TAMO2ちんのお気持ち

リベラルもすなるお気持ち表明を、激派のおいらもしてみむとてするなり。

読書メモ:『日本に絶望している人のための政治入門』

2015-09-29 21:17:00 | 読書
 『日本に絶望している人のための政治入門』(三浦瑠麗著、文春新書=1010)

 日本の政治的課題がはっきりと書かれていてその点は好感が持てるし、多くの処方箋に同意するが、著者の立ち位置が広い意味でのリベラルである点は鼻に着いて同意できないことも多い。「泥の底をのた打ち回る現実主義では、結局現実追認にしかならず、それは絶望を深めるだけだ」と言いたくなる。だがなあ。絶望の果てにしか希望はないと、かのガタリもどこかで言ってたなあ。

 あ。圧涛I共感を覚えた文章を貼っておこう。

 「何事も話せばわかるという思い込みがあって、それが民主主義の成熟を妨げている」「政治の本質は闘いであり、友敵概念」「平和や人権というものが、いかに危うい基盤の上にあるかというう自覚こそが民主主義を力強くする」(P170)


 第一章は「不毛な左右対立を超えて」と題して。

 まず、著者は政治に関する思想を貫くものとして「Compassion(相手の立場に立って感じること)」が大事だと言う。これは、政治学の基礎であるカール・シュミットの「友%G理論」と対極にあると思うし、日本的で良い。ちなみに「Con=共に、Pati=苦しむ」が語源とのこと。そして「本当の敵」は無意識レベル、感性レベルにあることを、女性問題を通じて著者は提示する。大事なことなので引用する。この国の絶望の深さはここに現れていよう。


 現在の日本は、かつて総理もなさった政治家の「日本女性には大いに活躍してほしい……特に茶道や華道の分野で」という趣獅フ発言が別段問題にならない国です。でもこの女性らしさというものを定義した発言によって、どれだけの人たちが疎外感を覚えたでしょうか。この絶望感、わからない人にはわからないのです。
(p13)

 分からないことは分からないとしても、分かろうとすること、「共に苦しむ感覚」が足りないのではないかと著者は言う。本から外れるが、小生と若干付き合いのある保守政治家はこの感覚がある一方、とても薄い付き合いがあるが、今や疎遠になった革新系の政治家には欠落している。断言する。彼らは所詮「名付けられた弱者」にのみ共感を持ち、マジョリティーはアウト・オブ・眼中なのだ。こんな革新系の政治家ばかりでは、革新系は永遠に保守に勝てない。

 日本のリベラルの行き詰まりの理由は、一国主義と競争の拒否、変化への拒否にあるという指摘は正しい。今や「否定形」でしか物事を語れないのでは、事態を変革など出来まい。

 保守は一方、「泥の底をのた打ち回る現実主義」に囚われている。そこからは理想が見えない。そこにつけ込むのが戦前の美化である。かくして、リベラルも保守も先を提示できなくなっている。ここに日本の政治的状況への絶望の理由があるのだろう。

 戦後のリベラルな輿論は右派を弱者の側に追いやった。今は安倍首相の時代、右派はリベラルへの復讐を行なっている。弱者憑依したリベラルや左派(by佐々木俊尚)と弱者ャWションを奪い合っている状況。そしてどちらも排除の論理に突き動かされている。リベラルが大衆に見捨てられた歴史的過程を、保守派がトレースしている。(部落解放同盟の糾弾闘争が、大衆、特に被差別当該に支持されず、被差別当該に解同が見捨てられたがごとく。)「少数派が排除の論理を使い続けることは、自らの首を絞めることに他なりません」(p52)

 世界基準で見れば、日本には小さな政府主義者もタカ派もいない。鋳?ス蔵氏は慎重派に分類されるし、安倍政権は防衛費の縮小傾向を止めただけだ。(そして、「戦争法案」というデマ宣伝が為されている安保法案は、日本独自の戦争が無理であることを示している。)その上で「日本の右傾化」が言われているが、これは良くて国内宣伝、せいぜい日中韓のコップの中の争いに過ぎない。また、日本の保守主義(小生は盆栽保守とどこかで言った)は、「国民の間に定着している戦後民主主義の果実の上に築かれている」(p60)のである。

