『体制維新――大阪都構想』(橋下徹 堺屋太一著、文春新書)
正直なところ、問題意識は小生と共通するところが多い。だが、読み進めるにしたがって、それは違う! と言いたいことが湧きあがってくるのだった。
第一章は堺屋氏による問題提起。日本社会の行き詰まり、閉塞について述べる。それに立ち向かうのに、人や政党の交替では今や不十分で、体制=システムの変更が必要という。歴史を紐解き、明治維新の四民平等の根源は奇兵隊であり、それが長州藩を改革し、ひいては維新を招いたという。地方での先行例が、日本全体の改革に繋がるという構図。そして、良いことも悪いことも大阪から多く始まったことが示される。よって、大阪の体制維新が日本の運命を変えることになると言う。国鉄改革に関する話は大いに疑問だが、話は分かるし問題意識も共感出来ることが多い。
第二章は二人の対談。大阪都の必要性について訴える。二重行政の不合理と、都市間競争への対応ということか。だが、そこで疑問がある。例えば、我が故郷の人に想像して欲しいが、生野と平野を一緒にされたら、どない思う? 差別的で申し訳ないが、古くからの高級住宅街である手塚山と釜ヶ崎のある西成が。歴史も文化も違うところを「平成の大合併」の焼き直しみたいなことをして、本当にきめ細かい行政が出来るのだろうか。また、都市間は競争するとよいものだろうか。ニューヨークにはニューヨークの、パリにはパリの魅力がある。大阪独自の魅力を出すのに、競争という概念が相応しいのだろうか。小生に言わせれば、写真でしか知らない昭和初期の大阪が、最も魅力的な大阪だ。少なくとも、街並みとしては。すぐ周囲には田園風景もあったし。但し、共感するところもある。こんぐらがって複雑になった、そして権限が分かりにくい行政の仕分けをしなければならないことと、行政と政治の役割、国家と自治体の役割を再認識し、権限を移譲すべきはする、という点。次にそれに付随した財源移譲。次に、闘技場的民主主義を作り出す意志。物凄く勉強している人だという点は評価したい。「競争」に疑問があると書いたが、ちょっと橋下氏をフォロー。
生活レベルがある程度満たされて多様性を追求していく段階になると、それぞれの地域が、個別の実情に応じた将来を追求していく時代に変わって行く。(中略)個々の地域の住民が求める幸福の方向に向かって、都市を経営していかなくてはいけない。しかし巨大戦艦(TAMO2註:全国一律発想の日本国家)ではそこまで目が届きませんし、舵を俊敏に切ることもできない。
(p41)
国家がなすべきことに国家は集中し、自治体は各セグメントで相応しいレベルに応じて仕事をする。どこかが偉い、というわけではない、という発想は共感する。
第三章は都構想の本題にいよいよ入る。大阪府の財政破たん寸前の状況を作ったのは、「大阪民国」でも指摘していたように「そりゃもう建てまくりや」の行政である。しかし、そうさせたのは忠コ政権などの歴代自民党国家。国家責任である。橋下氏の言うように国家に借金を押し付けられたようなものである。で、橋下氏は府としてコントロール出来る借金は減らした実績があるという。長いけど大事なので引用。
大阪府の借金が増えている、という人びとは見かけの額にしか目が行っていません。臨時財政対策債(臨財債)についての理解がないのです。(中略)国も財政難ですので、(地方)交付税として地方に渡すはずのお金を、先に各自治体が地方債を発行して借金で調達し、その借金返済分をあとで国が手当てする、という形をとっています。この借金が臨財債と呼ばれるものです。
(中略)大阪府自身でコントロールできる借金は減らしてきましたが、国から割り当てられる国の肩代わりの借金は、自治体の努力ではどうすることもできません。
(p67)
これを含めた借金が「見かけの」借金になり、膨れているだけだと橋下氏は言う。
さて、橋下氏が注力しているのは教育。給食の復活、私学支援は知られたところ。その一方、児童文学館の合理化も。ワッハ上方騒動。「文化を行政が価値判断することはおかしい。」それを敷衍すると、あらゆる文化事業の支援は、ハコだけになるだろうね。なお、決定に至るには実務方と徹底的に議論したとのこと。彼の体験を信じるならば、彼は独断専行型のリーダーではない。役人というプロフェッショナルを尊重し、尊敬している。但し、最後に依拠するのは、橋下氏の「府民感覚」。どうなんだろ。確かに、有権者が嫌なら、彼を選挙なり、リコールなりで止めさせればいいわけだけどね。その意味で、彼は冷淡なところがある。「なーに、選挙で俺(ヒトラー)を選んだのは国民さ、せいぜい地獄の涯までついて来てもらうさ。」しかし、これ、欧米民主主義の本質でもあるんだよね。