びたが、GNPも凄まじく伸びた。主眼は対ナチスであった。アメリカには巨大な遊休設備と労働力があった。技術投資を有効に出来るノウハウがあり、自国で資源を確保できた。要はャeンシャルが莫大だった。一方の日本の軍国主義は「張子の虎」であった。
・自分のことより、国家的立場に立って働いたという点が、短現卒業生の特徴。
・次の森本さんの文章は、ここに起こしておく意味があると思う。


 当時の日本人は、アメリカ人の人種偏見、独善、硬直した対日政策などに挑発されて、全ての現実を無視することの出来る無思慮と、自己欺瞞と、神話に根差した楽観主義と機会主義に基づく希望的観測と、そして、ひどく複雑に屈折した対西欧コンプレックスと、さらに、日本人固有の恐武Sの変化(へんげ)とでもいうべき悲壮美への耽溺癖を交えて、遂にルビコンを押し渡ったのであった。

(p212)

 第五章は「噴出した日本社会の矛盾」と題して。
・佐藤栄作内閣は七年八か月続いた。吉田茂の弟子であるとともに、官僚出身の手堅さがあり、本質はタカ派だが余り表出しなかった。豊かさを享受しつつあった日本で、同時代で最も多く批判された首相かも知れない。
・日本はアメリカの支援の下で高度成長したのは否定できない。軍事負担を経済の面からもアメリカに任せ、経済成長に専念出来た。そして、国際情勢のエグいところ(ベトナム戦争など)については、アメリカ支持一辺唐ナあった。
・アメリカの国際競争力の低下について日本が無頓着であったというのは今となっては驚きだが、潜在的にアメリカをやっつけろ、という意識があったと小生は思う。
・昭和45年ごろの日本人は病的なほど軍事嫌いであった。著者はそれ故に経済大国になり得たという。
・アメリカのベトナム政策を支持する佐藤に抗議して油比忠之進は自殺した。
・四代公害病は高度成長の歪みを広く知らしめるものであった。宇井純の『公害の政治学』が有名。
・『日本列島改造論』は都市集中の歪みを糺し、地方への再分配の意図があった。また、共同体への渇望を刺激し、国民意識を涵養しようとしたと思われる。交通網や通信網の充実。但し、交通網の充実はストロー効果に帰着してしまった。
・日本各地に二十五万人都市構想! 街と職場の分離および近接。土地の買い占め、値上がり。
・高度成長は賃金上昇、ひいては福祉コストの上昇を招き、マイナス成長を招きかねない。内需拡大により、ここから脱出する意図があったのではないか。
・だが、石油ショックで列島改造も高度成長も終焉。
・全共闘運動の暴力性については年長世代は理解不能であった。戦争という究極の暴力を体験した世代にとって、「暴力に対する嫌悪からの解放」(p237)の現われは許しがたいものであったろう。他はスガ秀美氏らの論考と同じか。
・全共闘の破滅的暴力性と、特攻や玉砕に通底する問題は、日本の伝統の「反転」だと小生は思う。それはともかく、「知識人は<知行合一>を建前としつつも、現実には社会的に有効な存在たりえていなかったことが全共闘運動の局面では数多く見られた」という指摘は大事。日本で右翼や左翼の運動が広がりを見せない理由。とても難しい問題。
・「内なる帝国主義とどう闘うか」と吹っかけられて、会話を交わすことが不快になる著者。これはアャ潟A中のアャ潟Aであり、華青闘告発を受けて新左翼が破滅したことと重なる問題。
・大学が大衆化することで、知識人と大衆の図式は崩れた。本音と建て前の崩壊と言い換えることもできる。未だに旧左翼にはそういう図式が通用すると勘違いしている連中がいることは、頭が痛いが。
・カミソリ後藤田は「彼らの行動が法体系にふれたときは容赦なく取り締まる側にいた。(中略)思想についてを問うたことは一度もなかった。」と著者に答える。「あのときの国民的エネルギーというものは、国を発展させる源になりうる」とも。高度成長後の困難な時期に、全共闘世代は日本の変化に対して精力的に対応したのは確かだと小生は思う。
・明治100年を巡る対立は、日本のウヨサヨのいつもの通り、噛み合わない。
・司馬遼太郎は、当時の国民の歴史意識に左右問わず受け入れられたと思うが、それは描かれる人物の実直さを通じ、素朴な国家意識を確かめられたからだろう。1970年代までの日本の左翼は、愛国者であった。
・今太閤の田中角栄。物量主義の大衆の深層心理が生んだ首相。小生は、その先を考えていたと思う。官僚エリート系の首相が続いた後に、田中が出たことを「天津神(帰化人)」と「国津神(先住民)」の戦いに喩えた早坂茂三は見事だと思う。おまけを言えば、天皇は「外部=帰化人」であり、そこにこそ天皇(制)の矛盾はあると小生は思う。隼人族の末裔とされる母方の家系を持つ人間としては、それだけは書いておこう。
・再分配の一つとして、農業補助金を厚くした。でも、これ、世界中の先進国でやられているんだよね。TPPのあとでは、どうするんだろ。
・第四次中東戦争で石油供給のメカニズムが一部破壊。石油ショックだ。狂乱物価の記憶は結構ある。小生の場合は「チロルチョコ」で。あと、トイレットペーパー騒動。
・福田内閣は金融引き締めに走らざるを得なかった。「減量経営」を企業は余儀なくされた。同時に、機械化の高度化が始まったのもこの頃か。製造業の人余りは以後、基調となる。
・労働組合も厳しさを見て、労使協調路線が支配的となる。賃金インフレが大混乱を招くことを恐れたのだ。なお、共産党はイケイケドンドン、合理化反対!を言いまくり、組合からパージされた。これは、この本じゃなく、当時共産党パージに協力した当時の組合青年部部長=元上司から聞いた話。左派は職場で発言権を失っていった。当時の職場党員に話を聞けば、会社の攻撃と言っていたが、そうじゃないだろうと思う。資本の運動そのものを撃たないツケが来たのだ。
・さて、非常に豊かな社会に曲りなりになったが、精神の充足や文化的な生活という課題は、課題のままではないだろうか。