 リベラルが戦後民主主義の申し子であるのは言うまでもないが、保守主義も一ひねりして同様なのだ。


 第二章は「日本政治を可視化する」と題して。

 日本には大きな分断がなく、本来二大政党制は向かない。基本的に保守しか存在しない。民主党は利権を握らずに本格政権になろうとして失敗した、小沢一郎の躓きもそこにあるという指摘はその通りだ。だが、分断は今や出来つつあるのではないか? 正社員や経営層とそれ以外、という分断である。これについては後の章で。

 GHQ以降、アメリカが戦後リベラリズム、特に保守リベラルを主導し、日本を反共防波堤に作り替え、権威主義を破壊した。保守リベラルは保守本流となった。(私見だが、近年の安倍への強い支持はそれへの反発があると思う。)リベラルとは社会のサヨク化であり、福祉の充実に代表され、それは「ばらまき」行為に帰着する。著者は日本において、統治利権(中間階級出身の官僚たちや政治家)は経営層の経済利権が別であり、つかず離れずであったことを指摘する。二大政党制をするなら、統治利権と経済利権の代表になるだろう、とする。自民党は両方を包摂してバランスさせた。小泉は統治利権を敵に見立てたが、結局はパフォーマンスだったかな、と小生は思う。維新は反エスタブリッシュメントで、ここでは反統治利権に根拠があることになろう。没落都市大阪で強いのも頷ける。ツールは国際標準的な「明示化」と「試行錯誤」。(私見だが、そうは言っても橋下一派には別の利権の強烈な臭気を感じる。それがなければ、もっと支持は集まるだろうに。)著者は好意的だね。論理で突き詰めたらそうなるかもね。アベノミクスで大事なのは第三の矢=経済成長戦略。手は打ってるが、結果が出るのは先だ。安倍の狙いは経済成長による日本人の自信の回復だと著者は見ている。また、それを踏まえた財政健全化、と。そして著者は安倍内閣にかなり大きな期待をしているように思う。偉大な政権というものは、その国がもっているくびきを乗り越えるための努力にあるという。安定政権である安倍内閣には可能ではないか、と。それは歴史問題のことでもあり、アメリカが後退する東アジアで主体性を発揮すること。開かれた保守として、国際社会の普遍主義的な政策を志向すること。外と功利主義的に渡り合うにしても、背骨は歴史と文化という非合理の中にある。ここをどこまで理解しているかにかかっているのだろう。

 日本の選挙制は問題が多いにしても世界的にはフェアな制度である。民主主義は万能ではない。運動、陳情などによる直接民主主義の部分と、選挙による間接民主主義。どちらも大事。さらに言えば、民主主義を機能するには非民主的な部分が必要。選良は「ちゃんとしている人」が望ましい。要素としては器、共感力、経験、品、教養、政策の知識、面東ゥの良さ・・・。これらの比較において、自民党は勝利したのだ。(私見だが、確かに民主党をはじめ、他の政党は圧涛Iに負けている。)だが、著者は厳しい。安倍はちゃんとしているだけでは駄目だ、と。第三の矢はそんなことでは成果を生まないぞ、と。

 で。著者を少し批判。日本の二大政党は保守系のみになるだろうと予測。それは現状ではそうだろう。だがなあ。グローバルで世界標準化しつつある日本は、世界が要請するように、これからは古典的な階級闘争の息吹を感じるんだがなあ。それによる統一戦線的な階級政党が出来るのが小生は望ましいと思う。とはいえ、階級闘争の歴史を踏まえると、階級内部の統一は難しい。自民という大きな政党に対抗して、多くの階級的政党という構図になるかもね。