「さあ、十分話し合った、決も採った、対立は引っ込めて行動の時だ」(レーニンを意訳)という発想なのだ、橋下氏は。ムラ=寄り合い民主主義の日本型では少なくともない。伊賀同志がキンピーブログで橋下の革命性に触れていたけど、それは確かにある。そもそも、カール・シュミットによると議会制民主主義なんぞによる徹底した話し合いによる意思決定は「不可能ごと」なのだ。橋下はそれでもなお、手続きを重視する。「独裁者」レーニンがそうであったように。本を読めば分かるが、橋下は民主主義の信奉者である。但し彼の主張は、彼の行ないによって、民主主義の揩ェ持つ問題点を浮き彫りにする。橋下は問題点に自覚的だ。例えば、方向性を別にして、左派が首長になっても同様の問題に直面し、もしその左派が革命的であるならば、橋下と同様の手法に訴えなければならないことは容易に類推できる。勿論、一部の人権侵害や脱法行為を別にして。あ、WTC移転は、そこを拠点に、世界のベイエリア=一等地という常識に倣ってみたとのこと。でもね。利用者からすれば不便極まりないんだよね、あそこ。桜島線を延伸して済む問題かいな。(噂では利権がらみのお話だとか。伊丹廃港・関空への統合も。)
第四章は行政手法について、かな。確かに、本来地方で考えるべきことまで国家が抱えているのは小生の大嫌いな中央集権主義であるし、無理がある。(変な話、東京向けとしか思えない共産党のャXターが、大阪にも愛媛にもあるのを見て「支持者を順調に減らしているなあ」と感じるのと同じ。)橋下氏の言うように、地方に権限移譲すればいいことが多すぎる。そのためには財源移譲も必須である。橋下氏はそれに留まらず、政治(家)と行政(役人)の役割分担も強く訴える。これ自体には共感する。繰り返すが橋下氏はプロフェッショナルとしての役人を尊重、尊敬する。政治(家)は方向性を与え、役人と真剣に議論し、仕組みを作ることにコミットする。ダム建設中止における手腕は見事と思う。そして、インフルエンザのパンデミック対応みたいに政治家にしか決断できないことは、決断する。確かにそれを独裁と言われると辛いよね。政治家の存在意義がなくなる。また、もう一つ注目し、橋下を支持したいことがある。役所は常に最善の制度を有するという前提から出発していないこと。過ちは認めて、都度修正するという姿勢。とまあ、ここまでは橋下氏を褒めてみる。話題の「ひのきみ」。歴史的にデリケートな問題である。だから保守派も長い間曖昧にしてきた。それは日本的な知恵であった。だが、橋下はそれを否定する。純行政的な措置で「決まったことは守れ」という。よろしい。どうせなら、憲法に国民の象徴と規定されている天皇を持ち出して、「宮城遙拝、頭(かしら)右! 天皇陛下、万歳(三唱)」でも法でやらせたらどうかね。大阪の学校に少なからずいてる在日朝鮮人はどう思うかね。文字通り、彼らの数世代前は天皇の名の下に蹂躙されたのだ。ひのきみは、その象徴として捉えられても仕方がなかった。
ひのきみっては、嫌悪感を持つ人間がいるのだ。カブスカウトのせいで、大嫌いだった過去を持つ小生が断言する。残念ながら、イデオロギーにまみれた存在なのだ。そういうものを「命令だから」と、魂を持つ公務員や教員に強制していいのだろうか? 「最もイデオロギー的なものは、非イデオロギーの姿を纏って現れる」(スラヴォイ・ジジェク)典型ではないか。これはつとめて倫理の問題である。倫理は、政治の基礎である。「規律」なんぞは、その下位に位置づけられるべきである。お願いだから、これ以上「ひのきみ」に泥を塗らないでくれないか? 首長のくせに脱法行為丸わかりの労組関連アンケートことをやったり、何様なんだ。どんな良いことを言っても、首長失格。(勿論、労組の側も非協力的な人間の出世を妨害することが言われていて、同じ穴の狢なわけなんだが。)ついでに、某弁護士には懲戒請求を発動してもいいだろう。で、教育問題について、「マジヤバーイ」ことを橋下氏は言う。ちなみに、教育問題とは国家百年の計であり、コンセンサスの取れたところ以外は下手に決定してはいけないと思う。その上で、現場の判断と裁量に委ねられるべきであろう。
この教育基本条例は、教育行政の器作りまでの話。中身である教育目標の設定は、時の知事、時の教育委員会、時の有権者が決めるのです。(中略)選挙の度に教育目標がころころ変わっていいのか! という典型的な批判がありますが、ころころ変わらないような知事を有権者が選べばいいし、(p148)
