『社会主義の誤解を解く』(薬師院仁志著、光文社新書=507)
当たり前だが、社会主義思想はマルクス主義の専売特許でない。嘘だと思うなら、『共産党宣言』を読めばいいw ま、冗談はさておき、現代の社会主義の主流は、社会民主主義と呼ばれるべきものであろう。それを中心にこの本は論じている。ま、小生は極右兼極左なので、社民主義には批判的だが、この本の解説は良いと思う。だが、結論的には著者に同意しない。
「はじめに――社会主義とは何か――」で、価値判断以前に客観的に社会主義を捉えることを著者は訴える。今までは賛成、反対を問われ、イデオロギーが先行する形で提示され過ぎだった、と。そう思う。そして、資本主義のオルタナーティブとして社会主義は選択肢たりえると言う(というか、他ないやん、と。) ま、「要素」としてアリというふうに小生は理解している。そしてオルタナとして大衆に受け入れられるには、恐ろしく長い紆余曲折の道があろうことは、本書の示す社会主義の歴史が示すことであろう。
第一章は「社会主義と資本主義」と題して。社会主義の定義は「生産手段の私的所有の否定」とする。生活手段は私有しる。その生活手段は、歴史的な過程を経て社会的に形成されている。だが、その果実は私的に所有されているという矛盾。イロハである。生産手段へのアクセスで、労働者と資本家に大別される。労働者は矛盾に直面するが、すぐに社会主義に与したわけではなく、まずは労働運動を行った。状況に心を痛める知識人は小所有者が社会主義運動を行った。お互いの必要から、両者は手を組んだが、そこには矛盾が孕まれており、その後の軋轢は必然的であった。資本主義も社会主義も純粋には観念に過ぎない。侠雑物を含むことで実体化しているということは忘れてはならないだろう。そして歴史的に出来たものである。資本主義が矛盾に苦しんでいるからこそ、社会主義は必要とされるであろう。
第二章は「社会主義思想から社会主義運動へ」と題して。ロバート・オーウェン。サン=シモン。プロレタリアートを「発見」し、物的基礎を捉えたとされるマルクス。あれ? マルクスは社会主義者と区別するために共産主義者を名乗っていたよね(『共産党宣言』)? 著者はデュルケムの定義に従っているな。デュルケムによると「共産主義:私有財産制の否定と共有財産制の実現」「社会主義:生産手段の社会的所有」。 うーん、マルクスマニアの俺に言わせれば、この定義に従っても、やっぱり、マルクスはまずは共産主義者であって、社会主義者じゃないな。「自由な諸個人の自由な諸連合」は「生産手段の社会的所有」なのか? ともあれ、言葉に拘ることはマニアックだという著者の指摘は妥当。マニアだから許してね。さて。労働運動の歴史。囲い込みから都市プロレタリアの発生は神話とされるが、実際に都市住民が農村から流れ込んだのは事実。王政の時代、貧乏は一定救済されたが、自由主義が跋扈すると自己責任にされた。自由主義なる観念より、救済という現実が大事だ。最初に社会主義的に振る舞ったのは、実は貴族などの古いシステムを代表する人たち。なお、資本主義の原理からすれば、女性も子どもも「一つの労働力」に過ぎない。その破滅性は説明するまでもなかろう。資本主義の外部だけが女性や子供を保護出来る。経済問題に政治が重要な所以である、って、エンゲルスかよ! なお、頭の悪い自由主義者(「ペテン師」と読め)は今も昔も「慈善で十分」というが、世間を知る普通の人は「そんなわけないやん」。システムの問題なのだ。フランスの労働運動は、ル・シャプリエ法により「個人的自由を侵害する」として弾圧された。背景に『社会契約論』。だが。まずはイギリスで、自由主義者の頑張りにより団結権が認められる。(同時に主従法が強化されたが)そして熟練工による労働組合があちこちに結成される。この頃、古い支配層(地主)と新しい支配層(資本家)は、「自己責任」で貧困問題を「解決」。「慈善事業で十分」だが、そんなわけにはいかない。イギリスの労働者は「外部」への関与を求め、普通選挙権を求める運動を起こす。これがチャーチスト運動であり、今の労働党に繋がる。
さて、フランス。フランス革命は、民衆が暴動を行い、エリート層がイデオロギーで影響力を発揮し、革命の果実を奪った。でも、エリートも様々。ルイ・ブランのような社会主義者もいる。彼らは先駆者として、影響を与えたかも知れないが、微弱であった。だが、大枠では、フランスでは一八四八年にはすでに資本家は既得権益を有する支配者と位置づけられた。ここに労働者vs資本家の図式が浮かび上がった。
