泣きたい気分である。何度言ったことか。最後になるだろう。
「あ」氏は、あそこまで自覚的で、理解も深いのに、肝心かなめの人間の持つ哀しさがどうも理解されていないようである。世間で言われるところの「共産主義」について、そしてマルクスの労働論について、そしてその限界について片面凄くご存知と実は思っている。そう。労働者は生産手段を持たない代わりに、労働力を持つ。それは、極端な場合エンゲルスが言うように「四ヶ国語を話し、事務に長けた低賃金の女子労働者」であったりする。労働者は何も持たないわけではない。持てるもので生み出すものがあるから、搾取にも「かかわらず」生存出来るのだ。だから、スト戦術が有効であるのだ。
マルクスを語る場合、彼が語り残したもの以上に、彼のパトス、デュオニュソス的無茶苦茶こそが肝心なのだ。彼の理屈は小生ごときが言うまでもなく、ベーム・バヴェルク、あるいは置塩信雄、あるいはハイエク、が様々な形で暴露し、証明したように破綻している。
だが、そんなものに賛成するにせよ反対するにせよ拘泥するのは、池田信夫(彼はマルクスが本当に本当に好き過ぎて、変になっちゃっている、小生はもっと浮気性なのであそこまではいけない)をはじめとして、多分余りにも意味がない。
価値論、疎外論、物象化。モノガタリとしては面白いし趣味者としてのネタとして遊ぶことを辞めるつもりはない。だが、そんなところに「真理」を求めない。いや、であうかも知れないが。
問題は、マルクスのパトス、その行為のデュオニュソス的無茶苦茶なのだ。彼自身の人生なのだ。それは、疎外され、挫折し、騙され、騙し、金銭感覚がないがゆえに極貧になりながらも、それでも過剰な自意識を徹底的に満たすために、そして何よりも人生の持つ哀しさ、弱き者への徹底した共感、それ以上に実際には誰よりも<力>を持ったものを、その<力>に相応しいところに置こうとした意志、「権力への『意志』――それは個人のものではなく、マルクス流に言うならば“類”としてだ!」を体現した狂人・超人としてのマルクスなのだ。
マルクスは、経典ではなく、小説として読まれるべきなのだ。いかなる小説も、人間の持つ哀しみを感じざるを得まい。一つの行き着くところまで行き着いたマルクスや、レーニンを批判することは正直たやすい。だけど、そんなことは「面白くない」のだ。
Isn't he a bit like you and me?
「あ」氏もマルクス・レーニンも。
「あ」氏は、あそこまで自覚的で、理解も深いのに、肝心かなめの人間の持つ哀しさがどうも理解されていないようである。世間で言われるところの「共産主義」について、そしてマルクスの労働論について、そしてその限界について片面凄くご存知と実は思っている。そう。労働者は生産手段を持たない代わりに、労働力を持つ。それは、極端な場合エンゲルスが言うように「四ヶ国語を話し、事務に長けた低賃金の女子労働者」であったりする。労働者は何も持たないわけではない。持てるもので生み出すものがあるから、搾取にも「かかわらず」生存出来るのだ。だから、スト戦術が有効であるのだ。
マルクスを語る場合、彼が語り残したもの以上に、彼のパトス、デュオニュソス的無茶苦茶こそが肝心なのだ。彼の理屈は小生ごときが言うまでもなく、ベーム・バヴェルク、あるいは置塩信雄、あるいはハイエク、が様々な形で暴露し、証明したように破綻している。
だが、そんなものに賛成するにせよ反対するにせよ拘泥するのは、池田信夫(彼はマルクスが本当に本当に好き過ぎて、変になっちゃっている、小生はもっと浮気性なのであそこまではいけない)をはじめとして、多分余りにも意味がない。
価値論、疎外論、物象化。モノガタリとしては面白いし趣味者としてのネタとして遊ぶことを辞めるつもりはない。だが、そんなところに「真理」を求めない。いや、であうかも知れないが。
問題は、マルクスのパトス、その行為のデュオニュソス的無茶苦茶なのだ。彼自身の人生なのだ。それは、疎外され、挫折し、騙され、騙し、金銭感覚がないがゆえに極貧になりながらも、それでも過剰な自意識を徹底的に満たすために、そして何よりも人生の持つ哀しさ、弱き者への徹底した共感、それ以上に実際には誰よりも<力>を持ったものを、その<力>に相応しいところに置こうとした意志、「権力への『意志』――それは個人のものではなく、マルクス流に言うならば“類”としてだ!」を体現した狂人・超人としてのマルクスなのだ。
マルクスは、経典ではなく、小説として読まれるべきなのだ。いかなる小説も、人間の持つ哀しみを感じざるを得まい。一つの行き着くところまで行き着いたマルクスや、レーニンを批判することは正直たやすい。だけど、そんなことは「面白くない」のだ。
Isn't he a bit like you and me?
「あ」氏もマルクス・レーニンも。