橋下氏は自分で言っていることの恐ろしい意味を分かっているのだろうか。「ころころ変わらないような知事を有権者が選べば」だと? それは、一旦決められた極端なことを、維持すればいい、と言い換えることが出来る。橋下氏の教育における隠れた野望は、自分が決めた無茶が続くことであろう。教育委員会への批判、というよりも、「そんなもん要らねえ」という意見を小生は持つ。小生はあくまでも、現場の判断と裁量に任され、チェック&バランスは有権者ではなく保護者によってなされるべきだと考える。以下のこんな言葉でごまかされてはいけない。
教育基本条例に対する批判以上に現在の教育委員会制度には批判があります。
(p148)
比較において教育基本条例が正当化される謂れは全くない。
で。何でここまで教育にシャカリキなのか、「同じパン生地から生まれた」小生には分かる。サヨクなお友達が一杯いてるリカたんにはとてもじゃないが書けない話。言うまでもなく、大阪での同和教育がトラウマになっているのだろう。あれは寺尾判決のあった頃だったろうか。小生の同級生の部落の子、別に解同の活動家の子でも何でもないのに「石川さんは無実だ」ゼッケンを付けられ、壇上に登らされていた。物凄く決まり悪そうな顔をしていたことを覚えていて非常に可哀相だった。そういうことが、同和教育に熱心な公立の小学校ではあったのだ。被差別当該である橋下氏も、多感なガキの頃に、様々なことがあったであろう、違和感と共に。「あんな教育は嫌だ」という。「あんな教育をやっていたのはサヨク教師や日教組(ま、全教は横に置くね(笑))、それを結果的に黙認していた教育委員会、競争という摂理を否定し、浪人しなければ良い大学に入れない公立高校を作った奴ら」というわけだ。物凄く分かる。ってか、激同意。ペテンと欺瞞が大阪の教育界に吹き荒れていたのは当事者の一人として一緒に告発したいくらいだ(ってか、これを書いたことで告発になっているか。大した影響力はないけどね。)
だけどね。橋下さん、あなた、敵討ちはええけど、敵と同じやり方でやってどうすんねん。あなたはあなたが憎んでいるであろう、労組や日教組やらと同じ穴の狢ですよ? 大阪人を舐めちゃいけない。「そういうのはいいから!」と、思われて来ている兆候を感じることがある。「賞味期限」とやらを自分にまぶすことで逃げちゃいけない。
しばらく「議員と行政がガチンコ勝負」とか、同じ話の繰り返し――意地悪く言えばまるで『わが闘争』――のあと、まさに二元対立の「政治」のアジで彼の「まじやばーい」体質が極点となる。
有権者にはしっかりと考えて欲しい。大阪維新の会の方向性で行くのか、現状維持で行くのか。
どちらもズキューンと、逝ってよし! こういう問題提起の出し方は、まさに小泉純一郎のやり方であり、日本をダメにしたやり方である。
さて。第五章。結構同じことの繰り返しがあるが、都市間競争に勝つために、というのが大阪都構想の根本のようだ。すなわち、競争に勝つための適正規模での運営手段。正直、区に権限・財源を譲り、区長を選挙で選ぶのは賛成だ。でもね、橋下氏の言う区分じゃあ、区が大きすぎて、運営しにくくて かなんがな と思う。堺市を含めて八つくらい、か。単純に計算して、一つの区で五〇万人か。ちょっとした地方都市より遥かに多いね。今の平野区三〇万でも、かなりしんどそうなのに、統合しちゃうと動きにくいんちゃうん? あと、兵庫県には一体化している地域があるやん。尼崎とか伊丹とか。どうすんねん。堺市の多くは高石市と連携。橋下氏の考える「適正規模」の根拠が皆目分からんし、区分の根拠も皆目分からん。それから、日本の第二のエンジンとしての大阪と言うけど、「三連爆大地震」が起きたら、東京も大阪も甚大な被害を受けますよ? こういうのは、地政学的に考えないといけない。そうすると、福岡こそが適任だろう。次は札幌。ま、首都機能の分散化には賛成だけどね。二重行政の問題はあるだろう。だけどね、大阪市と大阪府の権限の明確化で対処すべきだし、それを府知事時代に出来なかった人が「都構想」なんて言っても、正直信用出来ない。そもそも、都市は独自の魅力で勝負するものだし、「競争」なんかを前提にするものなのか? さらに、大阪の近辺には京都や神戸という魅力的で、同時に無視できない嫌な奴ら(京都のことね(笑))がいてる。彼らを無視した突出なんて、そもそも出来ない相談だ。大阪内部の多様性には、区や市町村の独自性で対応するというのはいいんだけど、自治体横断的なことについては、折り合い付くのかなあ。いっそのこと、大阪を昔の摂津・河内・和泉で区分しちゃうってどう? で、伊丹と尼崎を摂津に入れてしまう、と。ほんで、摂津都、言いにくいから「セット」でどうよ? 摂津市も入れて。ワシの実家は微妙に河内なので、入るんは遠慮しとくわ。とにかく、肝心なところは行政に投げるとか、有権者に投げるとか、無責任に見えて仕方がない。
第六章は道州制とか。今の税制なら、一部地域が圧勝で、他はズタボロ間違いなし。調整出来るのかな??
