TAMO2ちんのお気持ち

リベラルもすなるお気持ち表明を、激派のおいらもしてみむとてするなり。

51715km

2019-09-29 23:59:00 | クルマ
51715km、通算燃費18.4km/L

四国の力w 
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51239km

2019-09-22 23:59:00 | クルマ
51239km、通算燃費18.1km/L

四国に行くと燃費が良い。
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50802km

2019-09-15 23:59:00 | クルマ
50802km、通算燃費17.7km/L

通勤くらい。
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読書メモ:『不登校からメジャーへ』

2019-09-13 22:07:00 | 読書
 『不登校からメジャーへ イチローを超えかけた男』(喜瀬雅則著、光文社新書=1022)

 この本の主人公、根鈴雄次を初めて見たのは彼が長崎セインツに在籍していた時。名前はずいぶん前に聞いていた。「日本人初の野手のメジャーリーガーなるか?」という報道で。その後、新潟アルビレックスBCに入り、何か問題を起こして長崎に来た、と。もう、伝説化していた。

 独特のルーチーン、ホームランの時のメ[ズ、三冠王松中を目の前で何度も見てきた目にも、勝るとも劣らない強烈なスイング、そして客からの野次や突っ込みに鷹揚に返す仕草。まあ、エンターテイナーであった。敵のファンにも愛されていた。

 本書を読むまでは不登校であったというのは知らなかった。思春期の心は脆い。特に、勉強も出来るような子は。家庭に困難があると成績が落ちるというのは小生も経験がある。根鈴さんの場合は野球が出来なくなるという形で出てしまった。自分にも経験があるが、自分じゃなく、周囲が「透明」に感じられるんだよね。鬱になると。何をしても「すかすか」な実感。根鈴さんは母親の叱咤で目が覚め、勉強を頑張って定時制高校で復活。そして野球への意欲が戻り、推薦で法政大学へ。彼はある意味強運だよな。高校の鈴木先生、大学の山中監督。日本は一旦ドロップアウトしてしまうと、非常に敗者復活が難しい。だが、彼はそれでも人に恵まれていたと思う。どちらも型に嵌めるのではなく、型を選ばせる、提示するタイプのようだ。いや、作るタイプというべきか。特に山中監督は、色々と「伝統」という名の縛りが多そうな東京六大学で根鈴さんを受け入れた。そして、化学変化を「面白がった」。生まれ出ずるは「G.G.佐藤」や「廣瀬純」。筋トレがまだ否定的に語られることもあった時代に、法政大学に根鈴軍団を作り、筋トレで後輩を改造させた。廣瀬さんには秋の「オールネーションズ」に来て欲しいものだ。根鈴さんは、道を切り開くべくメジャーに挑戦。しかしまあ、ご飯の質がまずくて爪に異常が出るとは、日本の独立リーグよりもマイナーは厳しいんだなあ。本書はイチローの人生と重ね合わせ、根鈴さんが彼と一瞬交差する様を描いていて、それが幻想的に見えた。イチローがデビューした年、根鈴さんは開幕メジャーの可能性がギリギリまで残っていたが、チーム編成の都合で残れず、即座にリリースされた。その後、ロッテや近鉄の試験を受け、近鉄の内定まであったようだが怪我でチャンスを掴み損ね、再びアメリカへ。懐かしい、えもやんのサムライ・ベアーズだな。ここでは日本の野球を変えたいと願う三好貴士と出会う。三好はその後、メジャーのコーチとなる。根鈴さんの意思の塊のような生き方は周囲に強い影響を与え続ける。そして、BCリーグ発足の時、ついに日本のプロとしてデビュー。だが彼はパフォーマンスもアメリカ流であった。そして日米文化摩擦を「首ちょんぱ(ギロチン・メ[ズ)」事件で表現してしまう。結果的にこれは、BCリーグ憲章というものが作られる方向に作用し、これは村山代表の力というべきか。なお、アイランドリーグにはこれに相当するものはない。アイランドリーグに移籍して数年活躍後、奥様の協力を得て野球教室を設立、そこにはオリックスのラオウ・杉本も通っているらしい。根鈴さんの夢は世界の野球に通じる人間を育てること。

 根鈴さんの生き方は、革命家の生き方だ。道なき道を、自分を信じて突き進み、そして後に道がある、ような感じ。横並びとコネがモノをいう日本社会と野球界に風穴を開けられるか。なお、高校野球を経験しなくても、クラブチームや独立リーグで育つ道もぼちぼち出来てきた。日本社会も多様性を必要としていることが認知されだしているように思う。根鈴革命に今後も注目。独立リーグも社会革命の一つだとみて、小生は応援している。