第三章は「社会主義運動の展開」と題して。イギリスの熟練労働者運動は、彼らの権益を守る運動となり、労働者間の格差を齎した。彼らは選挙権を求めたのは先に書いたとおり。だが、技術革新は熟練労働者の没落を引き起こし、熟練・非熟練を問わない一般組合を齎した。これは社会主義者の主導で作られたが、別に労働者階級が挙って社会主義者になったわけではない。
一八四八年の都市での革命騒ぎがあったフランスでは社会主義思想が広まっていたが、当時はほぼ農村。フランスの資本主義の発展に必要な労働者は移民としてやってきた。一九三一年(!)には、産業労働者の約六割が外国人という国。外国人は差別と嫌悪の対象。「万国の労働者は団結せよ!」という、知識人による第一インターの叫びは、まさに「未来を代表する」ものであった。一八五二年からナャ激Iン三世の治世。サン=シモンの影響を受けた三世は、計画経済も採用し、経済は発展した。政治的思惑もあり、経済自由化に打って出る時、熟練労働者の待遇改善を図る。面白いのは、一八六二年に国費で労働者八〇人をロンドン万国博覧会に派遣し、その労働者がイギリスの労働者と出会うことで第一インター設立に繋がったということ。というわけで歴史に輝かしい第一インターは上層労働者の組織であり、ナャ激Iン三世の後押しがあったこと。だが。マルクス起草の規約に「政治権力の奪取」が書かれ、三世は第一インターのパリ支部を閉鎖する。だが。熟練労働者への懐柔策は継続。一方。スト権・団結権が与えられた下層労働者はストを起す。大規模ストに対し、第一インターは支持を与え、第一インターはフランスの労働運動に入って行く。パリ・コミューンは所謂「プロレタリアート」の運動でなかったのは、歴史的事実。小生は、逆に、マルクスの言うプロレタリアートが、「労働者」という範疇に入らないことを示しているのだと思う。また、マルクスは「民主主義」を拒否したのではなく、どのような民主主義――前提となる法措定暴力がどのようにあったか――であるかを問題にしたと理解する。著者の考えは間違いではないが、だが、同意はしない。結局は、<力>が全てを決定するのだ。マルクス主義に今でも価値があるとすれば、その点の理論展開において、だ。別に民衆はエリートの考えの犠牲になったわけではない。エリートの考えに未来を賭けたのだ。今でもパリコミューンの記念日には、パリは花で埋め着くされるらしい。無垢の大衆史観には、いい加減うんざりだ。ただ、ブルターニュについてのコラムはいいね。これを思い出した。
http://red.ap.teacup.com/tamo2/1070.html
イギリスの労働運動は議会主義を採用し、その土壌から社会主義者がフェビアン協会を産む。考えようによっては持久戦による革命団体の先駆。当時マルクス主義者によって行われた批判は、「社会主義革命は社会の外部から齎されるもので、社会の内部による社会主義の浸透は論理的に矛盾している」ということか。小生は、内部のドンツキこそが「外部」だと思うが、それはともかく、改良主義と革命主義は矛盾を孕んで「勝った者勝ち」という歴史を示すであろう。バーナード・ショー、ウェッブ夫妻がフェビアン協会の活動家として歴史に名を残す。彼らの社会主義は、再分配に主眼があることもまた、マルクス派との違いだね。で、「原資」を巡り、イギリス帝国主義に包摂される。そして第一次世界大戦では社会排外主義の柱の一つとなる。労働者は社会福祉(再分配)を通じ、愛国心に根拠を与えられ、社会排外主義を圧涛Iに支持した歴史は忘れてはなるまい。
さて。革命派と言えばレーニンと共産党。著者によれば社会主義と共産主義は「本家たこやき」と「元祖たこやき」くらいの差であったが、次第に革命派が共産党なんかを名乗るようになり、改良派は社会民主主義を自称するようになる。良く知られるように民主主義の発展が遅れた所では、ガス爆発のように革命が起こるし、それを理論的に支える革命派が力を得る。イギリスでは革命派は力がなく、遅れたドイツでは民主派と社会主義派が同居する中で、改良派が力を得る――ローザ・ルクセンブルクが少数派だったことに注意。修正主義論争もドイツ発祥だった。ドイツでは社会主義運動が先行し、それに遅れて労働運動が発展したらしい。もう一つ、ヒトラーにも採用された運動があった(爆)。戦後の日本の労働運動でも同じことはあったのだが、ドイツの社会民主党は党の事業として教育機関、研究施設、演劇、音楽などを行なった。こうして労働者階級を取りこんで行った。そして、イギリス同様に、社会排外主義の柱の一つとなったのである。