橋下の野望を貫徹すると、冗談ではなくこれではないかとめまいを覚える(18禁)。ちなみに橋下は、飛田の顧問弁護士だったそうな。
「大阪CRISIS ~姦楽街開発プロジェクト~」
http://www.turumiku.jp/osaka/intro.html
で。堺屋先生が正しくも指摘したように、大阪は日本の様々なモノ・コトの発祥(発症)の地である。しかし、例えば住友は銅の中の不純物を精錬することで金銀を得て財をなしたり、幸之助はんは自転車に電球をつけてみたり、何にせよ「大きなこと」からではなく、「小さなことからコツコツと」民間が発展させてきたのである。大事なのは、お上に頼らない、自分たちの街は自分たちで何とかしまひょ、の精神ではないだろうか。それを言えば、ブルジョアの家系の末裔として、個人としての大金持ちを作らない、大金持ちが散財する気概のない、大阪だけじゃない日本のシステムと作風批判になっちゃうのだが。うーん、反動的(笑)。ちなみに大和川の付け替えは、大阪、堺、平野などの商人のお金でやったのだ。やった人間の子孫が言うから間違いない。
それから、リー・クワン・ユーじゃあるまいし、都市間競争なんかして、他の都市と同じ土俵で競争するという発想が、そもそも大阪らしくない。大阪は小中華、「あの人らはあの人ら」という感覚が強くある。大体、京都という「ヤヤコシイモン」の隣にあるので、そんなのに合わせられんのだ。(京都もそう思っている。京都もユニークな会社が多い。)結局、橋下の言う競争力ってのは、大企業誘致に過ぎず、そのビジネスモデルが、大企業の利潤獲得のためにはなっても、地方自治体には負担しか残していないことは、今や明らかではないか。東京にある本社に利益を吸い上げられ、負担だけ地方に、という構図を変えなくてはならない。本社ごと大阪に再度引っ越してもらうには、大阪に東京にはない国際的な商機を作る仕鰍ッが必要なのだが、橋下構想ではそれは全く見えない。「第二のエンジン」という言葉が躍っているが、東京と大阪は450km程度しか離れておらず、国際的な資本家の視点で見れば大阪にわざわざ拠点を構えるのは獅ンがない。
梅田北の再開発で巨大ビジネスゾーンみたいな陳腐で「間に合ってます」的なモノを止め、梅田=埋田を昔に帰し、田園風景を復興させるという考えには「ああ、橋下はん、分かってはるなあ」と感じたものである。いわゆる競争で得られる豊かさに日本人も、大阪人も、多分飽き飽きしている。そもそも、競争するのは橋下氏が分かっているように、民間企業である。(実際、彼の主張は良く読めば矛盾しているが、それがまた魅力でもある。)そんなものより、小さいもの、かわいいもの、おいしいものを追求して、オモロイモンが湧いてくることを目指し、「ぼちぼち」楽しく暮らせるようにしましょうや。行政はその下支えで良い。重厚長大の昔の夢は、もういい。やりたい民間が勝手にするだろう。そのためのインフラなら既にある(大阪に限らず)。教育行政の充実=学力向上も、「出来あいのスキーム」のためならば、大阪の地位向上には余り役立たないだろう。小生が大阪の歌として大好きなものにリンクして終わる。
小鳥の来る街(大阪市在住者で知らん奴はモグリ)
http://www.youtube.com/watch?v=s0aMCUyn_38
あ、そうそう。やっぱもう少し。「客観的に見て(爆笑)」橋下に議論で瞬殺されまくっているのに、訳の分からない勝利宣言を出している「最底人@いしいひさいち」としか思えない日本共産党(宮本修正主義集団)をはじめとする左翼(自称含む)には次のレーニン様の有難いお言葉を贈呈しよう。ま、千駄ヶ谷派には何も期待できないけど。「今の君には無理だが。」
勉強して、勉強して、勉強しろ!
オ、オレモナー。橋下に勝利するには、橋下がブレーン(古賀さん、堺屋さんなど)と共に狂的に勉強し、陣地戦に勝利していることをしっかりと踏まえなくてはならない。ナニワの左派諸君、共に闘わん!