 ではいつも通りに気になったことなどをメモ。

・根鈴さんはイチローと同じ1973年生まれ。
・根鈴さんは中学生の時にパワフルな打撃で注目され、日大藤沢に入学、練習試合でいきなりホームランをかっ飛ばす。だが家庭の事情から不登校になる。
・「ホントに『こぼれた』という感じでした。そうです、一滴なんです。その一滴というのが、ホームランを打った時なのかな」(p17)
・「ああ、なんか、俺、間違ってないんだ。表現がしにくいですけど……。これでいいじゃんか。そう思ったんです。」(p18)
・根鈴さんにとって野球は基本的に遊び。だけど高校では年がら年中野球、始発に乗って練習。そういうのに面食らった。そういう理不尽を聞いてくれるはずの家族はバラバラ。ホームランを打った翌日にはベッドから立てなくなった。その翌朝は体温39度であった。
・根鈴さんを高校にスカウトしたのは鈴木博識氏。日大藤沢を初の甲子園に導くべく、根鈴の長打力に惚れた。根鈴さんはその熱意に賭けた。
・根鈴さんはプロレスが大好きで、マグワイアに代表される当時のMLBのパワーベースボールに惹かれ、そういう野球をしたくて中学生の時点で筋トレをし、ボディービルの専門書を読み漁り、筋肉の鍛え方を徹底的に研究した。
・鈴木監督はもう一人、根鈴さんの二学年上の右打者を鍛え上げていた。ヤクルトに入ることになる河野亮氏。のちに楽天球団の職員となり、星野仙一監督の送迎車の運転手に。星野の様々な思いを受け止める係となる。今はロッテの一軍打撃コーチ。裏方としての豊富なキャリアで人間力を見込まれたのだろう。
・河野氏の目から見て、根鈴さんはパワーだけでなく、投手が崩しに鰍ゥるところを我慢できる技術があった。ただ、日本の当時の常識的な打ち方とは異なっていた。今でいう stay back 打法。当時は差し込まれるとかアッパースイングになると言われていた。「明治の大砲」と呼ばれていた。
・リンゴを握りつぶした根鈴さんの握力は両手とも85kg。鈴木監督によると、村田修一以上の素質があった、と。
・根鈴さんは河野氏を見て、「このくらいにならないとプロは無理」と思った。河野氏はその言葉を知り、うれしく思う。河野氏は根鈴さんを見てスイッチが入り、練習量を倍にした。河野氏は根鈴さんに負けたくないと当然思っていたが、途中から頼もしく感じるようになった。甲子園に行きたい思いが強かった。
・根鈴さんの両親は教師。そんな堅い職業の父が知人の数千万円の借金を背負い、酒浸りになる。借金から逃れるべく、母は離婚する。夜逃げ同然で母と根鈴さんは家を出る。母は息子を守るために家を出る決断をした。
・そんな状況、高校の練習をしていた根鈴さんは痩せていく。パワートレーニングができないことも理由。合理的でないと思われる練習に対する疑問。「水を飲まないと危険ですよ」「アミノ酸を摂取させて下さい」。監督に意見することは常識的に許されない時代だった。
・鈴木監督は根鈴さんにないのは足で、フットワークを鍛えるビジョンがあった。投手として起用することも考えていた。大きく育てる意思があった。だが根鈴さんには伝わらなかったようだ。「俺の目指している野球じゃない」。
・野球しかないと緊張、というか、テンパった状態で根鈴さんは頑張る。その中で本塁打を放ち、落ちる浮ウを感じる。心がパキンと折れる。監督は今、言う。「ストレスをぶつける場所がなかった」と。
・根鈴さんは引きこもり、午前中はベッドに潜りこむ。昼夜逆転のひどい生活。一週間後に病院に行くと「自律神経失調症」との診断。なぜそうなるのか、国家も分析しようとするが実のところは分からない。the last strawに原因を帰着できない。
・不登校に陥った根鈴さんは週に1,2度、嫌いじゃない父の家に行っていたが、ある日、忽然と家が消えていた。キツい。
・根鈴さんはCDショップで万引きをしようとした。店長は通報せず、「人生って、太い川みたいなものだ「びゅっと、真っすぐ行くヤツもいるさ。でも、横に進んでしまって、はみ出て、ジグザグに行くやつだっているのさ」と諭す。根鈴さんは一番下と感じ、上がっていくだけじゃねえか、と思う。
・夏の甲子園の予選を、根鈴さんは部屋の中で見る。河野氏は根鈴さんが帰ってくるものと思っていた。だが、戻らなかった。が、快進撃。決勝は横浜戦。監督も奇策と言える河野氏の一試合投手三度起用、内野手五人制などで知恵を絞る。が、延長戦で負け。
・根鈴さんが新2年になる年の選抜に、日大藤沢は初の甲子園出場。根鈴さんは出席日数不足で進級できず。鈴木監督は「メンタルを整えて、もう一回、やり直しませんか」と提案。根鈴さんは受け入れ、トレーニングジムに通い、普通に通学する。そのジムの帰りに加藤諦三氏の『気が軽くなる生き方』という本に出会い、「過剰適応」「自己疎外」という言葉を知る。そして