さて。社会主義政党の根本矛盾について筆者は面白い表現を行っている。
既存体制下の議会の中で数としての票を集めて生き延びている政党は、自らが生き残るためにも、既存の政治体制を死守しなければならない。それは、社会主義政党の勢力を確保しておくために必要な戦略であると同時に、社会主義革命の延期や放棄なのである。
(p182)
これはしかし、ドップリとした、レーニン流に言えば「泥を這う」議会主義ではないのか? 革命政党であるならば、議会を重視しつつも、神棚に入れる必要はない。革命は、既存の議会をどういう形であれ、否定することで成立する。小生は、憲法制定会議を武力解散したレーニンを圧涛Iに支持する。
話は第二インターへ。一八八〇年代にフランスでは社会主義および労働運動が活発化する。ル・シャプリエ法が無効化されたことが大きい。フランス革命一〇〇周年の一八八九年にエンゲルス発案の第二インターがペトレル集会でもって設立される。が、正式名称はなく、一九〇〇年末にブリュッセルに事務局が置かれるような団体だったらしい。革命派によって出来た第二インターには、改良派も合流した。だが、第一次世界大戦では上に書いたように、労働者は自国帝国主義に包摂され=革命左派の言うような屈服では断じてない!=、社会排外主義によって第二インターは崩壊した。レーニンの書物に詳しい。世界大戦の危機に対して警告を続けた第二インターの精神を持ち続けたのはレーニンら少数であった。だが、レーニンは決して平和主義者ではなかった。「戦争の危機を内乱へ転化せよ!」 さて。再び著者は一面正しくもあるが、必ずしも同意できない文章を書く。それは今、全世界を覆う経済<戦争>の兵士として同意できないのだ。著者の認識は古きよき発展期の資本主義観ではなかろうか?
産業化が進み、生活水準が高く、政党や結社の自由が保障され、普通選挙が実施されている先進国において、労働者大衆が自ら率先して社会主義革命を起こすだろうか。おそらく、起こさないだろう。そのような国々では、労働者大衆の多くが――最低限度の衣食住を超えて――すでに失うものを手にしているからである。(中略)自らの生活を支える現体制を転覆させる革命など望まない人々なのだ。
(p193)
新自由主義は、社会主義思想に触れる勤労大衆の生活基盤を掘り崩し、破壊していて、国家は無力を曝け出している。国家を超えた社会主義革命の可能性は、そして大衆がそれを望む可能性は、ないと言えるだろうか?
それはともかく。世界で最初の社会主義革命はロシアで起きた。
第四章は「ソビエト共産党の時代」と題して。ロシアでは資本主義が発展していたが、帝政の下のことであり、労働運動は起こっては鎮圧され、大きな力ではなかった。一九〇五年の鎮圧された革命では、ソビエト(評議会)という形式で反体制勢力が結集したが、それは労働運動の脆弱さにもよる。一九一七年の二月革命は、帝政への不満の爆発である自由主義的な革命であった。だが、自由主義者はあらゆる意味において脆弱であった。天才レーニンは四月テーゼで自由主義の臨時政府の打唐iえ、キチガイ扱いをされた。だが、事態はレーニンの予想通りとなり、レーニンは権力の真空を衝き、ほぼ無血の武装蜂起(クーデター)によって権力を奪取した。何が悪い? ある時点から徹頭徹尾人工的な「革命」であり、その人工はレーニンの頭脳から紡ぎ出された。革命直後のレーニン派の「寛容」がその後の混乱を招いたのも事実。チェカーにはそういう背景がある。イスラム圏を中心とする周辺民族の叛乱にもボリシェヴィキは手を焼いた。ボルの犯罪については白井朗氏の労作に詳しい。農民の叛乱も。社会主義・共産主義の流布した神話と現実のロシア革命は全く違っていた。だが、そのことで社会主義の価値は本来減りも増えもしないと筆者は言う。ドイツ革命の流産は、ドイツ社民党(ここでは中央派か?)を支持する民衆によって加担された。ベラクーンとかは略。二一ヶ条の加盟条件で知られる第三インター(共産主義インターナショナル)は、そういう次第で社民主義を敵視する必然があった。そして西欧民主主義に批判的になる必然があった。多くの社会主義組織が右派(改良派)と左派(革命派)に分裂する。
