TAMO2ちんのお気持ち

リベラルもすなるお気持ち表明を、激派のおいらもしてみむとてするなり。

I君、ありがとう

2005-11-30 01:08:52 | よしなしごと
 今の見た目からは分からないが、小生は元々病弱である。小学校2年のときは1ヶ月くらい病欠した。九九を3日で覚えろと先生に言われた。必死で覚えた。(1週間は結局かかったかな?)

 中学生になってもそれは直らず、1年の春、3日ほど休んだ。で、その間に数学で大事なことが教えられていた。それは、

 ab とは、a×b(a鰍ッるb)を意味する

ことである。

 学校に出てきたら、そこが終わっていたので、分からなかった。当然授業はちんぷんかんぷん。しかし、あつかましさでは定評があるが、しかしヘタレな小生は先生に訊かず、前の席のI君に聞いた。アタリマエすぎることを訊かれると、質問の意味を理解できないことが多いが、彼はすぐに小生の質問を理解し、見事に答えた。

 I君に感謝。

 簡単すぎることで躓いたほうが、あとあと立ち直れないものである。
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社員旅行

2005-11-27 21:39:21 | よしなしごと
工場育ちの人間にとっては、社員旅行は義務なのである。今回は祖谷とかに行ってきた。年配の方で、ご両親が祖谷出身の人がいたので、色々聞いた。

小生が祖谷を見て「凄いええとこですな、山の中~」とか言っていると「道路が立派になって、街の風習も入ってきて、風景にも昔の風情はないわ」と言われた。かずら橋@観光用 のそばには、訳の分からない大ステージが建設中。風情ぶち壊し。これは俺にもわかる。しかし、彼に言わせると「この辺は林業しかないけど、一日6300円くらい、公共事業がないと誰も居つけないのである程度仕方なしやろな、しかし、もっとやることあるだろ」とのことだった。

さて、このおじさんが50年ほど前に新居浜から祖谷に父母の実家のある帰省した話は面白かった。汽車で6時間かかって大歩危駅につくと、街燈はャcンと一つ。駅から電話して(確か駅長室から)村唯一の電話にかけると、スピーカーが村の親戚を呼び出し、親戚は馬車で迎えに来たとか。母方の実家は駅から1キロだけど、山道であり危険だから馬車。父方はもうちょっと遠いからやっぱり馬車。乗用車なんかない時代だ。道幅は今で言えば車1台幅であり、今ならトンネルで30秒のところ、トンネルがなくて迂回するので、15分くらいかかっていたそうな。家は家で、土間に茣蓙敷、畳は贅沢品。勝手に座布団を使うと祖父に吹っ飛ばされたそうな。

そういう時代と比較すると、風情もなかろう。ちなみに、かずら橋のかずらも、今は余程山の上に行かないと自生していないので、大事に大事に利用しているとのこと。

ホテルは新祖谷温泉、食事はかなりよかったです。しかし、祖谷そばはどうしてあんなにモソモソしているのだろう。温泉は、ホテルの建屋からケーブルカーで上がったところにありました。温泉からかずら橋@観光用まではボンネットバス。カブスカウトのとき乗って以来だから約30年ぶり。乗り心地は、速度が遅いので結構良かったりして。しかし、BGMに「田舎のバスはオンボロ車、でこぼこの道を・・・」はやりすぎだ。
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読書メモ:『ファスト風土化する日本 郊外化とその病理』

2005-11-27 17:13:23 | 読書
 『ファスト風土化する日本 郊外化とその病理』(三浦展著、洋泉社)

 敗戦後の日本は貧しさからの脱却が至上命題であった。それは国家のみならず、民衆の希望であった。貧しさゆえに各種の矛盾があるので、左翼もそれを是とした。労働者と資本家の矛盾、都市と農村の矛盾。階級対立は総評主導の労働運動により一定の成果を見、1970年代までに社会の平準化~矛盾の緩和を見るに至った。農村は農地改革により平等化し、また余剰労働力を都市に放出することで平準化された。ある種の完成は1980年代に達成されたと思う。

 しかしその時代に都市で発生した古典的な(著者は『イギリスにおける労働者階級の状態』を例示している)矛盾を解決するために、都市は拡張された。しかし、機能分化=都市の裁断によって。それが、小生が言うところの「ぴっこたんの家」が延々と続く、天才=山本直樹が『ありがとう』で描く、無機質な都市近郊の姿である。そこには、人間といういかがわしい生き物のもつ生活の匂いは偏ってしか存在しない。消費の場に特化しているのである。ここに暮らす子供たちは消費という生活しか知らないので、生産に興味を持てず、また消費だけで生活できるように錯覚するので仕事というものを知ることもなかろうと著者は言う。そして、その影響はかつての農村でこそ強く、農村部の総郊外化によって完成する。逆に、都市部がマシになるくらいに。

 それを強めたのが、公共事業を無際限に拡大させた地方の政治家と官僚である。列島改造論は条件がなくなっても強行され、そして、アメリカの言う内需拡大を口実に630兆円ばら撒きケインズ主義が行なわれた。乗数効果など考えずに。そして、バブル崩壊後 国滅んで山河なし 城春にしてアスファルト熱し の国と成り果てた。高速道路がほぼ全ての県に出来、地方では車なしの生活が出来ない構造になり、流動性は極大化した。地方にいても、東京発の番組の最先端の流行モノや商品が共有できるくらいに。そのメルクマールがジャスコであり、ヤマダ電機である。どちらも優秀な企業には違いないが、地域のもつ非経済効果には配慮が足りない、というか原理的に不可能である。流動性の極大化は、犯罪者の匿名化に繋がり、地域不安を増大させる。警察力でどうこうできる問題ではない。