「人生はこうあるべきだと思うのは、単に他人が自分にそのような人生を送ることを期待しているからにすぎないのではなかろうか?
 しかし他人がほんとうにそのように期待しているかというと、これまた必ずしもそうではない。他人がそのように期待していると自分が錯覚している場合が多い。」

という文章と出会う。主体的に人生を選ぶ根鈴さんの生き方はここに始まったように思う。
・勉強に集中した根鈴さんは、当たり前のように学年トップに。野球への復帰も順調。だが、根鈴さんが戻るということは、誰かがレギュラーから外れるということ。「ダブり」という中傷もある。根鈴さんは違和感を感じる。野球界(というか、日本では)ではコネが大事。鈴木監督もそのコネを利用した根鈴さんの復帰を考えていたが、主体を考えた根鈴さんはレールを拒否。人生をリセットしたく考え、アメリカに飛ぶ。費用は母親が出してくれた。

・ロスのリトルトーキョーに渡った根鈴さん。サンディエゴに移った時、スカウトのチェックを受けられるイベントに参加。鋭い打撃を披露するも「君はこれまで、どこで野球をやってきたんだ?」と言われる。ここでもキャリアを問われた。挫折。そんな日、リトルトーキョーで手にした雑誌に「大越基」の名前があった。
・どのくらい書いていいのか。小生が聞いた話では、大越選手は早稲田で強烈なしごきに遭って退部。一年で大活躍したのをやっかまれたらしい。大越氏はその時、渡米してハイディ古賀さんの「サリナス」にいた。その後、日本のホークスに入団。俊足のバイプレーヤーとして活躍した。大越は本流から外れても、それまでのキャリアでNPBに入った。が、この時は道から外れていた。根鈴さんは大越の這い上がろうとする姿に自分を重ねた。
・「サリナス」のオーナーは団野村氏。根鈴さんは入団すべく、鈴木監督に話を通してもらうように国際電話で相談。監督は根鈴さんの力強い声がうれしかった。大物だ。
・鈴木監督が懇意にしているシニアリーグのあるチームの監督が、野村サッチーと親しかった。サッチーは港東ムースのオーナー。GG佐藤の出身チーム。一応、鈴木監督から団野村氏に話は行っているはずだが、団氏は「そんなの、聞いてないよ」。だが根鈴さんは「サリナスに入れませんか」と単刀直入。話を聞いて団氏はいったん拒否するが、19歳と聞いて入団許可。団氏も若い時に何度も挫折を体験していた。今や団氏は信念の人で有名だが、野茂のMLB挑戦の時には叩かれていた。野茂の3年も前に根鈴さんはアメリカの野球の門を叩いた。その前、根鈴さんは手続き違いで高校に入学出来ていなかった。語学教師を見つけ、その紹介でなぜかソフトボールチームに。実力を見せつけると、バッティングセンターを紹介され(バスで2時間)、そこで快打を連発すると「ただでいいよ」。元メジャーリーガーの店だった。そして大学の監督に見いだされ、入学となるはずが、高校を出ていない、TOEFLのスコアもない、ということで入学できなかった。ここでもキャリア。そんな時、大越氏の記事を見つけ、団野村氏の紹介で「スカウティング・リーグ」に参加する。
・アメリカで免許を取得し、地図とくっぴきしながら、ブルージェイズのチームに参加。日大藤沢のユニフォームで。合格者だけが次の試合の予定が示される。そこでメジャーのチャンスがあると伝えられ、それが目標となる。ゴールから逆算すればやるべきことは見える。そして日本に戻ることにする。ブロークンイングリッシュも身についてきた。

・この段階では高校卒業、大学進学、将来メジャーという復活の青写真を描いた根鈴さん。高卒の資格は取らないといけないと、退学後も気にかけていた鈴木監督。日大藤沢の修得単位を使える高校として、東京都立新宿山吹高校を紹介される。2013年には単位制高校は974校あるとのこと。多様な選択肢という時代の要請に応える社会になっているのかもしれない。根鈴さんは大検を選ばなかった。資料を取りに日大藤沢に戻った根鈴さんを、二度目の一年の同級生が留年していて大歓迎。
・根鈴さんは山吹高校の夜の4部へ。英語を多めに。インターネットに出会う。喫煙しないが会話をするために喫煙所へ。年齢、職業、背景が皆違う。ここでは正直に話せた。ここで高校野球の監督になる夢を持つ体育教員の森勇二氏に出会う。森先生はバレーボールの監督を指導。体育の授業のバレーで根鈴さんを挑発(笑)。ともに汗を流し、同じ時間を共有することで、「一緒に楽しむ、みんなで頑張る」ことを先生は伝えたかった。根鈴さんは兄貴分になっていった。
・森先生が根鈴さんに勧めたのは、法政大学への指定校推薦。ほぼオール5。4年神様、1年奴隷の東京六大学に行く覚悟だけが問題。最初は社会人野球を考えていた根鈴さんは木のバットでやりたかった(社会人は当時は金属)。推薦をお願いし、合格。
・大学入学前に通った立川市の硬式の打てるバッティングセンターでは、ギャラリーができるくらい凄かったらしい。森先生はその後、都立昭和高に赴任し、生徒たちに根鈴さんのバッティングを教えている。2010年には東京都秋季大会でベスト4に。2016年には清宮のいる早稲田実業に勝利した。ャCントはインパクトの瞬間の回旋。「ヘッドを走らせる」だな。