え?「極右に言われてもな~」。
正直なところ、問題意識は小生と共通するところが多い。だが、読み進めるにしたがって、それは違う! と言いたいことが湧きあがってくるのだった。
第一章は堺屋氏による問題提起。日本社会の行き詰まり、閉塞について述べる。それに立ち向かうのに、人や政党の交替では今や不十分で、体制=システムの変更が必要という。歴史を紐解き、明治維新の四民平等の根源は奇兵隊であり、それが長州藩を改革し、ひいては維新を招いたという。地方での先行例が、日本全体の改革に繋がるという構図。そして、良いことも悪いことも大阪から多く始まったことが示される。よって、大阪の体制維新が日本の運命を変えることになると言う。国鉄改革に関する話は大いに疑問だが、話は分かるし問題意識も共感出来ることが多い。
第二章は二人の対談。大阪都の必要性について訴える。二重行政の不合理と、都市間競争への対応ということか。だが、そこで疑問がある。例えば、我が故郷の人に想像して欲しいが、生野と平野を一緒にされたら、どない思う? 差別的で申し訳ないが、古くからの高級住宅街である手塚山と釜ヶ崎のある西成が。歴史も文化も違うところを「平成の大合併」の焼き直しみたいなことをして、本当にきめ細かい行政が出来るのだろうか。また、都市間は競争するとよいものだろうか。ニューヨークにはニューヨークの、パリにはパリの魅力がある。大阪独自の魅力を出すのに、競争という概念が相応しいのだろうか。小生に言わせれば、写真でしか知らない昭和初期の大阪が、最も魅力的な大阪だ。少なくとも、街並みとしては。すぐ周囲には田園風景もあったし。但し、共感するところもある。こんぐらがって複雑になった、そして権限が分かりにくい行政の仕分けをしなければならないことと、行政と政治の役割、国家と自治体の役割を再認識し、権限を移譲すべきはする、という点。次にそれに付随した財源移譲。次に、闘技場的民主主義を作り出す意志。物凄く勉強している人だという点は評価したい。「競争」に疑問があると書いたが、ちょっと橋下氏をフォロー。
生活レベルがある程度満たされて多様性を追求していく段階になると、それぞれの地域が、個別の実情に応じた将来を追求していく時代に変わって行く。(中略)個々の地域の住民が求める幸福の方向に向かって、都市を経営していかなくてはいけない。しかし巨大戦艦(TAMO2註:全国一律発想の日本国家)ではそこまで目が届きませんし、舵を俊敏に切ることもできない。
(p41)
国家がなすべきことに国家は集中し、自治体は各セグメントで相応しいレベルに応じて仕事をする。どこかが偉い、というわけではない、という発想は共感する。
第三章は都構想の本題にいよいよ入る。大阪府の財政破たん寸前の状況を作ったのは、「大阪民国」でも指摘していたように「そりゃもう建てまくりや」の行政である。しかし、そうさせたのは忠コ政権などの歴代自民党国家。国家責任である。橋下氏の言うように国家に借金を押し付けられたようなものである。で、橋下氏は府としてコントロール出来る借金は減らした実績があるという。長いけど大事なので引用。
大阪府の借金が増えている、という人びとは見かけの額にしか目が行っていません。臨時財政対策債(臨財債)についての理解がないのです。(中略)国も財政難ですので、(地方)交付税として地方に渡すはずのお金を、先に各自治体が地方債を発行して借金で調達し、その借金返済分をあとで国が手当てする、という形をとっています。この借金が臨財債と呼ばれるものです。
(中略)大阪府自身でコントロールできる借金は減らしてきましたが、国から割り当てられる国の肩代わりの借金は、自治体の努力ではどうすることもできません。
(p67)
これを含めた借金が「見かけの」借金になり、膨れているだけだと橋下氏は言う。
さて、橋下氏が注力しているのは教育。給食の復活、私学支援は知られたところ。その一方、児童文学館の合理化も。ワッハ上方騒動。「文化を行政が価値判断することはおかしい。」それを敷衍すると、あらゆる文化事業の支援は、ハコだけになるだろうね。なお、決定に至るには実務方と徹底的に議論したとのこと。彼の体験を信じるならば、彼は独断専行型のリーダーではない。役人というプロフェッショナルを尊重し、尊敬している。但し、最後に依拠するのは、橋下氏の「府民感覚」。どうなんだろ。確かに、有権者が嫌なら、彼を選挙なり、リコールなりで止めさせればいいわけだけどね。その意味で、彼は冷淡なところがある。「なーに、選挙で俺(ヒトラー)を選んだのは国民さ、せいぜい地獄の涯までついて来てもらうさ。」しかし、これ、欧米民主主義の本質でもあるんだよね。