日本共産党は言うまでもなく「国際共産党日本支部」として発足。発足時の拝外主義のすごさは伝説。この組織に引きずられたり引き回されたりして日本の社会主義運動の発展が遅れたのはいまや広く知られるところ。あ、そうだ。ファシズム。ドーチェ・ムッソリーニは終生社会主義者であると自分のことを考えていた。「ファシズムとは、民族の団結を獅ニする社会主義なのである。」うん、中国と北朝鮮のことだね。分かります。ドイツでは共産党と社民党が別々に伸張し、政局絡みで共産党とナチスが共同歩調で選挙をしたりする。結果的に共産党が伸張し、ナチスは反共に転じる。ナチスは選挙で合法的に第一党になったのは言うまでもない話。社民と共同していれば、歴史は変わっていたはず。日本でもルサンチマンとトラウマを強烈に見せ付けながら政治世界で伸張しようとしている人間と、それを利用しようとする古臭い連中がいてるなあ。要注意だね。なお、大恐慌に巻き込まれなかったソ連と、ファシズムの台頭が各国の共産党を押し上げた。フランスでは人民戦線派が政権を握り、選挙により社会主義者の政権が出来る。が、スペインと同じく短命に終わる。大事なのは、選挙を通じて、革命によらずに社会主義政権が出来たという事実である。
第五章は「現代の社会主義」と題して。ナチスドイツに融和的だった英仏はヒトラーの伸張を許した。その背景には反戦平和の声があった。平和主義者が平和を壊すの典型例である。ソ連もナチスと手を組み、フランスでは共産党が非合法化されるとばっちりが。フランスはナチスに支配される憂き目に遭う。そして、ナチスは今度はソ連に攻め入るが、冬将軍を相手に勝った国はない。ナチスドイツの軍隊は文字通り皆殺しに遭うであろう。なお、フランスではレジスタンスの中核として共産党が活躍し、国民の信認を得ていた。一方、米英と協調したソ連は、ブルジョア政府に配慮してコミンテルンを解散した。スペインを除きファシズムの猛威が去った後、資本家政府とソ連は冷戦に入る。共同歩調を取っていた社会主義者も社民と共産に分かれる。時代は下がり、ソ連が崩壊。モスクワの長女、フランス共産党は極小勢力に。今や第四インター系のほうが得票率が高い。イタリア共産党も左翼民主党を経て、今、何かあるの? レーニン組織論は西欧の伝統には合わず、消え去る運命にあった。だが。社民の伝統を継ぐ組織や、あるいは反資本主義行動を行う新左翼系は元気だ。社民系は政権を担うこともある。そして、大事なことは、ソシアル=社会主義的な価値観を、リベラル(右派)も共有しているということである。フランスやスペインでは「ソシアル」な価値観は憲法に入れられている。彼らの社会主義理念はソ連とは関係ないのである。ちなみに、日本の自民党もかつては「ソシアル」を内包していたが、近年それをなくしていることが、彼らが政権から追われた大きな理由だと小生は思う。
ネオリベというドアホ思想が大手を振ってまかり通る巨大国家がどんな悲惨なことになっているかは書くまでもなかろう。で、日本。社会主義=マルクス主義という図式が長年まかり通ってきた日本では、外来のマルクス主義を土着させることに正直失敗した。その点では共産党も社会党も新左翼も変わらない。今、かもがわ出版のおっちゃんが頑張ろうとしているが、応援したが、どうなるんかな。さて、著者は社会党を西欧社会主義の伝統とは別物と切って取るが、それはどうかな? 山川イズムを評価する人間としては、問題はそこではなく、理念を立てる作業も消化する作業も、要はイデオロギーを突き詰められなかったところにあるのではないだろうか?「民主憲法」を護れといいながら、日本国憲法には「民主」の言葉がない、というのは鋭い。日本共産党に対する批判は正当と思う。コミンテルン日本支部であることから脱却するのに苦労したミヤケン時代、その成果があるならば党名変更こそが筋だろうと小生も思う。社民党はお笑い政党なので無視しようっと。
で。日本の社会主義政党の凋落は抵抗勢力でありこそすれ、社会主義的(ソシアル)な勢力ではなかったため、と筆者は言う。あわせて自由主義的(リベラル)な勢力の欠如、も。そうかな。どうして、西欧的規範にあわせて考えなくてはならないのだろうか。極右兼極左という、筆者から見たら許しがたいであろう立場の小生は、上に書いたように「土着イデオロギーの欠如」に理由があると思うのである。
また、どんなに民主主義が成熟しようとも、システムのドンツキは革命を欲する可能性がある。最も民主的な体制である共和制も革命に至ると言う革命必然論は、『国家と革命』にある通り。小生は、革命派と改良派の「対立」ほど下らないことはないと思う。どちらも必要、ということで終了。