・当時の法政の監督は伝説の48勝投手である山中氏。根鈴さんの経歴をみて戸惑う。時系列で並ばない、と。プロアマで輝かしいキャリアを積み、殿堂入りしている。だが山中氏は思った。「こいつを、本気で成功させてみたいな」と。
・異質の存在を伝統と格式の東京六大学に入れたら、どんな変化が起こるのか。その触媒が、今の法大には必要なんだ、と。ここで「プロアマ規定」という難題が出てくる。「プロでなかった」という証明が必要という、悪魔の証明めいたものが。ブルージェイズから取り寄せる必要あり。だが、星の数ほどのスカウティング・リーグの参加者の一人のために、そういうものを発行してくれるのだろうか? 入部は一時凍結。
・根鈴さんは山吹高校の先生の協力も得て、ブルージェイズに説明文と依頼書を送付した。返答が来るまで、さん根鈴授業にまじめに出た。推薦入学なので後輩に迷惑かけられない、と。夏休み、証明書(カナダからの手紙w)が来る。スカウトのジョン・コールの署名とともに。
・昔の法大の合宿所の一室に山中監督の部屋があり、根鈴さんは手紙を手に山中監督に入部の意志を伝える。監督は行動力と覚悟を見た。
・山中監督には言葉の力(三輪隆)がある。言い訳をさせない。考えさせる。しっかり振り返させる。そういうリーダーである。
・根鈴さんという異質の前には、指導者もまた柔軟に、勉強して、野球というもの、学生のことを考える必要があった。山中もまた、「悪魔の演技」をして、自分と根鈴さんに向き合った。23歳の新人を受け入れるとなると、雑音も多かろう。山中監督は世界と渡り合った経験から、知らなきゃいけないこと、変えなければならないことを感じていた。それが発展、進化だと。
・山中監督も、タテ社会で授業を二の次にする大学野球に疑問を持っていた。授業優先を選手に伝え、留学生などを体験入部させた。自分たちで考える選手に育てないといけない、という使命感。そこに異例の経験をした根鈴さんが現れた。
・山中監督は入部を許可し、世界を知る二人は互いの経験を語り合ったという。「思う存分やってくれたらいい」。
・入部したときの4年生の中に、高校時代の後輩が。ちなみに京大には四浪エースの中根さんという偉大な方がおられる。