「さあ、十分話し合った、決も採った、対立は引っ込めて行動の時だ」(レーニンを意訳)という発想なのだ、橋下氏は。ムラ=寄り合い民主主義の日本型では少なくともない。伊賀同志がキンピーブログで橋下の革命性に触れていたけど、それは確かにある。そもそも、カール・シュミットによると議会制民主主義なんぞによる徹底した話し合いによる意思決定は「不可能ごと」なのだ。橋下はそれでもなお、手続きを重視する。「独裁者」レーニンがそうであったように。本を読めば分かるが、橋下は民主主義の信奉者である。但し彼の主張は、彼の行ないによって、民主主義の揩ェ持つ問題点を浮き彫りにする。橋下は問題点に自覚的だ。例えば、方向性を別にして、左派が首長になっても同様の問題に直面し、もしその左派が革命的であるならば、橋下と同様の手法に訴えなければならないことは容易に類推できる。勿論、一部の人権侵害や脱法行為を別にして。あ、WTC移転は、そこを拠点に、世界のベイエリア=一等地という常識に倣ってみたとのこと。でもね。利用者からすれば不便極まりないんだよね、あそこ。桜島線を延伸して済む問題かいな。(噂では利権がらみのお話だとか。伊丹廃港・関空への統合も。)
第四章は行政手法について、かな。確かに、本来地方で考えるべきことまで国家が抱えているのは小生の大嫌いな中央集権主義であるし、無理がある。(変な話、東京向けとしか思えない共産党のャXターが、大阪にも愛媛にもあるのを見て「支持者を順調に減らしているなあ」と感じるのと同じ。)橋下氏の言うように、地方に権限移譲すればいいことが多すぎる。そのためには財源移譲も必須である。橋下氏はそれに留まらず、政治(家)と行政(役人)の役割分担も強く訴える。これ自体には共感する。繰り返すが橋下氏はプロフェッショナルとしての役人を尊重、尊敬する。政治(家)は方向性を与え、役人と真剣に議論し、仕組みを作ることにコミットする。ダム建設中止における手腕は見事と思う。そして、インフルエンザのパンデミック対応みたいに政治家にしか決断できないことは、決断する。確かにそれを独裁と言われると辛いよね。政治家の存在意義がなくなる。また、もう一つ注目し、橋下を支持したいことがある。役所は常に最善の制度を有するという前提から出発していないこと。過ちは認めて、都度修正するという姿勢。とまあ、ここまでは橋下氏を褒めてみる。話題の「ひのきみ」。歴史的にデリケートな問題である。だから保守派も長い間曖昧にしてきた。それは日本的な知恵であった。だが、橋下はそれを否定する。純行政的な措置で「決まったことは守れ」という。よろしい。どうせなら、憲法に国民の象徴と規定されている天皇を持ち出して、「宮城遙拝、頭(かしら)右! 天皇陛下、万歳(三唱)」でも法でやらせたらどうかね。大阪の学校に少なからずいてる在日朝鮮人はどう思うかね。文字通り、彼らの数世代前は天皇の名の下に蹂躙されたのだ。ひのきみは、その象徴として捉えられても仕方がなかった。
ひのきみっては、嫌悪感を持つ人間がいるのだ。カブスカウトのせいで、大嫌いだった過去を持つ小生が断言する。残念ながら、イデオロギーにまみれた存在なのだ。そういうものを「命令だから」と、魂を持つ公務員や教員に強制していいのだろうか? 「最もイデオロギー的なものは、非イデオロギーの姿を纏って現れる」(スラヴォイ・ジジェク)典型ではないか。これはつとめて倫理の問題である。倫理は、政治の基礎である。「規律」なんぞは、その下位に位置づけられるべきである。お願いだから、これ以上「ひのきみ」に泥を塗らないでくれないか? 首長のくせに脱法行為丸わかりの労組関連アンケートことをやったり、何様なんだ。どんな良いことを言っても、首長失格。(勿論、労組の側も非協力的な人間の出世を妨害することが言われていて、同じ穴の狢なわけなんだが。)ついでに、某弁護士には懲戒請求を発動してもいいだろう。で、教育問題について、「マジヤバーイ」ことを橋下氏は言う。ちなみに、教育問題とは国家百年の計であり、コンセンサスの取れたところ以外は下手に決定してはいけないと思う。その上で、現場の判断と裁量に委ねられるべきであろう。
この教育基本条例は、教育行政の器作りまでの話。中身である教育目標の設定は、時の知事、時の教育委員会、時の有権者が決めるのです。(中略)選挙の度に教育目標がころころ変わっていいのか! という典型的な批判がありますが、ころころ変わらないような知事を有権者が選べばいいし、(p148)