 第三章は「地方、女性、非正規」と題して。

 著者は増田寛也氏の「若い女性を地方から東京に出さないようにしなければならない」という言葉を批判する。これは女性の個人の選択を抑圧する言説であり、「産む機械」と同根であると批判する。両方の発言とも良心的な人から出たところが根深い、と。これは「自分とは違う集団に対し共感を持つことがいかに難しいか」の例である。彼らは地方経営のプロであり、彼らの仲間が日本の地方を経営している。女性にせよ、保守論客の中にも(私見だが、曽野綾子さんだな)自分の恵まれた特殊性を棚に上げて他の女性に共感が持てない人がいる。もう、高度経済成長の手法は通用しない。が、その惰性が続いたのは、マジョリティーへの共感ゆえか。ここで維新と橋下が登場するが、彼らに欠落するのは共感能力だと小生は思う。

 アベノミクスの第二の矢は地方創生=地方の自立である。グローバリゼーションによる国際基準の評価からすれば、安倍内閣のスピードは遅く見えるが、一面仕方ない。著者は地方のエリートと太いパイプのある石破に期待するが、旧態依然の中央によるコントロールでは地方の自立にならないとして豹変を期待する。で。かなり大胆な案を出されているが、これ、地方間競争による地方総破滅になりかねないね。知恵を絞らねば……(オレモナー)。その上で、政策受け入れに住民投票、中央のコントロール下にないエリートの厚遇は良いと思う。かつて冗談半分で言ってた廃県置藩だな。なお、日本の財政破たんがあるとすると、IMFでも対処できないとのこと。

 非正規労働者の権利については右も左もきちんと向き合っていなかった。それはグローバリゼーションへの対応の困難さに由来する。国民国家の枠組みで解決を図るスキームは戦後形成されたが、グローバリゼーションによって今や機能不全に陥っている。貿易立国日本で鎖国は無理だ。一方、国際資本の利益を保障するのは国民国家(安全、衛生、教育)に依拠する。とりあえずは、国民国家内の公平を担保する仕組みを作らなければならない。セームワーク=セームペイなど。しかし、それがゼロ逓減しないためには、小生は国家を超えたルールが必要だと思うのだがなあ。まさに国際的に民主主義と向き合うことだ。

 「女性活用」政策。どうも評判は良くない。戦後のフェミニズムは個人主義に基づき、法的平等を獲得し、保育施設の充実、介護保険の導入に結実した。だが、日本は専業主婦が分厚くいたので、富裕な専業主婦に受け入れられやすいものとなり、路線対立を抱えた。(私見だが、シングルマザーと専業主婦はネットでも対立しまくっている。)また、日本的文脈になるが、出生率の低下は共同体の維持を危うくするレベルであり、それは個人主義の限界を示している。どういうことか? 西欧では女性の社会進出と出生率の向上を両立させているが、働く女性への支援が薄い日本ではそうはなっていない。そして、「共同体の死活的利益に対して無関心な運動に支持が集まるはずがありません」(p149) 悲しいね。著者は共同体の利益を重視する発想=共和主義を訴える。子育てはみんなでサメ[トする政策にすべき、と。その通りだと思う。