・3年生の途中で合宿所入り。米国時代にアルバイトで車のディーラーのお手伝いをしていた時に、ディーラーが手配した3台のャ泣Vェのうち1台がキャンセルとなり、根鈴さんが中古の自家用車と交換してゲット。日本車の方が手っ取り早く現金化できるらしい。
・その黒いャ泣Vェの助手席に廣瀬純らは乗り込み、トレーニングジムに通う。体格、風貌、態度、車。一味違う根鈴さんw その懐に最初に飛び込んだ廣瀬純も一味違う。
・廣瀬さんにとって根鈴さんは「きっかけを与えてくれた人」。廣瀬さんの出身高校は山中監督の母校でもある佐伯鶴城高校。
・根鈴さんと廣瀬さんは学年は一つ違うが年齢は六歳違う。最初は絡みづらかったとのこと。「年上の不思議な人」。根鈴さんは3回生の時、代打逆転サヨナラホームランを記録している。(リーグ史上2人目) 塁上にいた廣瀬さんは衝撃を受ける。「違いは何か?」と。法大の米国遠征で根鈴さんは通訳の仕事をこなして遠征費を取られず同行。廣瀬さんと根鈴さんは遠征中同部屋。そこで廣瀬さんはじっくりと打撃論やトレーニング論を聞く。「目を見開かされるような話ばかり」と。
・それまでボールが飛ばなかった廣瀬さんは、「打てないと使えん」と監督から言われていた。そこで根鈴さんにウェートトレーニングを教えてほしいと志願。当時はまだウェートは無駄な筋肉がつくと言われていたな。「軸で回りたい。コマのようにぱーんと回りたい」。体幹に筋肉をつけないと無理というのは今の常識だが、当時はそうではなかった。周囲の危惧をよそに、廣瀬さんは狂ったようにトレーニングし、根鈴さんは全力で応えようとした。
・根鈴軍団はマリノスの選手も利用するジムに通う。そこには一般の人が近寄りがたいフロアがあった。肉体改造のためには胃を空にしてはならず、廣瀬さんは一日六食を。トレーニング直後の「ゴールデンタイム」に肉類・卵の白身・プロテインを摂取。廣瀬さんの体重は75キロから91キロに。そして田淵ネットを越すようになる。筋骨隆々の体に他校の選手が仰天する。パワーがついて振り負けないと、打席で余裕が出来る。そして戦後9人目の三冠王。
・廣瀬さんはファースト・ペンギンだった。セカンド・ペンギンはG.G.佐藤さん。元近鉄の阿部とのショートのレギュラー争いで勝てそうにないと思い、練習にさえ行かなくなった佐藤さんだが、根鈴さんが「お前、手足長いじゃん。ホームランバッターになるのを諦めちゃだめだよ」と声をかけ、佐藤さんは根鈴軍団入り。3時間ごとのプロテイン摂取w 部屋には男のボディービルダーの写真w そして打球が異常に飛ぶw ホームランの快感。それが広まり、補欠の体が異様に大きくなるw 「法大が来たら神宮が傾くよ」
・ただ、キャプテンの小坂将商さんは筋トレに抵抗があった。気遣いのできる繊細なリーダーというのが小坂さん。副キャプテンが根鈴さん。小坂さんはインパクトの瞬間の根鈴さんの手の動き(回旋)に注目していた。「インパクトの時、少しひじが曲がっていないとだめなんです」。なお、根鈴さんは小坂さんに筋トレさせたかったようだ。根鈴さんがやってた筋トレの重要性に小坂さんが気付くのは、パナソニック入社後だった。逆方向の右中間にホームランを叩きこめるようになった。今、小坂さんは智弁学園でウェートトレーニングをさせている。そして、巨人の四番の岡本が育った。
・根鈴さんの生き方にも感化された佐藤さんは、アメリカの野球に挑戦。フィリーズのトライアウトには根鈴さんも同行。廣瀬さんのドラフト指名の報告は、筋トレに向かう黒いャ泣Vェの中で廣瀬さんと根鈴さんがいた時に。体育会の体質に合わないはずの根鈴さんは面東ゥの良い親分肌だった。 佐藤さんは3年間アメリカ野球に挑戦(最高はシングルA)し、その後西武の7位指名。西武退団後、イタリアへ。これも根鈴さんの考え。そしてロッテへ。
・「可能性はみんなにある、決めつけちゃだめだ」(佐藤さん、p206)
・「あいつの歩んできた道はぐちゃぐちゃだったかも知れないけど、そこに芯が通っていた」(根鈴さんを小坂さんが評する) そして時代は根鈴さんに追いついてきた、と。フライボール革命だ。
・卒業時、山中監督が根鈴さんに勧めたのは新設校の野球部の監督だった。だが断るw アメリカで勝負したい、と。監督は「やっぱりか」と思う。