橋下氏は自分で言っていることの恐ろしい意味を分かっているのだろうか。「ころころ変わらないような知事を有権者が選べば」だと? それは、一旦決められた極端なことを、維持すればいい、と言い換えることが出来る。橋下氏の教育における隠れた野望は、自分が決めた無茶が続くことであろう。教育委員会への批判、というよりも、「そんなもん要らねえ」という意見を小生は持つ。小生はあくまでも、現場の判断と裁量に任され、チェック&バランスは有権者ではなく保護者によってなされるべきだと考える。以下のこんな言葉でごまかされてはいけない。
教育基本条例に対する批判以上に現在の教育委員会制度には批判があります。
(p148)
比較において教育基本条例が正当化される謂れは全くない。
で。何でここまで教育にシャカリキなのか、「同じパン生地から生まれた」小生には分かる。サヨクなお友達が一杯いてるリカたんにはとてもじゃないが書けない話。言うまでもなく、大阪での同和教育がトラウマになっているのだろう。あれは寺尾判決のあった頃だったろうか。小生の同級生の部落の子、別に解同の活動家の子でも何でもないのに「石川さんは無実だ」ゼッケンを付けられ、壇上に登らされていた。物凄く決まり悪そうな顔をしていたことを覚えていて非常に可哀相だった。そういうことが、同和教育に熱心な公立の小学校ではあったのだ。被差別当該である橋下氏も、多感なガキの頃に、様々なことがあったであろう、違和感と共に。「あんな教育は嫌だ」という。「あんな教育をやっていたのはサヨク教師や日教組(ま、全教は横に置くね(笑))、それを結果的に黙認していた教育委員会、競争という摂理を否定し、浪人しなければ良い大学に入れない公立高校を作った奴ら」というわけだ。物凄く分かる。ってか、激同意。ペテンと欺瞞が大阪の教育界に吹き荒れていたのは当事者の一人として一緒に告発したいくらいだ(ってか、これを書いたことで告発になっているか。大した影響力はないけどね。)
だけどね。橋下さん、あなた、敵討ちはええけど、敵と同じやり方でやってどうすんねん。あなたはあなたが憎んでいるであろう、労組や日教組やらと同じ穴の狢ですよ? 大阪人を舐めちゃいけない。「そういうのはいいから!」と、思われて来ている兆候を感じることがある。「賞味期限」とやらを自分にまぶすことで逃げちゃいけない。
しばらく「議員と行政がガチンコ勝負」とか、同じ話の繰り返し――意地悪く言えばまるで『わが闘争』――のあと、まさに二元対立の「政治」のアジで彼の「まじやばーい」体質が極点となる。
有権者にはしっかりと考えて欲しい。大阪維新の会の方向性で行くのか、現状維持で行くのか。
どちらもズキューンと、逝ってよし! こういう問題提起の出し方は、まさに小泉純一郎のやり方であり、日本をダメにしたやり方である。
さて。第五章。結構同じことの繰り返しがあるが、都市間競争に勝つために、というのが大阪都構想の根本のようだ。すなわち、競争に勝つための適正規模での運営手段。正直、区に権限・財源を譲り、区長を選挙で選ぶのは賛成だ。でもね、橋下氏の言う区分じゃあ、区が大きすぎて、運営しにくくて かなんがな と思う。堺市を含めて八つくらい、か。単純に計算して、一つの区で五〇万人か。ちょっとした地方都市より遥かに多いね。今の平野区三〇万でも、かなりしんどそうなのに、統合しちゃうと動きにくいんちゃうん? あと、兵庫県には一体化している地域があるやん。尼崎とか伊丹とか。どうすんねん。堺市の多くは高石市と連携。橋下氏の考える「適正規模」の根拠が皆目分からんし、区分の根拠も皆目分からん。それから、日本の第二のエンジンとしての大阪と言うけど、「三連爆大地震」が起きたら、東京も大阪も甚大な被害を受けますよ? こういうのは、地政学的に考えないといけない。そうすると、福岡こそが適任だろう。次は札幌。ま、首都機能の分散化には賛成だけどね。二重行政の問題はあるだろう。だけどね、大阪市と大阪府の権限の明確化で対処すべきだし、それを府知事時代に出来なかった人が「都構想」なんて言っても、正直信用出来ない。そもそも、都市は独自の魅力で勝負するものだし、「競争」なんかを前提にするものなのか? さらに、大阪の近辺には京都や神戸という魅力的で、同時に無視できない嫌な奴ら(京都のことね(笑))がいてる。彼らを無視した突出なんて、そもそも出来ない相談だ。大阪内部の多様性には、区や市町村の独自性で対応するというのはいいんだけど、自治体横断的なことについては、折り合い付くのかなあ。いっそのこと、大阪を昔の摂津・河内・和泉で区分しちゃうってどう? で、伊丹と尼崎を摂津に入れてしまう、と。ほんで、摂津都、言いにくいから「セット」でどうよ? 摂津市も入れて。ワシの実家は微妙に河内なので、入るんは遠慮しとくわ。とにかく、肝心なところは行政に投げるとか、有権者に投げるとか、無責任に見えて仕方がない。
第六章は道州制とか。今の税制なら、一部地域が圧勝で、他はズタボロ間違いなし。調整出来るのかな??