 思うに、経済合理性を追求することで、日本人は余りにも大きな代償を払ったのではないか。この本は、憂国の本である。次の文章が、この本の基調をなす。p132からの引用

 『過去三十年間、日本中で、黄金色に輝く稲穂が風になびく水田が潰されて不要な道路と無機的で非歴史的なニュータウンができ、豊かな森が根こそぎにされてゴルフ場になり、郊外化によって歴史ある町並みが崩壊しつづけた。国土全体がスクラップ&ビルドされたのだ。そして、それらはみな、「所得倍増」や「富国強兵」の名においてではなく、「ふるさと」や「田園」や「地方の時代」の名において進められてきたのだ。いかに素晴らしい目標も、現実の経済原理によって別の姿に変わる。それがこれまでの歴史だ。政治家たちは、右手で地域固有の風土と歴史ある街並みを破壊しながら、左手で愛国心の旗を振るのだ!』(太字はTAMO2)

 とは言え、ベタベタした抑圧的な地域性というものの持つ負の側面を無視するには、我々はそんな社会に30年前まで強くいたことを知っている。この本に書かれているファスト風土化は、我々が望んだことの一つの結果ではないか。我々は、抑圧性を否定してモナド化=分衆化を望んだのだ。そのツケは、色々な形で噴出している。大衆のエゴのありようが問われているのだ。著者は左翼っぽいのでこういう提起はしないが、オルテガやニーチェ好きを身内に持つ仰山者は提起する(笑)。


 さて、解決策にも触れているが、著者のそれは「都市の再生」である。それはそれでいいんだけれども(路地の再生、都市の重層性の再生などなど)、農村はいかに再生されるべきなのだろうか? 先日、社内旅行で祖谷に行ってきたが、祖谷出身の人は「ここら辺は林業しかないし、林業では日給6300円、豊かさを維持するには都会に出るしかない」と言っていた。農村のことは農村の方に任せるしかないが、それを支えるにはどうするべきか? ファスト郊外化した地域に住む、徐々にファスト郊外化していった都市出身者としては悩みどころである。
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村岡到さんから本とか来る

2005-11-27 09:42:05 | ノンジャンル
『もうひとつの世界へ』と『カオスとロゴス』。

頑張って欲しいものだ。で、ヘタレ極左(極右)@宮台とは違う意味 なので、ここに何か書く。

非暴力行動、それは現状の日本に適応したものだから良いけど、論理の世界ではどうなのだろうか。暴力は社会に満ち溢れ、暴力への担保なくしては事態は変わらないのは歴史という現実を見れば明らか。

いやいやいや、リンク先のNK氏の文章を読むと、一皮剥けば暴力に溢れる日本を実感させてくれる。
http://rounin40.cocolog-nifty.com/attenborow/2005/11/post_7274.html

暴力に対抗して、非暴力を対置する場合、その実効性をどのように保障するかがなければ、唯のナンセンスだろう。憲法9条が多くの庶民レベルでは「ただの冗談」に過ぎなくなっている理由も、ここにあろう。(小生は、「たちの悪い冗談」と思っているが、今、改憲することは憲法がもっと「たちの悪い冗談」になると思っているので、九条の会に参加したりしている。だが、御発言にはがっかりすることが多い。説得力ないし。それに対する自覚もないし。)


それから、社会主義に「愛」という概念。これはいい。人情社会主義者としてはエールを贈りたい。
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釜ヶ崎でおにぎりわっしょい

2005-11-24 22:57:48 | よしなしごと
1986年~1987年の越冬闘争。いつものごとく、白菊学園のおねえちゃんに会いに行くべく参加。しかし、この年はおにぎり作り係であった。

ほぼ夜通し、おにぎりをつくるのである。これは、結構酷である。しかも、俺、下手やしw。

ただ、得がたい人と会えた。この人は1945年の敗戦後に日本共産党に入党し、その後所感派に属して、武装闘争をしていた人である。武装闘争の話は忘れたが、その後、党の秘密を一杯握っていたので党と警察の両方に追われ、地方を転々、最後はマグロ漁船で何年も逃亡したとか。漁船の船長には「俺はアカは大嫌いじゃ!」とカマかけられたらしい。終戦しばらくの船の世界は、力のないものが嫌われたら魚の餌にされても不思議じゃない世界。このカマは、覚悟を問うものであったとか。

で、何年かして日本に帰ってきたら、党は過去のことなどなかったかのように振舞っていたとさ。政治は非情だけど、「党はプロレタリアートの現在だけではなく、未来をも代表する」なぞとエラそうにのたまうなら、この我が身を省みない薄情さは、勤労大衆の代表たる資格はない。

白菊学園のおねえたまにおにぎりを渡し終えた頃、千駄ヶ谷の街宣車が情宣していた。この初老の人曰く、「あいつら、選挙の票になるところにしか来んからなあ、アンタら目当てやろ」とのこと。街宣車の背中が煤けて見えた(当時流行った「哭きの竜」よりw)。

そういえば、このオヤジ、「川勝伝さんがなくなったら、南海ホークスは身売りやろな」と言ってたな。
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