・アメリカでの根鈴さんの挑戦はドキュメンタリーフィルムとして残っている。作ったのは鎌田雄介さん。鎌田さんは1997年に単身渡米、99年末にフジテレビのニューヨーク支局に採用され、日本人メジャーのビッグネームを取材していた。注目度が高いメジャーリーガー相手では独自のスクープが生まれない。そんな頃、上司に根鈴さんの記事が書かれた雑誌を渡される。根鈴さんの在籍したアカデミーに電話をすると「あいつのバッティングは、すげえぜ!」
・そこでわずかに空いていたスケジュールの隙間で取材。日本語を話せることが嬉しかった。すぐに意気投合。鎌田さんはアメリカ野球文化の深いところを伝えたかったが、根鈴さんを通じてそれをしようとする。鎌田さんの行動力に感じ入った?エクスャY(根鈴さんが所属)傘下のマイナーチームのスタッフや選手は、鎌田さんに近づいてくるようになる。かなり細かいことまで取材可能になる。パンチョ伊東氏の薫陶を受けていた鎌田さんはすっと飛び込めた。関係者オンリーのところで撮影出来るまでに。2001年のアレまでは。
・根鈴さんは打棒を認められ、昇格していく。そんなさなか、ブルージェイズの1Aとの試合前、恩人のジョン・コールと会おうとするが、スカウトであるジョンはいなかった。律儀だなあ。そしてほどなく3Aへ。日本人初。鎌田はわくわくしていた。
・ミールマネーでは栄養不足。1日20ドル。半分はクラブフィーで消える。実質1日10ドル。ハンバーガーチェーンでャeト山盛り、大サイズのコーラ。栄養バランスは最悪。爪が縦に割れる。オフの帰国後、鈴木監督に挨拶に行った時に鈴木監督は気づく。栄養不足と。しゃぶしゃぶを奢ると、爪は戻った。
・鈴木監督はアメリカ挑戦を言う若者に「栄養不足で爪が割れる」と覚悟を今は問う。
・伊良部さんは根鈴さんの経歴に驚く。伊良部も団野村のお世話になったなあ。日本で1勝しかしていなかった大家さんが大ブレークする前、根鈴さんは弾丸ライナーのホームランを大家さんから放った。大家さんも根鈴さんに共感するところ多そうだな。2000年6月に3Aに昇格、以後2ヶ月3Aに。162打数40安打、.247、2Hr、16打点。特筆すべきは10二塁打。広角に外野の間を抜く打者という評価だったらしい。そして、セプテンバー・コールアップでメジャー入りが期待された。
・その頃、パンチョさんの番組で根鈴さんの奮闘ぶりが毎回5分程度放映される。
・が。根鈴さんは守備時に二塁手と交錯し、脳震盪を起こして念のため一週間故障者リスト入りした。そして目の不調に苦しんでいた。シーズン後にレーシック手術を受けるように動き、セプテンバー・コールアップを見送った。すると「チャンスの神様には前髪しか」なかった。
・2000年のオフシーズンにはイチロー、新庄がメジャー挑戦を表明した。日本人初の野手のメジャーは誰か。この二人は注目されたが、根鈴さんはそうじゃなかった。
・鎌田さんは野茂も含め、フィーバーの取材に忙しかったが、根鈴さんを追い続けていた。熱いアリゾナで。なお、鎌田さんは取材が難しいと言われる野茂に対しても、心を開いてくれた。新庄にも。
・根鈴さんはオープン戦で好調。一試合3本塁打を放ったこともある。最終打席で三塁打を放ち、開幕を迎える。だが、開幕の一週間前にエクスャYはチーム編成の事情から根鈴さんを解雇する。鎌田さんはこの信じられない結果について根鈴さんにインタビューしている。どれだけ信頼関係があるんだ。
・鎌田は根鈴さんを通じて人々、特に若者に伝えたいことがあった。「日本で窮屈な思いをしている子がいたら、今いる場所だけが世界じゃないよ、ちょっとだけ飛び出す勇気があれば、こんな風に楽しめるかもしれないよ」(p275)と。
・鎌田さんはその後、映像制作会社を立ち上げ、映画監督、プロデューサーとして幅広いジャンルで映画やドキュメンタリー番組を手がけている。
・2018年、智辯学園の監督をしている小坂さんはインタビューに「根鈴って、性格上、行き切らないっていうのか、新たなことは考えるけど、頂点にはならない」(p279)という。
・2001年秋、根鈴さんはロッテの入団テストを受け、合格は出たが、そこで有鉤骨の骨折。合格は白紙に。

・その後、根鈴さんはセインツをはじめ、アメリカ、カナダ、メキシコの独立リーグに挑戦。そして2005年、エモやんのサムライ・ベアーズ入団。監督はクロマティ。選手兼任コーチだったとか。
・そんな根鈴さんに感化されていたチームメイトに三好貴士さんがいた。三好さんは日本の野球界の体質(しごきなど)に合わず、2001年の高校卒業前にフロリダに飛んだ。そこで根鈴さんの情報(母親からのビデオ)に出会う。そしてエクスャY時代の根鈴さんに出会う。2003年にロンドン・モナークスでチームメイトとなる。
・2005年ロースターから外れた三好さんは日本に帰国後も野球への情熱は消えず、4年後に現役復帰。ビクトリア・シールズで選手兼アシスタントコーチに。そこでMLBで通算414本塁打の監督、ダレル・エバンスに「コーチの力がある」と認められる。2012年には米独立リーグで一塁ベースコーチに、2015年には独立リーグの監督に。「(ソノマ・)ストンパーズはすべての独立リーグの中でも、最もプロフェッショナルで、最も一生懸命働き、最も献身的な監督を持っている」(p293)と評される。そして2018年にツインズのルーキーリーグのコーチに採用される。2019年も継続雇用である。
・2006年の根鈴さんはオランダのチームに入る。そこで「オランダ人になろう」とする。日本とアメリカだけが選択肢ではない。「オランダ代表は、日本のトップと戦っている。オランダ代表だったら、日本に行けるわけじゃないですか」(p305) なお、勧めたのはチームメイト。助っ人枠でNPB入りも可。
・なお、1994年に根鈴さんは近鉄バファローズの練習に参加。ソフトボールで「対戦」した野茂は「そりゃ、打つわ。軸が全くぶれないもん」と絶賛。ただ、キャリアが前例のないものであり、ドラフト指名はされなかった。「囲い込み」批判を恐れてのことだった。(西武だったら違っただろうな、伊東捕手の例あり。)
・2001年に選手会の事務局長の松原さんにトライアウト受験を訴えるも、例外事例になるので却下される。
・MLBで活躍しても、日本のドラフトでは「アマ」扱い。なお、2008年からはMLBに直接入った者は日本でプレーできない期間が設定された(田澤ルール)。世界中を舞台にしている選手達が増えているが、これは冷酷かも知れない。
・2006年に奥様と結婚。カナダ時代に知り合う。根鈴さんの給料では生活出来ないので、結婚後も奥様は飲食店の仕事を続けている。
・とはいえ、オランダでの待遇は比較的良く、根鈴さんはプレーに専念できた。そして活躍した。
・2017年のWBCで根鈴さんはオランダ代表の臨時コーチをした。そしてベスト4入りした。オランダは実は、日本よりも野球の歴史は古い。プロとアマが混在するリーグがある。選手のレベル差は大きそうだ。
・アイランドリーグでは、監督とコーチはNPB出身者と決められている。2013年に引退した根鈴さんは特例的に(形式的に)アシスタントコーチに就任。坂口代表の苦肉の策。だが根鈴さんは「僕は『プロ』です」と考え、この立場を潔しとしない。坂口さんが言うには「彼は、思い込みが強すぎる部分があった」。
・また、坂口さんから見たら根鈴さんの態度には「何とも危なっかしいものがあった」とのこと。坂口さんは弁護士から転身して、徳島球団を黒字化している実力者。
・著者にしても、根鈴さんや三好さんから「俺たちのやっていることは、理解されていない」という無力感を感じる。要はすねているように感じる。それに対して根鈴さんは「あります。(中略)僕らもNPBの人を認めたくない気持ちがあるし、じゃあ、違うことをやってやろうじゃないかと。」(p317)
・坂口さんはアシスタントコーチとして実績を積んで、徐々に変えるという実に日本的な方法を考えていた。だがそれはかなわず、根鈴さんは神奈川に戻った。
・メジャーへは「挑戦(チャレンジ)」。だが、他の国のプロリーグにはチャレンジと言われない。
・2016年に根鈴さんはアマ資格回復のために学生野球資格回復制度の研修会を受講。最終球団は徳島インディゴソックス。独立リーガーは「元プロ」とされる。
・三好さんが日本に戻る場合もMLB傘下でプロコーチだったので、資格回復の研修を受ける必要がある。「元所属チーム」からの手続きが必要らしい。
・三好さんは言う。「文明開化の時に、僕らが必要とされる人材でいればいいかなと思う。日本って、本筋、王道、それ以外の多様性が全くない。もったいないと思う(大意)。」
・そして2018年にNPBとIPBL以外にも回復制度の門戸は「追記」された。
・2006年のBCリーグ発足を根鈴さんは知り、自己推薦文を書いて村山さんに送った。村山さんは直接コンタクトし、意気投合した。