橋下の野望を貫徹すると、冗談ではなくこれではないかとめまいを覚える(18禁)。ちなみに橋下は、飛田の顧問弁護士だったそうな。
「大阪CRISIS ~姦楽街開発プロジェクト~」
http://www.turumiku.jp/osaka/intro.html
で。堺屋先生が正しくも指摘したように、大阪は日本の様々なモノ・コトの発祥(発症)の地である。しかし、例えば住友は銅の中の不純物を精錬することで金銀を得て財をなしたり、幸之助はんは自転車に電球をつけてみたり、何にせよ「大きなこと」からではなく、「小さなことからコツコツと」民間が発展させてきたのである。大事なのは、お上に頼らない、自分たちの街は自分たちで何とかしまひょ、の精神ではないだろうか。それを言えば、ブルジョアの家系の末裔として、個人としての大金持ちを作らない、大金持ちが散財する気概のない、大阪だけじゃない日本のシステムと作風批判になっちゃうのだが。うーん、反動的(笑)。ちなみに大和川の付け替えは、大阪、堺、平野などの商人のお金でやったのだ。やった人間の子孫が言うから間違いない。
それから、リー・クワン・ユーじゃあるまいし、都市間競争なんかして、他の都市と同じ土俵で競争するという発想が、そもそも大阪らしくない。大阪は小中華、「あの人らはあの人ら」という感覚が強くある。大体、京都という「ヤヤコシイモン」の隣にあるので、そんなのに合わせられんのだ。(京都もそう思っている。京都もユニークな会社が多い。)結局、橋下の言う競争力ってのは、大企業誘致に過ぎず、そのビジネスモデルが、大企業の利潤獲得のためにはなっても、地方自治体には負担しか残していないことは、今や明らかではないか。東京にある本社に利益を吸い上げられ、負担だけ地方に、という構図を変えなくてはならない。本社ごと大阪に再度引っ越してもらうには、大阪に東京にはない国際的な商機を作る仕鰍ッが必要なのだが、橋下構想ではそれは全く見えない。「第二のエンジン」という言葉が躍っているが、東京と大阪は450km程度しか離れておらず、国際的な資本家の視点で見れば大阪にわざわざ拠点を構えるのは獅ンがない。
梅田北の再開発で巨大ビジネスゾーンみたいな陳腐で「間に合ってます」的なモノを止め、梅田=埋田を昔に帰し、田園風景を復興させるという考えには「ああ、橋下はん、分かってはるなあ」と感じたものである。いわゆる競争で得られる豊かさに日本人も、大阪人も、多分飽き飽きしている。そもそも、競争するのは橋下氏が分かっているように、民間企業である。(実際、彼の主張は良く読めば矛盾しているが、それがまた魅力でもある。)そんなものより、小さいもの、かわいいもの、おいしいものを追求して、オモロイモンが湧いてくることを目指し、「ぼちぼち」楽しく暮らせるようにしましょうや。行政はその下支えで良い。重厚長大の昔の夢は、もういい。やりたい民間が勝手にするだろう。そのためのインフラなら既にある(大阪に限らず)。教育行政の充実=学力向上も、「出来あいのスキーム」のためならば、大阪の地位向上には余り役立たないだろう。小生が大阪の歌として大好きなものにリンクして終わる。
小鳥の来る街(大阪市在住者で知らん奴はモグリ)
http://www.youtube.com/watch?v=s0aMCUyn_38
あ、そうそう。やっぱもう少し。「客観的に見て(爆笑)」橋下に議論で瞬殺されまくっているのに、訳の分からない勝利宣言を出している「最底人@いしいひさいち」としか思えない日本共産党(宮本修正主義集団)をはじめとする左翼(自称含む)には次のレーニン様の有難いお言葉を贈呈しよう。ま、千駄ヶ谷派には何も期待できないけど。「今の君には無理だが。」
勉強して、勉強して、勉強しろ!
オ、オレモナー。橋下に勝利するには、橋下がブレーン(古賀さん、堺屋さんなど)と共に狂的に勉強し、陣地戦に勝利していることをしっかりと踏まえなくてはならない。ナニワの左派諸君、共に闘わん!
え?「極右に言われてもな~」。