 終章は「得たもの、失ったもの」と題して。
・田中内閣が生まれたのは世界がインフレの波に洗われているとき。
・狂乱物価の時代、商社は「売り惜しみ、買い占め」を行なった。昭和48年は「福祉元年」と言われるはずだったが、財政に余裕なく、スローガンは立ち消え。
・戦争に突入した日本も、高度成長を成し遂げた日本も、同一の法則性・資質によったのだと小生は思う。ゆえに、高度成長を支えた人々は、あの戦争の愚かさが良く分かったのではないだろうか。
・天皇が象徴天皇制に収まったことは、日本の歴史からしても座りがいい。だが、憲法=近代国家に規定されることは、大御心を利用する=色々と勝手に「陛下はこう思われるはずだ」という思い込みを他者に強制する危険があると小生は思う。
・この時代を通じて、日本は海外のことを良く知るようになり、バランス感覚を養った。
・一方、そこから外れてしまう人々は、過激な政治運動、あるいは新興宗教に嵌ったのではないか。公害問題は結局、責任が曖昧にされた。これは原発問題で現在突き付けられている。弱者の恐喝が始まったのもこの頃だ。
・玉砕心理は新左翼に引き継がれた。だが、こういう心理は、武士道の観念化を継承したものであり、はっきり言えば消すべきでもないだろう。どんな世界であれ、最先端を担う人々はこういう心理になるものだ。周囲との関係の問題だと思う。
・カルチャーセンターが始まったのもこの時代。平成に入り、この時代を支えた人が受講しにくる。「どうして日本は、あんな戦争をしたのか、なぜ軍事主導体制になったのか、それを確かめ、納得するまで死ぬに死ねません」(p277)