・野球とベースボールの差。それが爆発して露見した試合がBCLであった。ついでにBCLはアマの文化を継承した。長髪、髭厳禁。試合前に挨拶。
・さて。2008年6月13日、前橋の敷島球場。根鈴さんは新潟の5番、相手は群馬。試合は四球の報復合戦。4番の元広島の青木は2死球。露骨な報復はそれでも御法度。青木さんがぶつけられた後、ハンガー・スライダーを根鈴さんは強振。見事なリベンジ。だがその後が。投手に向かって「死ね」「ボケ」そしてギロチン・メ[ズ。スタンドの子供たちが恐浮ナ泣く。さすがにこれはあかん、と小生は思う。少年野球の指導者は村山に詰め寄り、「子供たちに見せられない、二度と来ない」と。
・村山はリーグの意義を選手達に伝えられなかった責任を感じる。それがBCL憲章に結実する。
・根鈴さんが育ったアメリカでは、unwritten ruleで死球の報復は当然という文化。やられてやり返さないと批判される。他の投手がやり返さない中、黒田は頭上にボールを投げ「たった一球で、黒田はチームメートの信頼を勝ち得た」と絶賛される文化。日本は投手も、一塁手も謝罪する。
・一方、メジャーでは汚い野次は御法度。即喧嘩になるらしい。「世界は平和じゃない」という前提で物事を考えるのが世界標準。群馬のベンチの野次は酷かったらしい。相手へのリスペクトのない「プロ野球」。根鈴さんには不信感と怒りが渦巻いていた。
・ギロチン・メ[ズを見た新潟のアッシー(芦沢監督)は「やっちゃったな」と思い、群馬の秦監督は「しっかり教育せんかい」と芦沢監督を突き飛ばす。年上を突き飛ばすのはまずない。新潟の選手が秦監督に飛びかかろうとしたのをアッシーは必死に止めた。アッシーには根鈴さんの思いも、秦さんの思いも理解できた。「野球観の違い」と。
・アッシーは台湾で指導も経験している。アメリカで一匹狼で生きてきた根鈴さんに敬意を持っている。生きていく闘争心が出過ぎたのかな、と。
・秦さんは根鈴さんの法政大学の先輩。打撃練習中にアッシーが立っているのに、兼任コーチの根鈴さんがアメリカ流で座って練習する選手を見ているのが我慢ならない。アッシーは許していたことにも違和感があったのだろう。そういう思いが、突き飛ばしに表れた。
・事後大騒ぎとなり、根鈴さんは悪者扱い。だが現場の偉い人である群馬の堀口代表には「いまだに明確な答えは出ていない」という微妙な問題。堀口さんは根鈴さんが悪者になったことに後悔の念がある。
・根鈴さんと同じパワーヒッターの「BCLのレジェンド」井野口はライトから騒ぎを見ていた。「アメリカだと、乱闘自体も楽しむんですよ」という文化に触れたのは、井野口さんがアメリカの独立リーグに挑戦した2012年。アメリカではギロチン・メ[ズは問題にならない。
・「恣意的な伝え方が、今の日本には多すぎる」。これ、元新聞記者による今時のメディア批判だよね。
・根鈴さんのパフォーマンスである微妙な判定への「えっ」表情。奥様からしたら「ネタ」。ギロチン・メ[ズも「ネタ」。プロの闘いの場でキャリアを積み重ねてきた夫を見てきた身としては、きれいごとじゃないショービジネスの延長で考え、大騒ぎになるとは思えなかったようだ。
・根鈴さんは出場停止3試合。当てた富岡投手はブログで怒りを記し、大騒ぎとなり注意処分される。その後も根鈴さんは審判ともめて5試合の出場停止。そして戦力外。
・2年後、村山さんは根鈴さんに「俺のせいだ」と謝罪、和解。教訓として受け取るのにそれだけの時間を要した。中途半端さが駄目だった、と。そして「超・高校野球」を掲げ、BCL憲章を作成する。根鈴さんもその動きを理解する。
・ボーダーレスなグローバリズムが進むと、このような文化摩擦があちこちで起きてくるだろう。
・徳島でプレーした後、39歳で根鈴さんは引退。「オファーがないだけ」