 第四章は「外交・国際情勢」と題して。

 安保法案の泥試合。まずは著者の専門である外交の観点から。そもそも、国際常識的には相互援助=集団的自衛権は常識だ。私見だが、アメリカは日本の独自武装を恐れていて日米安保の片務性を是としていた。だが中国の台頭でそうも言ってられなくなった。ワシントンのアマチュアだが、本当の権力者たちには集団的自衛権は当たり前のことだろう。残酷な暴力が世界にはある。それと向き合うには積極的な介入が必要というリベラルなタカ派と伝統的な国益の立場から抵抗する保守、というのが世界の論調の構図である。著者は「どのような犠牲の下に行われるのか」という問題意識から両者逃げていると訴える。それは今や傭兵的階級によって支えられている。日本では自衛隊を道具とみなしていて、そこに生きる隊員たちとしっかり向き合った議論は余りにも少ない。「少し観念論は脇において、共感をもった議論が行われる時期にある」(P159)のではないか、と著者は言う。次の著者の話には小生は納得できない。小生は今出ている安保法案を通すには改憲をすべきという考えだが、著者は「立憲主義を方便とした現状維持であるのが見え見えだ」(P160)として斥ける。確かにそういう人がいないわけではない。だが、憲法が国家の至上法をないがしろにする国家を、誰が信用すると言うのだ? そもそも、自衛隊が出来た時に改憲に取り組むべきであったのだ。これは「立憲主義を方便とした日本の民主主義に対する軽視」(P160)なんかではなく、小生の立場は民主主義を重視するが故なのだ。申し訳ないけど、著者の考えは「泥の中を這う現実主義」だと断じざるを得ない。この辺の自分の考えはこちらに。
http://red.ap.teacup.com/tamo2/2104.html
(こんなに長くないが、これを圧縮したものが愛媛新聞に掲載されたw)

 ちょっと区切って。自衛隊という憲法九条と対立する存在を正当化する議論はガラス細工であった。情勢の変化でそれは壊れつつある。立憲主義は、民主的に選ばれた首相に示されるコンセンサスと対立するまでになってしまった。その上で、今までガラス細工を支えてきた人を追い込み過ぎず、ガラス細工を壊す代わりにグレーゾーンを作るしかないのではないか、という。いや、それって結局、バカ護憲を甘やかすことでは?? 次に感情の問題(感情的化学反応)。中韓の集団的自衛権への反発は却って日本人を賛成に追いやる。アメリカは更なる「貢献」に賛成しつつも、独自の判断で動くことに居心地の悪さを感じている。安倍の論理を歴史修正主義と警戒するリベラルもいる。リベラルの声が伝えられるほど日本国の賛成が増えるのは中韓への日本の反応と同じかな。で。著者の主張はまあ妥当かな。集団的自衛権を認めた上で、「国際的な問題の解決につながらない武力行使や、国内的な不正義に支えられた武力行使に反対する国家=平和国家というのが日本の進むべき道ではないかと思っています。」(P166)

 次に左翼および民主主義について。「何事も話せばわかるという思い込みがあって、それが民主主義の成熟を妨げている」「政治の本質は闘いであり、友敵概念」「平和や人権というものが、いかに危うい基盤の上にあるかというう自覚こそが民主主義を力強くする」(P170)圧涛I共感を覚える。左翼のロゴス主義とは馴染みが悪いね。で。日本には分かりやすい形での分断がほぼないが、歴史認識と安全保障を巡る観念論が分かりやすい分断であり、そこに左翼は注力してしまっている。だが、落ち着いて考えれば地方、女性、非正規とそれ以外という大きな分断がある。そこを戦場(闘争の場)とすべきではないかと著者は訴える。全くである。

(三浦さんが論争の一つの焦点になっているので、途中で止めた詳細な読書メモを貼る)
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数学は定理の理解が大事

2015-09-27 10:52:00 | 工学
 いやあ、特にテンソルにおいて。抽象度が高いと、何度も定理を読み返さなくてはならないようだ。

 恥ずかしながら、添付ファイルがどうして証明になっているのかが分からなかった。

 以下は『テンソル ―科学技術のために―』(石原繁著、裳華房、p29)
 (確かクルル曹長に勧められた本、あ、曹長、共変、反変はまだ先だからな!)



 で。スカラーの定義に帰る。p13にはこうある。「どんな直交座標系に関しても同一の値をもつ指揮を不変式、または不変量という。」「不変量を内面的な量またはスカラーという。」この二つの文章を逆から読むと「スカラーはどんな直交座標系に関しても同一の値を持つ」となる。(いいよね?) 座標変換がされても、不変量だから、添付ファイルのTiiはスカラー量である。