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官僚・政商による社会の全面的包摂

2013-11-28 21:35:00 | 幻論
 まあ、特定秘密法とやらの目的は題の通りだろう。俺には別に軍靴のひびきなんぞ聞こえない。が、もっと恐ろしい足音なら聞こえている。


 現代の「戦争」は、いわゆる戦争の姿で現れることは滅多にない。そうじゃない。日常に入り込むからこそ、恐ろしいのだ。特定秘密保護法も、そういう眼で俺は見る。


 今のスパイどもは、日常の中の行為に対して目を光らせ、情報を得る。企業から、国家から。だから、これに対して「特定秘密法」で対応しようとすれば、当然のごとく日常全般に網を鰍ッられる可能性を残さなければならない。その意味で、安倍たんの基本的なスタンスは非常に正しい。

 を、時間がない。だから、「特定秘密保護法」は、運用監視こそが大事なのだ。但し、「何が侵害かは秘密」という穴だけは、是非とも埋めておかなければ監視さえできなくなる可能性はある。


 左翼のメインストリームについて「それは牽強付会だね」と生暖かく嘲笑しつつも、色々論じたいことはあるが、時間がないのでこれだけ。白土三平ネタだけはその通りだねと思った。
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歴史を切り開いた人は大抵犯罪者である

2013-11-21 19:58:00 | 幻論
 多くの明治の元勲の写真を見れば、分かる人には分かる。「あ、人殺しの面だ」と。さて。日韓馬鹿対決が丁々発止と政府高官レベルで行なわれている今日この頃、さすがの俺も韓国側の肩を持ちたい騒動が起きている。言うまでもなく安重根に対する評価を巡ってだ。

 小生の眼から見て、安重根による伊藤博文暗殺はアジアにおける大きな悲劇だと思う。伊藤公は、日韓併合に反対していたが、首相という立場ゆえに殺された。伊藤の死の理由は、彼個人の思想とは全く関係がない。だが、彼の政治とは不可分であった。政治、歴史とはこのような悲劇の重なりが随所に見られる。アジア主義の日本の右翼は、暗殺後、安重根の除名嘆願活動などを行なったという。当然のことであり、彼ら右翼こそが、近代日本の最良質の精神を育んでいたと小生は思う。

 安重根は、ささやかながらも抗日義勇軍である「大韓義軍」を組織し、そのメンバーとして暗殺を実行した。その点では、成果を挙げた優秀な闘士であると言えよう。小生が尊敬する数少ない戦後右翼の野村秋介氏も、安重根を尊敬していたとのこと。安重根の看守らは、彼の人格と見識に触れ、尊敬するようになっていったとのこと。まあ、こういうことは歴代のテロリストに多く見られることである。

 さて、安重根を「犯罪者」として単純に退ける日本政府の態度にはどのような意味があるのだろうか? テロは言うまでもなく犯罪である。だが、「犯罪者だから全て否定すべき」となれば、多分歴史上の人物の殆どは全て否定されるべきであろう。まず始めに、最初に書いた明治の元勲。どれだけ人殺しに手を染めていたか。「八重の桜」でも見るがいい。で、問題は誰にとっての犯罪か?ということになる。その時の支配者、あるいは政府にとって、である。そして苛烈で可塑性のない政策こそが、テロを生むのだ。これを無視する人間は偽善者か悪党かバカである。大日本帝国は大東亜戦争により手ひどい打撃を受け、敗北し、それを総括・清算することで天皇=国体は生きながらえることをアメリカに許され、そして戦後はある。ちなみに朝鮮は南北に分断され──「分断し」と小生は言いたいのだが──、南朝鮮は「大韓民国」を名乗り、アメリカの軍事的庇護の下に存在している。現在の日本国は(アメリカの力によって)戦前を否定することで存在を許されているのだ。だから、戦前に「犯罪者」とされた者の評価については、極めて慎重に行なわれなくてはならない。小生は、犯罪と評価は分けられるべきであると思う。