・根鈴さんの引退試合は2013年1月12日、神宮球場。G.G.佐藤が発起人。奥様が始球式。予告アーチのメ[ズの後、ライトオーバーの二塁打。試合後、佐藤さんが「僕たち後輩に、野球ができるのは日本だけじゃない。世界各地にプレーする場所はあるんだということを教えてくれました」と挨拶。
・根鈴さんは大谷翔平選手がメジャーに直接挑戦して欲しかったようだ。根鈴超えをして欲しかった、と。
・根鈴さんは言う。「大谷君みたいなパターンは、これでラストでしょう。」・・・「(直接)行ったとしたら、何年間か、日本のアマチュアも、ぐちゃぐちゃになるでしょう。(メジャーにとって)マーケットは『世界』なんです。(中略)米国でつぶされたら困ります。だからきっちり育てて、米国に行かせてやりたい。それができるのが、俺みたいな人材ですよ。(中略)体育会の感じだと、牙を折られちゃう。そうならないよう、ャeンシャルを持っているヤツのコーチを、俺はやっていきたいんです。」(p372)
・確かに高校野球に属さず、独立リーグに飛び込んだり、社会人のクラブチームに所属する選手が出てきた。
・そして「根鈴道場」を横浜市に作る。「アラボーイ(attaboy)・ベースボール」。新規店の立ち上げから開店に至るプロセスを奥様は熟知している。借金して立ち上げ。銀行に「融資計画書」を提出、ということは、銀行は可能性に賭けたということ=採算が取れると考えた。ネットは米国流に黒。マシンは2台。ティーやマットもメジャー流の機器。弟子達は40人。時折満員御礼。草野球、少年野球、米国に挑戦する若者。GG佐藤もプレミアムモルツの試合前に来る。そして、ラオウ杉本(オリックス)も。紹介したのは元福岡レッドワーブラーズの瓜野ブルペン捕手。長崎時代の根鈴を覚えていて、杉本と被った。
・ユーチューバーのクーニンさんの動画を見て、杉本さんは根鈴さんを知っていた。そして、根鈴さんの打撃をやってみたいと思っていた。その頃、持ち味である豪快さが消えていた。
・スイングを一目見て根鈴さんは「そんな大きな体をしてるのに、なんでそんな小さなバッティングになってるの? もったいないじゃん」(p382)
・「どかんと行け」。まだしっくりいっていないようだが、ラオウ杉本はメジャーの打ち方をしたいと、修練を重ねている。
・根鈴さんのTシャツには「eat sleep baseball」。「根鈴道場」からメジャーリーガーを育てたい。
・根鈴さんの恩師達も根鈴さんを挑戦を見守り続けている。アッシー、廣瀬さんも共感して見守る。一方、話をしたくないという人もいる。
・2002年11月10日、MLB選抜チームに大家友和投手がいた。大家さんの招待で、GG佐藤さんと共に根鈴さんはベンチを訪問した。そして、一瞬の出来事だが、イチローが根鈴さんのすぐ脇をすりぬけた。

・最後に「根鈴雄次は、まだまだ「想像外の未来」を見せてくれそうだ」と喜瀬さんは書かれているが、いつか、神戸の地で、ワカヤマ・チベンと根鈴軍団がガチの草野球で対戦して欲しい。
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50636km

2019-09-08 23:59:00 | クルマ
50636km、通算燃費17.8km/L

通勤だけだと本当に燃費が悪い。
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