 テンソルは複雑な背景を持っているように小生には感じられる。何度も何度も立ち止まって定理に帰らなければならない。

tensor20150927.pdf
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908km

2015-09-27 00:09:00 | クルマ
一週間ごとに、土曜日〆で記録しようと思う。

日曜日に丸亀、月曜日に霧の森大福で有名な新宮、夜は三豊へ。金曜日と土曜日は坊ちゃんスタジアムへ。かなり走った。

なお、購入からのリットル当たりの走行距離は18.2km/L。


 あと。『権利のための闘争』(イェーリング著)読了。権利は人間の尊厳と結びついているので、人間の尊厳が脅かされるような事態であれば、損得を勘定に入れずに闘え、というのが第一の主張であった。

 『フランス現代思想史』(岡本裕一朗著)も読了。「自然科学」の言葉を弄するように至った経緯は興味深い。レヴィ=ストロースの段階では厳密な科学性(群論で血縁を説明)があったのだが。それから、フーコーによる真理の抑圧性は近代批判の肝だな。で、「千のプラトー」はロゴスの抑圧性を解体しようとして、迷走したんじゃないかな。なお、共産主義を今までと違う形で再構築しようとしている人がいるというのは心強い。アラン・バディウやジャック・ランシエールは有名だが、ジャン=リュック・ナンシーという人もいるんだね。

 『権利のための闘争』はいずれ読書メモを書くが、『フランス現代思想史』は気が向いたら。


 テンソルの学習は現在、『テンソル ―科学技術のために―』(石原繁著、裳華房)を勧めていてp55.ハミルトン・ケーリーの式の細かいところを証明しようとしてドツボなうw

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乗用車買い換えました

2015-09-21 11:17:00 | クルマ
 9月19日、納車。前の車は約122700kmで、ちょっとした事故(犯人は俺じゃないよ?)で廃車。もう少しで123456kmだったのに残念。

 そういうわけで、今後のカウントは新車で。ところで、エンジンは1200ccと小さくなっているのに、静かでパワーアップしているね。また、表示が色々と一杯あって、カーナビも昨日が一杯増えているね。

 昨日は香川に野球観戦。マンダリンパイレーツは悔しい敗戦。ナイスゲームだったのだが。

 あと。山田屋といううどん屋にはじめて行ってきた。讃岐うどんにしては細めでとてもいい。
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プロ臣民に日本は守れまい

2015-09-17 07:41:00 | 幻論
 SEALDsに期待する小生の友人が、イェーリングの『権利のための闘争』をSEALDsのメンバーには読んで欲しいとツイッターで呟いていた。そういうわけで、高校生の時以来となるが、小生も読み直している。

 これに関する読書メモは後日書くとして、まずは次の文章が印象に残ったので引用する。


 私権に関する個人の権利感覚が鈍感・臆病・無気力であり、不公正な法律や劣悪な制度に遮られて個人が自分の力を自由に、力強く発揮する場がなく、支持と助力を期待してしかるべき場合に迫害が行なわれ、その結果、不法は耐え忍ぶもの、どうにもならないものだという見方が慣れっこになっているとしよう。そんなに卑屈な、いじけた、無気力な権利感覚が、ひとたび個人ではなく全国民の権利が――たとえば国民の政治的自由の圧殺、外敵の侵寇によって――侵害されるや否や突如として敏感となり、精力的な行動に転ずるなどと、誰が信じられようか。
(p104)

 まず、国民の権利を守るために頑張っているサヨクを嘲笑しているだけの連中に国は守れまい。でも多分そいつらは歴史においてはどうでもいいのだ。そんなことよりも。これは若いSEALDsの諸君にお願いしたいが、自分たちの日常生活がある持ち場、そして社会に出たら出来てくるであろう立場においても、権利感覚を研ぎ澄ましておかしいことはおかしいと言い続ける勇気をもってほしい。それこそが国を守ることに繋がるのだから。国を守れる者、すなわち愛国者は今や左翼系のなかにしかいない気がしている。

 勉強して、勉強して、勉強しろ、と、小生の尊敬するレーニンは言った。闘うためには勉強が必要なのだ。頑張れよ! 小生もなるべく頑張る。
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