 こういう点から、現政府が安重根のことを単純に犯罪者呼ばわりすることの深刻な意味が分かることと思う。世界、特に日本の宗主国(笑)に対する挑発行為であるのだ。そして、大日本帝国の時代のルサンチマンを、今も抱えていることを示しているのだ。安倍首相は、意識してかそうでないかはともかく、反米的表出を行なっている。今回もそのようなものとして考えなくてはならない。少なくとも、国際社会はそう受け取るだろう。

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関西の恥

2013-11-17 23:42:00 | よしなしごと
ちょっと改変。こんなメールがやってきた。さすがに、ある意味俺より根性座っているだけのことはある。何より悪どい奴なのだ(笑)。



昨日ちょっと飲んでの帰り,近鉄のUL奈良行きの
DXシートに,べろんべろんに酔った70過ぎオッサン
3人組が乗ってきた.酔っ払いなので,うるさいのは
仕方なかったが,車掌検札で「DXシートは700円です.
2号車以降なら500円です」という丁寧な説明に対して,
「700円はたかいやんけ,近鉄も食品偽装しとったやろ,
100円ぐらいまけぇや」とジャイアンのようないじめを
し出す.鶴橋を出て,花園位までオッサンどもが騒いで
いたので,便所に行くふりをして,通りがけに
「うるさい」と小声で言ってやった.戻ってきたら
車掌とまだ揉めているし,案の定,俺にも食ってかかって
きた.

「酒に払う金があるなら700円位おとなしく払ったらどうだ,
くそxxx!てめえ,みたいなのが日本社会を悪くしたんだ」
と言ってやった.一番酔っていたオッサンが
殴りかかってきたので,車掌が「生駒駅で係員を手配して
事情聴取します」と言ったら,ちょっとおとなしくなった.
おりたのは,3人組の中で一番冷静なオッサンで,生駒線に乗り換える
奴だった.こいつには,別に腹は立っていなかったから
淡々と駅員に説明したが,手を出してきたオッサン,不安になった
のか,このオッサンの携帯に電話してきよったわ.

中小企業のオーナー社長オッサン連中に見えたが,
関西人は自分が悪いことをしていることを指摘されると,ホンマ
よう逆上する.特にべろんべろんに酔ったオッサン,そのうち
会社を潰すのではないかと思った.


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今の「反日」云々の背景にある話

2013-11-17 10:19:00 | 幻論
 ツイッターから、転載。


 大事なことなので、某リプをここにも。「真っ当な批判さえ差別とわめくバカサヨが増えたのは、佐々木俊尚氏が指摘した通り、1970年代からですね。同和教育を受けた人間としては、バカサヨには権力を持たせては絶対にならないと思います。」

 前ツイート関連。華青闘の告発は真っ当な日本新左翼批判であったが、それへの応答については、新左翼全体が大失敗。ここに新左翼への大衆の不信感の根源の一つがあると俺は思っている

 とはいえ、難しいのは、「正解」は多分ないということだ。極端な話、日本人が滅亡することだけが「正解」たりえる問題だ。

 その理路でいくと、革マルなどの一部の、華青闘の告発そのものを批判した「猛者」を除いては、日本の新左翼がいわゆる「反日」になったことは、誠実なことであったと言えるが、同時に、彼らは日本人から憎まれる存在になったということである。

 俺は何度も書いているが「理想」「誠意」「誠実」なんてのは、大抵の場合人殺しに行きつく危うさがあると思っている。

 そして新左翼は、日本において彼らが主導権を握って革命をすることの資格を失った。彼らの誠意ゆえに。こうして、彼らは自分殺しに走った。やるせないが、これが俺の結論。



コメント (2)
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